公智神社秋祭りの宵宮2009年10月11日

 公智神社秋祭りの前日の昨晩、下山口壇尻の宵宮を密着取材した。5時前に御旅所近くの下山口壇尻庫に行く。飾り付けを終えた小壇尻に小学生の男の子たちが乗り込んでいる。面識のある世話人に聞いてみた。壇尻に乗れるのは予想通り男の子に限られているとのことだった
。農耕社会の伝統行事では今尚、男女共同参画社会は無縁の理念のようだ。
 5時になると代表者の挨拶を皮切りにいよいよ運行開始となる。50人ほどの押し手や運行世話人が所定の位置につく。鐘太鼓の囃子に合わせて掛け声がかかり動き出す。壇尻庫前の旧街道に出て南に向う。街道沿いの家々の軒先には御神灯の提灯が灯り、祭り囃子の音色に誘われた家人たちが戸口で迎える。コンコンチキチンッ・・・トントン・・・と繰り返される鐘太鼓のお囃子の音色とリズムが永年に渡って胎内に沁み込んだ住民たちの血を湧かせてしまうのだろうか。10分ほどで下山口の南端の山口センターに到着する。ここで折り返して同じ道を北に向う。
 運行経路で唯一の信号のある大通りに差しかかった。青信号に変わるのを待って一気に渡り切らなければならない。壇尻の屋根に登った二人の屋根係や運行責任者が方向を整えるために口々に声を掛ける。「タオジッ、タオジッ!」。東西南北の方向指示は、東は宝塚、西は田尾寺、南は有馬、北は三田で表現される。この街に永年住み着いた押し手たちには方向を示す地名の方がよほど判りやすいからと運行責任者から教えられた。信号が変わり合図とともにお囃子がテンポアップし、スピードを上げた壇尻が渡り切る。
 下山口の北端近くの農協支店前に到着した。壇尻が地区の南北を20分ほどかけて縦断したことになる。ここで折り返して、御旅所前に向う。壇尻の通過を待って献灯柱の御神灯が吊るされ灯りがともる。御旅所前の旧街道と宮前通りを結ぶ三叉路に到着した。ここで壇尻は停車したまま動く気配がない。宮前通りの向こうから壇尻の灯りが近づいてくる。宮入を終えた上山口の壇尻だった。二地区の壇尻がこの三叉路で行き交うのが例年の手順として申し合わされているようだ。上山口の大小二台の壇尻が通過した宮前通りを、下山口の壇尻が正面の公智神社を目指す。
 公智神社前の大鳥居の手前で停車する。神社前の車道とその向こうの境内に繋がる傾斜を一気に押し上げる準備が必要なのだ。運行係が車両の通行を止め、合図を待って壇尻が一気に境内に押し上げられた。壇尻が本殿正面に停められ、今年の宵宮の宮入が6時25分に無事終了した。居合わせた者全員の大きな拍手が巻き起こる。「確かにしんどくて大変なことをやっているんですが、やり遂げた後の達成感は何物にも変えがたいものがあるんです」。運行責任者の言葉が心に沁みた。
 ちなみに宵宮での壇尻は、下山口と上山口の二地区のみの運行である。本番の予行演習も兼ねて数年前から始まったようである。

公智神社秋祭り・・・7基の壇尻の宮入2009年10月12日

 昨日、公智神社秋祭り当日の模様を取材した。各地区の壇尻と並んで祭礼のもう一方の主役は神輿である。いつもは境内北側の神輿庫に納められている。朝10時、境内には各地区から派遣された担ぎ手たちが集合した。五地区の輪番で選ばれた責任者からの説明と指示の後、神輿の組立てが始まった。神輿を設置する土台の柱が組立てられ、神輿庫から担がれてきた神輿が据え付けられる。40分ほどで組立てが完了した。境内南側の社務所前では獅子舞奉納の舞台が土と茣蓙で準備されている。境内を出ようとした時、お年寄りご夫婦に尋ねられた。「お祭りはいつから始まるんですか。北六甲台に住んでるんですが、初めてこのお祭りを見るもので・・・」。山口町の旧五地区の住民の公智神社の氏子たちのお祭りである。町内の新興住宅街には、このお祭りを案内する手立ては何もない。山口全体のことを考えれば秋祭りの案内もせめて自治会の回覧板で廻せないかと思った。
公智神社を後にして下山口壇尻庫に寄ってみる。9時から行なわれていた大小二基の壇尻の最後の飾り付けが終っていた。
 12時、下山口壇尻庫前に大勢の押し手たちが集合した。白色で統一された股引、下着、地下足袋に青の法被を着用し、首に豆絞りをかけた揃いの衣装である。ほどなく小壇尻が少し間を置いて大壇尻が町内運行に出発する。各地区の壇尻も同じように一斉に町内を運行している。
 同じ頃、車両通行禁止となった公智神社前の道路では、既に多くの露店が軒を並べて開店している。境内には飾り付けを終えた神輿が鎮座し、静かに出番を待っている。
 午後1時には社務所から祭礼の参列者が姿を現わす。宮司や禰宜、和楽の奏者、礼服姿の主賓たちである。きらびやかな装束に身を固め天狗の面を首から下げた人物(天狗さん)がひと際目につく。拝殿前の石段での集合写真の後、境内のしめ縄で区切られた一角で祭礼が始まる。黄色い直垂(ひたたれ)に烏帽子姿の神輿の担ぎ手たちも参列する。玉串奉納などの一連の祭式を終え、参列者が拝殿に入場する。神輿が拝殿正面に据えられ宮司による祈祷が行なわれる。
 1時45分、天狗さんを先頭に祭式参列者が列をなし御神輿を先導する。御旅所への御神輿巡行を意味する「神幸祭」と呼ばれる祭礼である。宮前通りを15分ほどかけてゆっくりと巡行する。御旅所中央の石造りの神輿台に御神輿が載せられ祭式が始まる。祈祷の後、神社から運ばれた米、お神酒、野菜、魚などの供物が供えられ、祝詞奏上、参列者拝礼、玉串奉奠、参拝者お祓いなどの神事が続く。神事を終え、休憩になると参列者や担ぎ手たちに缶ビールなどの差し入れがあり、厳粛な祭礼は一気にくだけた雰囲気に変貌する。この頃には御旅所前の道には7基の壇尻が勢揃いし、周辺を大勢の観客が埋めている。2時35分、御神輿が神社に帰還する還幸祭となる。御神輿の帰還の後を受けて各地区壇尻の宮入が行なわれる。
 行列に先立って公智神社に戻った。既に境内正面のスペースは神輿や壇尻の入場を確保するため縄張りが行なわれている。その周囲を鈴なりの観客が待ち構えている。何とか拝殿正面の石段端に絶好の撮影ポイントを確保した。行列と御神輿が帰還しいよいよお祭りのクライマックスとも言うべき7基の壇尻の勇壮な宮入を迎える。各壇尻の宮入スタートの合図をする旗振り役が境内入口にスタンバイした。さしずめF1のフラッガーといったところか。宮前通りの神社前に立つ大鳥居にトップバッターの下山口大壇尻が姿を現わした。フラッガーの旗が降り下ろされた。道路から境内にかけての上り傾斜を一気に押し上げなければならない。鐘太鼓の囃子のテンポが上がり押し手たちの掛け声がひと際大きくなる。白い地下足袋が激しく地を蹴って舞っている。前棒を引く男たちの歯を喰いしばった形相が迫ってくる。ホイッスルの鋭い音がひと際長く響き、壇尻が石段に触れるほどの位置に停車した。間髪を置かず観客から一斉に盛大な拍手が巻き起こる。境内を埋める大勢の人たちの気持ちが一体となるジンとくる一瞬だった。押し手たちが拝殿に昇りお参りした後、壇尻は所定の位置に移動する。その後、下山口小壇尻、上山口大壇尻、上山口小壇尻、金仙寺、中野と同じ一連の流れが続く。最後の名来の壇尻は7基の中でも特異な形態である。他の6台の壇尻が屋形型で押して移動するのに対して、中野のそれは布団型で担いで移動する。それだけに左右にも担ぎ棒があり担ぎ手の負担も大きそうだ。全台の宮入が無事終了し、境内奥に7基の壇尻が勢揃いした。溢れんばかりの観客の頭上に立ち並ぶその風景はさすがに圧巻である。下山口の壇尻の屋根や屋形内やその周辺では、関係者たちが配られた黒枝豆をアテに缶ビールが酌み交わされている。修羅場をくぐった後の男たちが味わう黒枝豆を羨ましく眺めたものだ。
 社務所前の境内で山口町古文化保存会による名来獅子舞が奉納されていた。単独の獅子舞だけでなく、獅子とお猿たち、獅子と天狗などの組合せの舞もある。司会者の解説を挟みながら笛太鼓のお囃子に合わせて展開される。豪快に時に軽妙に獅子頭が宙を舞う。この日のために重ねた練習の成果がうかがえる。周囲に陣取る観客たちのシャッター音が途切れない。
 午後4時に土着の伝統文化を満載した公智神社秋祭りを満喫して境内を後にした。

塩野七生著「ローマ人の物語36」2009年10月13日

 ローマ人の物語36巻を読んだ。3世紀末から4世紀前半の末期のローマ帝国にあって再生に向けた「最後の努力」が二人の皇帝によって行なわれた。ディオクレティアヌスとコンスタンティヌスである。36巻はディオクレティアヌス退位後の四人の皇帝による第二次四頭政から六人の皇帝乱立へと続く内乱状態から、最終的にコンスタンティヌスが覇権を握るまでの物語である。
 英雄たちが現われては消えるこの時期の帝国内部の攻防は、物語としては面白いがローマ帝国自体の興亡という面では本質的ではない。むしろこの時期の本質的な出来事は、東の正帝リキニウスと西の正帝コンスタンティヌスの連名で313年に公布された「ミラノ勅令」だろう。
言うまでもなく「キリスト教の帝国内における公認」を内容とする勅令である。もちろんこの勅令は皇帝のキリスト教への改宗表明でもなければ、他の宗教に比べての優遇措置でもない。帝国内での完全な信教の自由を認め、公にしたに過ぎない。にもかかわらずこの勅令が歴史を画する重大な史実とされるのは、ローマ人が千年以上にわたって持ち続けた宗教に対する伝統的な概念を断ち切った点にある。
 それまでのローマは、ローマという「共同体」に属する住民に、個人の信ずる神が何であれ、共同体全体の守護神であるローマ伝統の神々には相応の敬意をもって対するよう求めてきた。ミラノ勅令はもはやその必要はないということになったのだ。ローマ帝国は後期に入っても尚、多人種、多民族、多宗教、多文化の帝国だった。この大帝国は、「ローマ法」「ローマ皇帝」「ローマの宗教」というゆるやかな輪によってまとまりを保ってきた。ミラノ勅令は、そのうちの「ローマの宗教」という輪をはずしたのだ。「信教の完全な自由」というそれ自体は非難のしようもないくらいに理に適ったこの勅令は、現実にはそれ以降の信教の自由が守られなくなってしまう中世社会への扉を開く契機となる。

52歳での転身先は「民藝」の世界2009年10月14日

 昨晩、異業種交流会の10月例会があった。千里・万博公園内にある「大阪日本民芸館」の長井常務理事が講師だった。「大阪日本民芸館の活動と取組み」をテーマに1時間のスピーチを聴いた。
 スピーチは一風変わった講師の略歴紹介から始まった。「富山県高岡市の『狼村』というおどろおどろしい名前の村の出身である。慶応大学卒業後、日本生命に入社しサラリーマン人生をスタートさせた。平成4年に不動産鑑定士の資格を取得したが、当時の受験仲間を中心に異業種交流会『関西の今後を考える会』をつくった。会は現在も続いており例会開催は170回を数える。2年前に日本生命の出資先である『財団法人・大阪日本民芸館』に出向し、民藝の世界でのゼロからのスタートとなった。直後から京都造形芸術大学通信教育学部に入学し、今年4月に博物館学芸員資格も取得した。出身の富山県は、柳宗悦や棟方志功ゆかりの地でもあり、複数の民芸館がある民芸の盛んな県だとあらためて知った。富山県人の粘り強さというDNAを自分でも引き継いでいると思う。富山のこうした縁をバネに民芸運動に人生の仕切り直しのつもりで取り組みたい」
 ところで「民芸」については、私自身も知っているようでよく分かっていない漠然としたジャンルである。その辺りも心得たかのように講師から「民芸とは何か」の解説がある。「民衆的工芸の略語である。宗教哲学者にして民藝運動の提唱者である柳宗悦は次のように定義している。①実用性②無銘性③多量性と廉価性④地方性⑤協業性の5点である。また柳宗悦は日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など無名の工人の作になる日用雑器を発掘し、世に紹介することに努め、日本民芸館を開設した人物である」
 話は大阪日本民芸館の紹介に移る。「1970年の大阪万博のパピリオンとして建設され、翌年に大阪日本民芸館として開館した。モノレールの万博公園東口駅から徒歩8分の所にある。駐車料金も必要で入館料も700円と高額なこともあり、来館者の絶対数が少なく厳しい環境にある。それでも着実に入館者は増えており昨年は1万人を数えた。展示方法は一切の解説を排し生の作品を見てもらうという、見方によっては傲慢な手法を採っている。宗悦の言葉である『見た後で知れ、知ってみるな』の実践でもある。ミュージアムショップでは質の高い民芸品をリーズナブルな価格で販売し、宗悦の思想の実践を心掛けている。友の会を中心としたイベント運営や絞り染め、お茶、写真の同好会を通じて質の高い文化活動を実践している。現在、『民藝の巨匠たち』の秋季特別展を開催している。自分自身この仕事について初めて民藝の世界を知った。奥深くて面白いというのが率直な実感である。ぜひ一度来館して特別展で民藝に触れてほしい」と結ばれた。
 参加者に配られた資料には特別展の招待券と割引券が添えられていた。来館者数を倍増させたという財団法人経営でも有能な営業マンでもある。「民藝」の伝道者としての自負がその裏づけなのだろう。ビジネスの世界からかけ離れた舞台への52歳にしての転身である。そこに生涯をかけられる魅力とやりがいを見出し、学芸員の資格まで取得してしまうほどの情熱を傾ける。恵まれた羨ましいビジネス人生を手に入れた講師の情熱と努力を感じさせられたスピーチだった。

ビデオ「山口町物語」2009年10月15日

 四日前の公智神社の秋祭りで、八朔大祭でお世話になった街の長老の方と出合った。お礼の挨拶を交わした時、山口町の昔のビデオの話しが出た。地域の信用金庫支店で放映されているとのことだった。
 今日、10時半頃にその信金支店に行ってみた。カウンター前のロビーにはスタンド型のモニターが設置され、それらしき映像が放映されていた。映像を追っていくうちに、30数年前の昭和50年頃に作成されたものと分かった。
 公智神社の秋祭りが現在のコンクリートづくりでない改築前の木造の社殿を前に繰り広げられていた。銭塚地蔵のご詠歌踊りがお堂の中で演じられている。真宗寺院の伝統的な法要風景がおさめられている。船坂の寒天作りの作業風景が映される。昔ながらの田植えや脱穀の風景が登場する。町民運動会でのもんぺ姿で応援するおばあちゃんたちの様子が懐かしい。貴重で愛着を覚える数々の風景が納められたフィルムだった。モニターにはフィルム提供者として情報を頂いた長老の名前を記載したポスターが掲示されていた。
 信金ロビーにはパネル展示も併設されていた。山口の昔の風景写真の展示だった。60年前の丸山からの下山口の集落風景や60数年前の下山口の街道風景や茅葺き屋根の並んだ集落風景がある。公智神社の旧社殿前に勢揃いした消防団の大軍団の集合写真がある。大正時代の花嫁のクラシックカーでの里帰り風景がある。フィルムといい展示写真といいどれも貴重なものだ。HP「にしのみや山口風土記」に収録したい画像も多い。
 帰宅後、情報を頂いた長老に早速連絡をとった。お礼方々、ビデオの貸し出しをお願いし、展示写真の画像撮影の依頼方法を相談した。ビデオ貸し出しは快諾頂き、写真撮影は信金支店長との相談を勧められた。風土記探訪の新たなルートを発見した。

復刻版日記⑤崇高な愚行2009年10月16日

 (1998年10月15日の日記より)
 午後3時。私は、香川県小豆郡内海(うちのみ)町のとある神社の境内にいた。早い話が小豆島である。誰と何のためにそこに居たかはこの際やめておこう。七人のオヤジたちと群れていたなんぞ自慢できた話ではない。ともかく神社の境内なのだ。正確には「内海八幡神社」という。
 30分前、私たちは島内最大企業?である丸金醤油の「醤油記念館」を見学する予定だった(なぜか小豆島は醤油の産地なのだ。狭い島内に22社もの醤油メーカーがひしめいている)。ところが記念館入口には無情にも「本日臨時休館」の手書きポスターが貼られている。そういえば周辺はやけに静かである。近所の佃煮の土産物店の気のいい店員さんの情報。『今日はここからバス停で二つ向こうの街で年に一度のお祭りやから・・・』。好奇心旺盛なオヤジ軍団の反応は早かった。そして30分後のこの祭り会場である。3町ある島内の全人口はわずか3万7500人とのこと。境内を埋め尽くす人の群れ。醤油記念館の臨時休館や周辺の静けさの正体を見た。
 町内会ごとに保存された10台ほどのダンジリが次々とこの境内に太鼓を響かせてやってくる。そして目の前で布団太鼓のダンジリが一瞬宙を舞った。ナント百人近くの男たちが必死で担いでいる何トンものダンジリが・・・である。年に一度の晴れ舞台。演技のクライマックスはダンジリの放り投げ。前棒と後棒の担ぎ手たちの呼吸が合わずバランスを崩すこともある。怒声が飛び交う。凄まじいエネルギーの発散。阿修羅の形相。男たちの全精力がダンジリを担ぎ放り投げるという一点に集約される。秋の収穫の神への感謝の儀式でもある。神事というフィルターを取っ払ってしまえば「狂気の愚行」という様相を帯びてしまう。男たちの願いは、年に一度のこの「狂気の愚行」に浸ることなのかもしれない。諏訪神社の「御柱」、岸和田の「ダンジリ祭り」の狂気がよぎる。
 それにしてもダンジリの担ぎ手集めはさぞかし大変だろう。刺激のない島を脱出した若者たちを、年に一度帰省させる格好の口実になっているようだ。「息子もこの日だけは帰ってくるんヨ」「都会のどんな楽しみもこの祭りには代えられんみたい」。 3人のオバサンたちの虚勢にあふれた会話が耳に入る。思わず声をかけてみた。「ところでこのお祭りは何というお祭りですか?」。「ウ~ン。何というお祭りといわれても・・・」。虚を衝かれたかのようにオバサンたちは考え込んでしまった。突然ひとりが自信ありげに断定した。『秋祭りヤッ!!』 (ギャッ!)

深秋を歩く2009年10月17日

 肌寒さを覚える空気の中を歩いた。昨日までの数日続いた秋晴れが中休みをしている。どんよりした鉛色が空を低く押し下げている。ここしばらく朝の散歩は近場で済ましていた。久しぶりにいつもの隣町の田園地帯まで足を伸ばした。
 有馬川歩道を東に入り、巡礼街道の一角の田圃道にやってきた。荒れるがままに放置された休耕地にススキが生い茂っていた。ススキの群生地が観光地になる時世である。生い茂るススキを目の当たりにして秋の美しさを感じた。
 平田の民家が点在する歩道脇に柿木がある。もういくつかのだいだい色の実をつけている。枝先の柿の実とその向こうの民家の庭の柿木が見事な秋を描いていた。
 住宅街に入る坂道に戻ってきた。刈り取られた稲田を背景に路傍の細長い草が風に揺れていた。ふと見ると緑の同色に同化したかのように一匹の昆虫がしがみついて一緒に揺れていた。キリギリスなのだろうか。カメラを近づけてもじっと我慢の様子である。
 晩秋の散歩道を歩いた。

塩野七生著「ロ-マ人の物語37」2009年10月18日

 ローマ帝国の「最後の努力」を描いた上中下3巻の下7巻を読んだ。324年に帝国の内戦に勝ち抜いて唯一の権力者となったコンスタンティヌスの治世が描かれている。個人的な感想を交えて表現すれば「コンスタンティヌスによって古代ローマの共同体が消滅した」ということだった。
 覇権を確立したコンスタンティヌス帝は、絶対専制君主として君臨すべく帝国全体の作り変えに着手する。覇権確立直後の324年には自らの名を冠した新都コンスタンティノポリス(ビザンチン帝国時代のコンスタンティノープルであり現在のイスタンブールである)の建設に着手する。首都ローマの向こうを張る内実と規模で進められた新都建設は、ローマがローマ人の都であったのに対し、その名の示すとおり皇帝コンスタンティヌスの都づくりだった。
 コンスタンティヌスの行なった施策のひとつに安全保障体制の変貌がある。騎馬戦力主体の北方蛮族に対抗するためローマ軍も重装歩兵から騎兵に転換せざるをえなくなった。その結果、国境防衛線の防衛力が相対的に低下し、皇帝直属の騎馬戦力主体の遊撃軍が重視されてくる。その比率はコンスタンティヌスの時代になって完全に逆転する。それは、帝国の安全保障の最高責任者たる皇帝の国境線での敵襲来を絶対阻止するというそれまでの安全保障体制の放棄を意味した。国境線を越えて侵入した敵は、その後に皇帝率いる遊撃軍が撃破するという考え方への転換である。それはローマ帝国という「共同体(レス・プブリカ)」の外枠である「防衛線(リノス)」の放棄であり、安全保障の概念の転換である。ここに至って「レス・プブリカ」の理念や居場所が喪失する。
 コンスタンティヌスの施策の最も重大なものは一神教のキリスト教への肩入れである。皇帝資産のキリスト教会への寄贈であり、一神教のキリスト教にしかない聖職者の公職や軍務に就かない権利の承認である。それはそれまでの弱小宗教のひとつであったキリスト教を世界宗教に飛躍させる道を開くことになる。ではなぜそれほどまでに肩入れしたのか。コンスタンティヌスは帝国の政局安定を自らの家系の存続に求めたと著者は考える。古代ローマでは、権力者に権力の行使を託すのは、元老院やローマ市民という「人間」であるという考え方が定着していた。委託者が「人間」である限り、権力を取り上げリコールする権利も「人間」にある。権力負託に値しないと判断された終身の皇帝がしばしば暗殺によってリコールされたのもそのためである。
 コンスタンティヌスは、もしこの権利が「人間」以外の存在にあるとしたらと考えた。この役割は多神教のローマの神々には不適である。人間を護り助ける神ではあっても人間に生き方を命じる神ではないからだ。コンスタンティヌスの必要を満たす神は一神教の、とりわけ民族の違いを超えて布教を進めるキリスト教しかなかった。
 紀元330年、新都コンスタンティノポリスの完成を祝う式典が挙行された。一神教のキリスト教ローマ帝国の首都でもあった。帝国再生を新たな政体、新たな首都、新たな宗教で成し遂げようとしたコンスタンティヌスの野望の具体化であった。
 この巻を読み終えて痛感した。「古代ローマとは何だったのか」「中世とは何か」。時代を区分するものが単なる年数でないことは言うまでもない。「時代の本質や基盤の転換であり、文明の新たなステージへの移行」なのだろう。「ローマ人の物語」は、単なる歴史でない「文明の変遷」を伝えてくれる。そして読者に文明観を問いかける。


 今日の夕方から地域の知人グループと2泊3日のツアーに出かける。従って、明日、明後日のブログはお休みとなる。3日後からお休み分も含めて更新しようと思う。

フェリー&列車の黒川・由布院の旅(初日)2009年10月19日

 昨晩から地域の知人グループの懇親ツアーに出かけた。夕方6時の集合時間の10分前に集合場所に行くと、23名の参加者のほぼ全員が既にマイクロバスに乗車していた。40分ほどで六甲アイランドのフェリー乗場に到着した。
 乗船したのダイヤモンドフェリーの大型客船・サンフラワーパール号だった。初めての夜航フェリーでのワクワクするツアーである。カードキーを使って予約の二人用の個室に入る。思った以上に新しい清潔感のあるエアコン完備の部屋だ。二段ベッドにサイドテーブルとテレビが設置されている。ガウンと洗面セットも用意され、ビジネスホテルに近い設備だ。
 7時半定刻に出航した。出航後、レストランで仲間たちとバイキング方式の夕食を摂る。缶ビールを酌み交わしながらのテーブルを越えたプチ宴会となる。あっという間に1時間ほどが過ぎた。フェリーが明石海峡大橋を通過する時間だ。これを見逃す手はない。デッキに出ると三角形にライトアップされた大橋が、真っ暗な夜空に浮んでいた。背後には明石の街の灯りが横線を引いていた。9時前から貸しきり状態となったレストラン横のサロンで二次会となる。女性陣が持参してくれた黒枝豆のアテが嬉しい。2時間ばかり懇親を深め部屋に戻る。大浴場に入ることにした。ガウンに着替えて同じフロアの端にある展望台浴場のドアを開ける。浴槽の海に面したガラス窓からは真っ暗な中に時おり灯りが見え隠れする。部屋に戻ってからは同室の知人と就寝前の雑談に花を咲かせる。ベッドに入ったのは日が変わった1時半だった。中味の濃い夜がようやく終った。

フェリー&列車の黒川・由布院の旅(二日目)2009年10月20日

 ほとんど揺れを感じないフェリーのベッドで目覚めたのは6時前だった。大浴場ですっきりしたあとデッキにでた。暗い空の東の端からうっすらと朝焼けが始まっている。海原の向こうに刻々と広がる茜色の美しさに時を忘れる。
 7時にフェリーが大分港に着岸した。待機中の「つくしの観光」の二階だてバスに真っ先に乗り込んだ。おかげで絶好の展望席である二階最前列のシートに着席させてもらった。バスは45分ほどで別府交通センターに到着した。ここで朝食を摂った後、二階の「竹未来館」を見学する。別府には竹細工の伝統産業があったようだ。この展示館は、竹林や古民家室内風景の再現と竹工芸品を展示したものだ。私たちの地元・山口町も竹細工の伝統産業があった。別府の竹細工は山口の職人が明治時代に技術指導をしたと伝えられている。
 別府を出たバスは最初の観光スポットである九重大吊橋に向って山なみハイウェーを西に走る。しゃべらなければ清楚な美人といった雰囲気のガイド嬢の濃いガイドを耳にしながら10時前に目的地に到着。この長さ390m、高さ173mの日本一の吊橋は、現地では全て「九重”夢”大吊橋」と”夢”をこめて標記されている。いよいよ渡り始める。鋼鉄製の橋とはいえ吊橋である。多くの観光客の歩みがゆらゆらと足元を揺るがせる。格子状のスケルトンの足元の恐怖とこの揺れが怖いもの見たさの興趣をそそっている。緑の山肌を縫うように二筋の滝が流れ落ちている。この絶景と巨大な吊橋が完成後わずか2年間で500万人を超える観光客を集めている。20億円の投資回収も間近だという。
 11時前に出発したバスが30分ほどで次のスポット黒川温泉に着いた。温泉郷の中にバスは入れない。車道から階段を伝って温泉郷に入る。階段下には山奥の隠れ里の雰囲気が漂う風情のある癒しの空間が待っていた。温泉郷の中心部を筑後川の源流が流れている。そのせせらぎを聞きながら徒歩数分、昼食会場の湯本荘に着いた。地元素材を使った三段重のお弁当に阿蘇の赤牛の陶板焼き、山女の塩焼きが付いている。熱々の山女の塩焼きがことのほか美味しかった。
 昼食後、14時半までたっぷり散策時間がある。ひとりで小さな温泉郷探訪に出かける。温泉郷の西の端の屏風岩を眺めて折り返した時だった。お目当ての名湯・黒川荘を目指してやってきたツアーグループの女性たちに出合った。黒川荘が目の前にあった。「ここの露天風呂は絶対お勧めッ!」の言葉にその気になった。500円の入湯料を払って大浴場のドアを開ける。室内浴場の外に自然岩と植木を巧みに配した見事な露天風呂が広がっていた。薄い乳白色のかかった透明な温泉に浸かると、その透明さの裏をかくような温泉特有のぬめりが伝わってくる。再び温泉郷散策を愉しむ。とはいえ狭い温泉街である。あちこちでツアー仲間に出くわす。誰もが時間をもてあまし気味のようだ。
 15時に黒川温泉を後にして今日の宿泊地の由布院に向う。16時半由布院の街に着いた。山里の黒川温泉と違って、こちらは盆地の中の田園地帯に散在する開放的な佇まいの温泉郷である。街の北の外れの山裾に宿泊旅館「庄屋の館」があった。広大な敷地に一棟ごとの離れ風の多数の家屋が建ち並んでいる。案内されたのは四部屋の寝室と応接、露天の家族風呂を備えた一棟だった。何はともあれ露天風呂である。同室者5人と向いの棟の大浴場に向う。脱衣室の向こうには広々とした露天風呂が広がっている。こちらはコバルトブルーと呼ばれる青みの強いぬめぬめ感のある温泉だった。露店を囲む岩の向こうにはこの街のシンボルである由布岳の雄大な姿が望める絶好のロケーションだ。
 6時半から夕食が始まる。23名もの団体客は必ずしも歓迎されない雰囲気がある。本館宴会場には見事な彫刻が施された欄間と格天井があり、床の間の古式ゆかしい掛軸や絵皿がこの旅館の格式を物語っている。懐石料理の品々が次々と出されるが、途中からは酌み交わす酒と1年ぶりの懇親が味わいを愉しむことを忘却させてしまう。8時半頃から私たち5人の泊まる棟に場所を変えての2次会となる。芸達者な参加者たちのダシモノやアカペラで歌う演歌や懐メロが次々と披露される。朦朧とした意識の中で2時間ばかりを過ごしたようだ。いつの間にか布団の中で眠りに落ちていた。