住宅街の古墳跡2023年02月24日

 早朝ウオーキングで位置情報アプリのNauNauをチェックした時だ。グーグルマップの衛星画像に見慣れない表示が目についた。史跡のマークの横に「下山口高塚古墳」の文字がある。
 北六甲台の向山公園には「高塚古墳伝承地之跡」の石碑が建っている。石碑裏面には「土地の人びとはこの地を高塚と呼び山口郷を開拓した先覚者の古墳と伝えられている。その規模は径約十五米高さ約二米の円墳であった」と刻まれている。
 てっきりこの石碑の周辺に高塚古墳があったのだと思っていたが、考えてみれば開発計画の公園敷地にちょうど古墳跡があると考えるのは無理がある。恐らくグーグルマップに印された位置に古墳跡があったのだろう。
 ウオーキングのコースを変更してアプリの示す位置に向かった。画像では向山公園の西側の住宅街を縁どる街路の西側の原生林の中にある。街路からは10ⅿほどの近さである。うまくいけば街路から侵入して現地を確認できるかもしれない。
 現地そばの街路に着いた。古墳跡と思える場所はガードレールに仕切られた向こうに小山のような原生林があった。深い雑草と森林に覆われ到底侵入を許すような地形ではない。現地があると思われる小山の写真を撮るのが精いっぱいだった。それでも古墳跡の新たな事実が判明したことに納得した。

公智神社神社神輿殿の茅葺屋根の修復完了2022年04月26日

 早朝ウオーキングでいつもと違うコースを選択した。マクドナルドで久々にモーニングコーヒーした。その後、西川沿いに南に進み公智神社前にでた。その時、本殿横の神輿殿が目にとまった。真新しい茅葺屋根の爽やかな光景は嫌でも目に入る。
 思わず境内に入り、参拝した後、しみじみと神輿殿を眺めた。今年の正月に初詣でで訪れた時はまだ修復作業中だった。帰宅後にネット検索して「西宮山口HP」で”公智神社の旧神輿殿の修復完了しました”という記事を見つけた。それによると3月31日に修復完了したとある。完成後のきれいな写真が掲載されていた。同じアングルの改修前の写真と併せて引用して紹介した。

道の駅近くの”淡河城址”2022年04月13日

 加古川の弟宅を訪ねた帰路に「道の駅・淡河」に立ち寄った。駐車場からお店に向かった時、正面の小高い丘の上の建物が目に入った。何度か来たことがあるが初めて気づいた景色だった。
 櫓のような建物の前には「淡河城址」という一文字ずつの看板が立っている。播州の東の一角にある淡河(おうご)という町にお城があったことを教えられた。
 自宅に戻り、ネットで淡河城を調べた。”Web Magazine淡河”というHPに分かりやすい以下の記述があった。
 『淡河城は、鎌倉時代からの淡河氏の居城です。淡河氏が南北朝時代に、播磨守護職の赤松氏に反して南朝方に属したため、この地域は南北朝騒乱の激戦地になりました。 室町末期から戦国にかけて、淡河氏は一時、東播で勢力を誇りましたが、その後、三木の別所氏の配下となりました。別所氏が織田信長に反抗した際、淡河氏も行動を共にしましたが、羽柴秀吉により淡河城は落城しました。その後、秀吉の命で有馬則頼が淡河城主となりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により、淡河城は取り壊されました。』

防空壕跡?の正体判明!2022年04月08日

 今朝の散歩道で新明治橋の東詰めにあるコイン精米機の前である高齢のご婦人に出会った。すぐそばのラーメン屋さんの店の東側の墓を祀っている旧家のおばあちゃんである。
 20日ほど前に早朝ウオーキングで出合った知人から「墓の手前の
に建つ小屋の下に防空壕があるようだ」という話を聞いた。その情報源は小屋に隣接する墓の管理者のくだんのおばあちゃんだった。私も顔を合わせれば挨拶を交わす知人だったので、次に会った時には詳しい情報を聞きたいと思っていた。
 そのおばあちゃんにようやく会えた。挨拶を交わした後、早速訊ねた。「ラーメン屋さん裏手の小屋の下には防空壕があると聞いたんですが、本当ですか」。「小屋の下に大きな穴があるのは事実だが、造られたんは戦後大分経ってからのことだから防空壕ではない。下山口の和菓子屋さんのおじいちゃんが造ったが、何のために造ったかは知らない」とのこと。
 防空壕の話は、立地や地形規模から眉唾の感がなくもなかったが、ようやく真偽が判明した。それにしても何のために造られた穴なのかという疑問は残る。和菓子屋さんのおじいちゃんは、以前に経済センサス調査で訪ねた時に言葉を交わした方で今も存命である。機会があればぜひ造設目的を聞いてみたい。

防空壕跡?2022年03月17日

 早朝ウオーキングを終えて自宅に向かって国道を歩いていた。向うから顔なじみのウオーキング友達がやってきた。いきなり弾んだ口調で話しかけられた。「新明治橋のたもと近くに防空壕跡があることを知ってました?」。
 彼は郷土史に関心が深く、私の過去の「山口風土記探訪講座」にも欠かさず受講してもらっている。同時にウオーキング途中で顔を合わす見知らぬ人とも気軽に声を掛ける気さくな人物でもある。そんな背景もあって最近耳にした郷土史絡みの情報をぜひ郷土史講座の講師にも伝えておきたかったとのこと。
 「いや聞いたことないです」という私の反応に、「それなら今から一緒に見に行きましょう」と背中を押された。現場は新明治橋の南詰にあるラーメン屋さんの裏手にあった。国道沿いに三角屋根の板で囲われた小さな小屋がある。頑丈な長方形の鉄筋コンクリートの土台の上に建っている。隣接して小さな六地蔵が祀られ、その奥には地元の旧家のお墓がある。知人の情報ではそのお墓を祀っているのが小屋の管理者で、その家のおばあちゃんから小屋が防空壕跡であると教えられたとのこと。
 あらためてその小屋を点検してみた。小屋の裏側に扉があり、南京錠で施錠されていた。仮にここが防空壕だとすると、扉の内側の部屋には地下に降りる階段があり地下室があるのだろうと想像した。そう思うと土台の頑丈なコンクリートは防空壕の蓋の役割を果たしているようにも見える。
 山口町内にある”防空壕跡”の意外な情報に驚かされた。

鎌倉幕府の執権・北条時頼と鎌倉峡2021年12月30日

 高橋克彦作品の再読が続いている。今は「時宗・全四巻」の第2巻を読んでいる。第一巻に続いて主人公は時宗の父・北条時頼である。第5代執権として盤石の執権政治を確立し幕府の結束を固めた人物である。ところが疫病に罹り30歳の若さで執権職を辞した後、最明寺で出家し最明寺入道と称した。出家した後、蒙古襲来の情報も念頭にその備えのためもあって全国を行脚して回ったという。
 山口町の北の端に隣接する神戸市北区に関西屈指の渓谷・鎌倉峡がある。2008年に地元のスポーツクラブ21の鎌倉峡とその一角にある百丈岩のハイキング・イベントに参加した。鎌倉峡入口には茶店がありその前に「西明寺入道 北条時頼公遺跡」と刻まれた石碑があった。その時は「へ~!鎌倉幕府の執権だった人物がこの地を訪れたんだ」という感想とともに、鎌倉峡という名称が鎌倉幕府ゆかりの人物の滞在にちなんだことに興味を持った。
 今、「時宗」を読みながら、蒙古襲来を迎え撃った英雄・時宗の父・時頼の事績を辿っている。作者は、時頼の全国行脚が蒙古襲来を前にした全国の実情把握の意味があったと指摘する。蒙古襲来という未曽有の国難を迎え撃ったのが鎌倉幕府の執権政治だったことは幸運だったと思える。平安時代でもなく室町時代や戦国時代でもない権力基盤が固まった鎌倉時代だったからこそ乗り切れたと思える。それを可能にしたのは外ならぬ時頼だったのだ。
 あらためて鎌倉峡に建つ「北条時頼公遺跡」の意味合いを噛み締めた。

山口旧街道・史跡探訪講座2021年11月22日

 地区社協主催の福祉講座が2年ぶりに再開された。コロナ禍で蜜となる室内講座の自粛を余儀なくされたためだ。そこで再開に当たっては屋外散策講座が企画された。講師は山口公民館講座を2010年から6年間15回に渡って開講し、内5回の屋外講座を経験した私が担当した。
 集合地の公智神社境内には25名の参加者が 顔を揃えた。一般参加者19名(内2名は私のご近所のお孫さんで祖母と母親に連れられての参加だった)と講師を含めた主催者6名である。参加者にはA3二つ折の裏表にコースマップと見所ポイントを記載した資料が配られた。私が作成したもので、コースマップ上のNOと見所NOを一致させて記載し、講座後に参加者が独自に知人友人を案内できるよう工夫を凝らしたものだ。
 公智神社を出発し宮前通り、下山口・上山口の旧有馬街道を経て、十王堂橋を折り返し有馬川緑道を北に辿って山口郵便局隣接の大ケヤキをゴールとする22の史跡を訪ねるコースである。途中、明徳寺では事前にお願いして本堂内でご本尊の国の指定文化財である阿弥陀如来立像をご住職の解説付きで拝観した。1時半に開講しゴールの大ケヤキ下で簡単な閉講の締めくくりをして3時45分に解散した。
 参加者のおひとりは半ば現役のエッセイ等の執筆者で今回の講座についてコラムを担当している地方紙に投稿されるとのこと。つくづく我が街には多彩な人材が在住されていると痛感した。

地区社協の福祉講座”山口旧街道・史跡探訪”2021年10月28日

 地区社協の福祉講座がようやく再開されることになった。1年半に渡るコロナ禍での活動自粛で多人数の室内講座の開催を断念せざるを得なかった。
 研修部の「室内講座を避け屋外散策講座から始めたい」との検討結果を受けて研修部長と打ち合わせた。その結果、私が11年前に開催した公民館講座の山口旧街道の史跡探訪をリメイクして開催することになった。
 公智神社から旧街道を南に辿り、金仙寺口の十王堂橋を折り返して有馬川緑道に沿って山口郵便局に至る約1時間のコースである。途中20か所の史跡ポイントがある。それらのポイントを開設しながらの散策講座のため自ずと受講者数には限度がある。先着20名の募集チラシが地区社協の広報紙と一緒に役員の皆さんの手で全戸配布された。
 このブログの読者の方で受講を希望される方は早めにチラシの申込みに記入の上、コミセン玄関前の地区社協の赤いポストに投函をお勧めしたい。

山口一の巨樹は?2021年02月26日

 昨日のブログでNHKのテレビ番組「神様の木に会う~にっぽん巨樹の旅~」を投稿した。番組冒頭で日本一の巨樹として鹿児島県姶良市の蒲生八幡神社境内にあるご樹齢1500年のご神木”蒲生の大クス”(樹高30m、幹周り24.2m、)が紹介されていた。
 そこで我が町山口一の巨樹が気なった。これについては私の地域紹介サイト”にしのみや山口風土記”で巨樹を中心に16本の保護樹木を樹高、幹周りを付けて紹介している。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sizen-kinosato-hogojumoku.html
 これを点検したところ、山口一の巨樹は山口の大ケヤキ(樹高22m 幹周り4m)である。

「HPにしのみや山口風土記」出版の模索2020年11月06日

 折に触れて終活を手掛けている。終活とは自分自身の身辺整理であり、保有資産の始末である。保有資産には金融資産や物的資産や情報資産がある。情報資産には著作・著述、HP、ブログ等のデジタル情報があり、その始末は厄介である。
 その多くを自叙伝出版という形で始末した。自叙伝には吸収できない地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」が残された分野である。自叙伝には記載できなかったが個人的にはリタイヤ後のライフワークとして時間と労力を費やした労作という自負がある。自分の死後これらの情報を一括削除したり管理されないままネットに漂うことは不本意である。何とかならないものかと思案した。
 結局、こちらも紙媒体で残すほか手立てはないのではないかとも思った。どのような形の出版になるかはともあれ、ひとまず出版原稿にしておくことにし、HP記事を編集ソフトに落とし込む作業に着手した。