地元中学校の体育大会2009年10月01日

 朝から快晴だ。昨日の雨で今日に順延となった地元中学校の体育大会に出かけた。受付で民生・児童委員への案内状を提示し記名を済ませると来賓席に案内された。すでに顔見知りの顔ぶれが着席している。
 9時15分定刻に生徒たちの入場行進が始まる。何十年ぶりの運動会だろう。イマドキの運動会では、入場門はENTRANCEに、退場門はEXITに置き換わっている。還暦過ぎたオジサンには抵抗感がないではない。国旗・市旗掲揚、校歌斉唱、校長の言葉、生徒会長挨拶、生徒宣誓と開会式のセレモニーが続く。女生徒の生徒会長に男生徒の体育委員長の宣誓が興味深かった。
 演技が始まった。全校生徒によるラジオ体操の後、スペシャルリレーがスタートした。何のことはない、障害物競走だった。続いて100m走になる。クラス対抗競技である。グランド半周の競争はクラス選抜のランナーに違いない。目前を走り抜けるランナーの思わぬ迫力に思わず拍手で声援してしまう。男子の学年別徒手体操、組体操や女子のリズム体操やダンスが徒競争やリレーの合間に繰り広げられる。
 1時間の昼食休憩の後、午後の部が始まる。近くの食堂で食事を済ませ戻ってみると、殆んどの来賓の姿が見えない。午後の部の最初の三つの演技を観たかった。最初は山口町の伝統芸能・袖下踊りである。町の古文化保存会、民謡グループ、婦人会、生徒、PTA、教職員の有志が四つの踊りの輪をつくる。プログラムには「音頭:阿波の重朗兵衛口の段」とある。演台では大太鼓、小太鼓のリズムに合わせて音頭取りの口上が続く。次の演技は吹奏楽部のドリル演奏だった。行進しながらの演奏はなかなかのものだった。その次の演技は部活動行進だ。12の体育系クラブの3年生がユニフォーム姿で一斉に行進する。行進順にそのクラブのこの1年の成績などが紹介される。
 この頃には我が子や孫の活躍を観たりレンズにおさめようと来賓席の回りも保護者たちで埋められてきた。来賓たちの午後の部の行動様式もこうしたことへの気遣いだったのかもしれない。そうとわかれば長居は無用と判断した。久々の運動会風景の浮き立つ気分をひきづりながら会場を後にした。

復刻版日記④カメラはどこだッ!2009年10月02日

 夫婦だけの1泊2日の小旅行に行った。行く先は開通間もない明石海峡大橋経由の四国の旅である。
 初日の泊りは松山「道後温泉」。お目当ての『道後温泉本館』近くのホテルにチェックイン後、早速散策。道後温泉駅前の「坊ちゃんカラクリ時計」の精巧さと演出の巧みさに感嘆。土産物屋の並ぶ道後商店街をそぞろ歩き。
 そしていよいよ「坊ちゃん温泉」に。「本館」正面入口で木戸銭の支払って「霊(たま)の湯2階席・980円也」のチケットを求める。芝居小屋の舞台裏のような通路を伝って「霊の湯2階席」にたどり着く。ここで浴衣に着替え、係りのおばさんに貴重品を預ける。引換えに平の金属のワッカ(ブレスレット?)を貰う。中二階の「霊の湯」にようやく到着。浴室自体は「20畳位のスペースに縦横3m×6m位の湯船」といった意外と小ぶりな造り。旅の垢を落とし湯船で手足を伸ばし、ゆったり気分満喫。・・・とここまでは物珍しさ以外は何事もない穏やかな旅情のひとこま。
 突然風景が一変した!背後から二人の入浴客の気配。ふと見ると腕に何やら墨模様。不吉な予感。二人連れは、小生を挟むように左右の湯船の縁に腰掛けて一服。そこで発見。デタ~ッ背中一面の見事な彫り物。右側の50前後の幹部風は「不動明王」が目を剥いている。左側の20代後半の優男は「昇り龍」がとぐろを巻いている。これは悪夢か?はたまたドッキリカメラか?ならばカメラはどこだッ!
 それにしてもこれほど間近にかくも見事なクリカラモンモンを目の当たりにするとは!もちろんジロジロ眺めるほどの度胸もない。「見事なもんですな~」などと話かけてみたい衝動にかられたものの実行に移すなど及びもつかない。横目でチラチラ盗み見するのが精一杯。彼らの入場直後の退場も何やら危険な予感。ここは一番、「やれやれよく浸かったな~」という雰囲気での退場が肝心・・・などとあらぬことを計算しながら、ことさらゆっくり退場。
 「霊の湯2階席」で入浴後のくつろぎ。見事な塗り物の茶托にもられた煎茶に名物の煎餅を賞味。(ガイドブックによればこの茶托は輪島塗りで今作ればナント7万円もするとか。湯飲みも砥部焼きとのこと。
 思わぬハプニングに日常生活から隔絶した旅のもたらす面白さをあらためて実感。これはヤッパリ日記に書いておこう!(1998年6月11日)

天台寺門宗総本山・園城寺(三井寺)2009年10月03日

 昨日から労働委員会の会合で滋賀県大津市の琵琶湖ホテルに出かけていた。今朝7時頃に朝食を済ませ、7時半過ぎにチェックアウトした。ホテルから徒歩20分位の所に三井寺があると公益委員の同僚から教えられていた。フロントもらった散策マップ片手に出発した。
 京阪・石山線の浜大津駅、三井寺駅を横目に琵琶湖疎水沿いの道を進む。三尾神社横の道の正面にようやく総門が見えた。朝8時前の拝観受付で係りのおじいさんにチケットを求め、順路を尋ねる。渡された拝観順路図を示しながら閼伽井屋(おかいや)の「左甚五郎の龍」を見落とさないようにとアドバイスされる。
 総門左手の長い階段を上った先に西国三十三箇所観音霊場の第十四番礼所・観音堂があった。お参りを済ませ北方向の中心部の伽藍に向う。林に囲まれた丘陵地に左右に石仏が並ぶ参道が続く。大師堂、潅頂堂、三重塔からなる唐院と呼ばれる開祖・智証大師の廟所を訪ねる。続いて一切経蔵があり中に入る。堂内には八角の巨大な回転式の経蔵がある。薄暗い堂内の経蔵を一周する。続いて弁慶の引き摺り鐘と呼ばれる梵鐘が納められたお堂があった。中に入り土台に固定された梵鐘に手を触れてみる。その先に巨大な伽藍があった。国宝の金堂である。関が原の戦いの前年に秀吉の正室・北政所によって再建されたものだ。堂内に入りお参りを済ませる。建物正面には「三井の晩鐘」で有名な梵鐘を納めた鐘楼がある。金堂正面の階段を降りた時、何か引っ掛るものがあった。参拝受付のおじいさんの言葉が浮んだ。左甚五郎の龍を見落としていた。慌てて順路図を確かめて引き返した。金堂の裏側に閼伽井屋があった。これでは見落としがちな筈だ。格子戸から中を覗くとしめ縄を張られた石組みがあり、湧き水が音をたてていた。この湧き水が天智・天武・持統天皇の産湯に使われたことが「御井の寺」と呼ばれるようになり、それが転じて「三井の寺」になったという。格子戸の上には確かに「左甚五郎の龍」がとぐろを巻いていた。金堂正面の仁王門をくぐり参拝を終えたのは8時40分頃だった。
 そこから南の方向にマップ頼りに20分ばかりを歩いて9時前にJR大津駅に着いた。朝のウォーキングを兼ねた爽やかな1時間半の散策だった。

リオ五輪決定の背景は?2009年10月04日

 昨日の朝刊各紙はトップニュースに2016年の夏季オリンピック開催地決定を伝えた。シカゴ、マドリード、東京と並ぶ招致4都市の混戦から抜け出したのはブラジルのリオデジャネイロだった。今回の招致都市では唯一の先進国以外の都市である。そして何よりも南米初めての開催である。落選した東京の敗戦分析記事を読みながら、オリンピックとは何なのかを考えさせられた。
 オリンピックは今や世界最大のビッグ・イベントとなっている。最大のイベントを招致する側の目的は、何よりもその経済効果だろう。かって東京五輪が日本の経済成長を離陸させる上で果たした役割は大きい。ソウル五輪も韓国に同様の効果をもたらした。直近では北京五輪が中国の経済大国に向けての一段の飛躍をもたらした。リオ五輪はBRICsの一角として成長著しいブラジル経済を更にステップアップさせる効果を果たすにちがいない。過去の29回に及ぶ五輪開催地を紐解くと、欧米諸国を除く開催国のほとんどはこの経済的離陸に貢献してきたことがわかる。その意味では今回のリオ五輪もその一環とみることができる。
 一方、主催者側であるIOCの選択基準は何か。五輪はイベントであると同時にビジネスである。五輪というイベントが将来に向けてビジネスとしても成長発展できるような投資効果を考えなければならない。その核となる狙いは地球レベルでスポーツ人口の裾野を広げることである。「南米初の五輪開催」という大義が今回の決定的な選択基準であったことは疑いない。今回のIOCの決定が南米という巨大マーケットで将来に向けてのスポーツ人口拡大に果たす役割は大きい。
 他方で五輪開催は開催国の国威発揚と政権強化の側面を持つことは北京五輪で記憶に新しい。反面、世界規模でメディアに晒されることで開催国の実態が露呈するという効果が、その国の民主化に寄与するという点も否定できない。南米の市場経済は今、岐路に立たされている。国家資本主義ともいえる権力志向の強い経済体制が新たな潮流として浮上しつつある。その流れが国際的に新たな紛争の火種をもたらしかねない。リオのカーニバルに象徴される自由でおおらかな風土を持つ南米最大の国ブラジルでの五輪開催のもうひとつの意義がここにあるように思う。新たな紛争の火種を消し去る上でもリオ五輪の成功を祈りたい。それが南米に健全な市場経済の流れを根づかせることにつながると思うから。

公智神社の秋祭り取材準備2009年10月05日

 朝のウォーキングで上山口の旧街道沿いの公会堂前にきた時だ。玄関前に大きな看板が立てかけてある。今週末に催される公智神社の秋祭りの案内だった。
 1週間前の山口地域フォーラムで100人余りの地元の皆さんにHP「にしのみや山口風土記」をプロジェクターでプレゼンした。その際「今年の秋祭りの模様も祭りの世話人の方のご協力を得てぜひ取材したい」とアナウンスした。先日、民生委員の同僚でもある下山口の知人から早速連絡をいただいた。祭礼の世話人のひとりで先月の丸山稲荷の八朔大祭の取材でもお世話になった方だ。今回の秋祭りでも取材のお手伝いをしたいとの有難い申し出だった。お言葉に甘えて事前の祭礼の式次第やダンジリの運行スケジュールなどの資料入手を依頼した。折り返しFAXで数枚の資料を送信してもらった。
 公智神社の秋祭りは五つの地区(旧村)の7つのダンジリが境内に参集する壮大な絵巻である。観客の目で眺めた模様をHP「風土記」にアップしている。もっと突っ込んだ主催者側にまで入り込んだ取材でその舞台裏も含めて浮かび上がらせたいと思っている。週末の宵宮と当日の取材が楽しみである。

高齢者宅の訪問活動のやりがい2009年10月06日

 民生委員の最大の役割である高齢者宅の訪問活動に汗を流した。32軒を3回に分けて訪問できた。二回目の今回は、多くの人と顔なじみになり初めてだった昨年よりはるかに気分的にゆとりを持って訪問できた。担当地区の訪問先131軒の内、80%以上が完了した。
 多くは門扉の前での立ち話だが、中には玄関先でご夫婦との懇談になったりする。「四国巡礼八十八箇所巡りの途中なんです」といった話題にも花を咲かせる。年配のご婦人との世間話は必ずしも得意な方ではない。それでも相槌を打ちながら長話を交わしている自分にふと気づかされる。「ご無沙汰してます。ご苦労様です。頼りにしてますので・・・」などと声を掛けてもらうと、この役割を引き受けて良かったとつくづく思う。
 そんな気分に浸りながら小雨の中の住宅街を1万歩以上回遊した。

塩野七生著「ローマ人の物語35」2009年10月07日

 恒例の秋の読書シリーズ「ローマ人の物語」がやってきた。平成14年6月1日の第1巻発行以来、毎年3巻づつ発行され、7年を越えるシリーズである。今年も「最後の努力」を共通タイトルとした35、36、37巻が9月1日に発行された。
 「迷走する帝国」のタイトルで3世紀のローマ帝国の迷走ぶりを描いた前3巻の後を受けた35巻は、284年に就任した皇帝ディオクレティアヌスの「迷走からの脱出」物語である。皇帝ディオクレティアヌスが直面した最大の課題は「安全保障」と「帝国の構造改革」だった。
 安全保障は「敵」への対策である。東のペルシャ帝国、ライン河、ドナウ河の北の防衛線から侵入する蛮族、帝国南辺の北アフリカ一帯の砂漠の民の襲撃への対処が迫られていた。ディオクレティアヌスはこの問題に「二頭政」、更に「四頭政」の導入という形で手中にした帝国皇帝の最高権力を分与することで対処する。広大な帝国を二人の正帝で東方と西方に分担し、更にそれぞれに副帝を配して分割し、合わせて四つのエリアに分担統治したのである。即ち四人の皇帝が軍事面の担当地域を明確にした上で共同して帝国全体の防衛にあたる体制とした。それは帝国が抱える兵力を倍増させる結果を招くことになる。それまでの帝国はローマ街道を駆使して長大な防衛線を必要に応じて融通し合うことで驚くほど少ない兵力で維持していた。縄張りを導入した「四頭政」はこの流動性を断ち切ることになり、結果的に各縄張りごとの兵力増強を招く。「四頭政」導入を境に兵力は30万人から60万人に倍増する。
 次の問題は「帝国の構造改革」である。初代皇帝アウグストゥス以降の帝政は「元首政」と呼ばれ、ディオクレティアヌス帝以降の「絶対君主政」と区別される。混迷の3世紀後半を生きたディオクレティアヌスは、帝国の維持には統治の安定、ひいては皇帝の地位の安定が不可欠と考えた。そのため彼は「ローマ市民中の第一人者」を意味する「元首」から「絶対君主」への転換を目指した。「四頭政」とはあくまでも防衛面の分担であり、帝国全体の政治は四頭の第一人者たるディオクレティアヌスに決定権があった。何よりも彼はローマ帝国を四分割する考えは全くなかったのである。とはいえ「四頭政」はそれぞれの防衛線に容易に駆けつけられる地に四つの首都が設けられ、それぞれに増強された軍団と統治機構が配されることになる。こうした兵力と官僚機構の肥大化を賄うものは税制改革という名の増税でしかない。地租税と人頭税という直接税主体の重税が課せられることになる。ディオクレティアヌスは軍事力増強によって蛮族の侵入をくい止めるのに成功した。ところが農民たちは蛮族から逃げる代わりに税金から逃げる必要が出てきたのだ。帝国崩壊に至る構造的な矛盾がひたひたと迫っているようだ。
 高校時代の世界史でローマ帝国が東西に分割され、西ローマ帝国の滅亡により古代ローマが最終的に消滅したことを学んだ。ところが消滅の第一歩となった東西分割の経緯は記憶にない。35巻はその予兆としての四頭政を詳述し、紀元305年のディオクレティアヌス帝退位の年で巻末を迎えた。紀元476年の西ローマ帝国滅亡による物語の終末まで残り171年である。

台風の夜の子供の頃のワクワク感2009年10月08日

 未明の4時過ぎに目覚めた。寝ぼけた意識の中で台風18号が通過している筈だと思った。雨戸を打つ筈の雨足の音や風の音も聞こえない。二度寝のむなしい試みを断念して、結局4時半に床を離れた。
 6時前に早朝散歩に出かけた。不気味な鉛色の空から小粒の雨が台風の余韻を残す風に煽られて舞っていた。有馬川の水かさが一気に増え、堰を流れ落ちる濁流の轟音が台風一過の風景を描いていた。灰色の流れの中で純白の小鷺が流れに逆らうように踏ん張っていた。黒い川鵜が川下から舞い降りたかと思うと流れに身を任せて流されていく。
 
 子供の頃、台風の夜は奇妙なワクワク感を抱きながら布団を被っていた。釘を打ち付けた木の雨戸から吹きこむ隙間風、強風に煽られた物置きのトタン屋根のハバタキ、屋根や雨戸を打つ激しい雨足の音、強風の大きな唸り声・・・。実家の古い木造家屋には、密閉式の今の我が家には聞こえない様々の音が入り込んでいた。安全な布団の中に居ながら、台風がもたらすそれらの非日常の音を何故か楽しんでいた。ハラハラしドキドキしながらワクワクしていた。
 昨晩、とっくに成人を迎えてしまった娘に尋ねた。「子供の頃、台風の夜はワクワクせんかったか?」。「あるある。明日、休校にならへんか思うて・・・」。「ン・・・!?」。密閉式住宅しか経験のない世代に、台風の夜のトキメキ感を期待する方が間違いと知った。

慌ただしい地域での有意義な一日2009年10月09日

 朝11時から夕方5時まで地域活動が重なった。11時から12時までは社協の赤い羽根共同募金で住宅街の中のスーパーの店頭に立った。高齢者実態調査の訪問直後でもあり、何人かのお年寄りから「ご苦労さま」と声をかけられ、募金して頂いた。徐々に地域に溶け込んでいる実感を味わった。
 自宅で昼食を済ませた後、着替えて1時からの葬儀に出かけた。地区民生委員の同僚のお母さんの告別式だった。旧来の街の葬儀参列は初めてだった。葬儀後そのまま会議出席があったのでダークスーツに黒ネクタイで参列したが、会場に行ってみて驚いた。男女とも全参列者が見事に喪服で統一されている。村社会の共同体意識の強さを垣間見た。
 3時からは月1回の民生委員地区協議会の定例会だった。会議後、先月の地域フォーラムのプロデューサーだった同僚民生委員からフォーラム結果のまとめの資料をもらった。参加者の感想アンケートのコピーがあった。私のHP「にしのみや山口風土記」のプレゼンについても感想が寄せられている。「歴史のある町に住んでいるのだとうれしくなりました」「早速、自宅でHPを見ます」「地域を愛する熱意が伝わりました」「このHPを地域で組織的に支える取組みが必要だと思いました」などのうれしい感想に胸がときめいた。山口の活性化取組みに深く関わっている様子の同僚民生委員からも今後の協力を求められた。
 慌ただしい地域での有意義な一日だった。

公智神社秋祭りの前日の準備2009年10月10日

 公智神社の秋祭りの前日である。山口最大のイベントといってよいこのお祭りを一歩踏み込んだ全貌をHP「にしのみや山口風土記」で伝えたいと考えた。事前に下山口の祭礼の役員である知人に取材の了解を得てスケジュール等の資料も貰った。
 今朝8時から公智神社で下山口壇尻の安全運行祈願が行なわれた。公智神社本殿には自治会の関係者や宮本会と呼ばれる壇尻運行の保存会のメンバーが参集する。宮司の司祭で安全祈願の祈祷が進められ、自治会と宮本会の代表者が玉串を奉納する。
 終了後、関係者が3グループに分かれて一斉に祭礼準備に取り掛かる。「徳風会館に納められている大壇尻の引取り」「宮前通りの献灯柱の設営」「豆炊き」の分担のようだ。御旅所近くの壇尻庫から献灯柱が引き出され設置準備されている様子を観察した足で徒歩数分の徳風会館に向った。
 徳風会館内の郷土資料館の「祭り」をテーマにした第3展示室には山口5地区の壇尻が毎年交互に展示されている。今年は最も大きい下山口の壇尻が展示されていた。行ってみると展示中だった下山口大壇尻が既に展示室から引き出され、運行用の木製車輪(通称ハマコロ)の取り付けが進められていた。面識のある徳風会理事長と懇談した。この壇尻が造られたのは江戸時代ではないかと言われているとのこと。とてもそれほどの年代のものと思えないほどにツヤツヤした材質である。毎年の運行に合わせて行き届いた手入れが行なわれているようだ。取り付けが終わり、鐘、太鼓の祭囃子が始まると、一斉に推し手たちが壇尻の所定の位置に取り付いた。「ワッソーライ」「ソーレ押した」「ソーレ引いた」の掛け声に合わせて壇尻が動き出す。会館前の道路に出た壇尻はここで90度に方向転換する。これが大変だ。何しろ木製の幅広で大きな車輪は直進しか叶わない。人力で一気に道路をこすって回すほかはない。ひと際掛け声に力が入る。ガガーッという摩擦音と壇尻のきしみ音がして回転した。壇尻は30分ほどかけて下山口の壇尻庫まで運行される。ここでこの後、壇尻の飾り付けが行なわれる。
 途中で一服した下山口会館では、壇尻の押し手をはじめ運行関係者に振舞われる大量の黒枝豆が焚かれていた。なぜ枝豆なのかその由来は特に伝わっていないとのことだった。御旅所横の宮前通りには既に献灯柱の設営が済んでいた。5時からの宵宮に向けて着々と準備が進んでいる。