市の地域福祉計画策定委員会公募委員2009年05月01日

 昨日、市から封書が届いた。西宮市の地域福祉計画策定委員会公募委員決定の通知だった。
 2ヶ月ほど前に配布された市の広報紙に標記の公募委員募集の記事があった。リタイヤ後、本格的に地域活動を始めて1年になる。地域の福祉活動の在り方について自分のなりの想いや問題意識が芽生えていた。この際、行政にぶつけてみたいと思い応募することにした。
 応募方法は、応募用紙に「地域での支え合いについて」をテーマにした800字程度の作文を添えて提出するということだった。書類(作文)審査で選考後、面接を経て決定される。3月中旬に、大略以下の内容の作文をしたためてメール送信した。
 『大都市周辺のベッドタウンは開発20~30年を経て成熟化し、住民の高齢化が始まった。新興住宅街特有の住民間の結びつきの希薄さ、地域活動への無関心と担い手不足が、今後の一層の高齢化に対応しきれない脆弱さをもたらしている。他方で団塊世代のオジサンたちがリタイヤ期を迎え地域に戻りつつある。彼らの知識・技術をいかにうまく取り込むかが重大な課題であり、そのための道筋と環境づくりを考えてみたい。』
 4月初めに面接通知が届いた。4月24日の市役所での面接だった。当日、市の健康福祉局長他2名の面接官による15分程度の面接があった。「応募動機」「団塊世代取り込みのための具体策」「公募委員になった場合のやりたいこと」などが聞かれた。「在住地域も含めての新興住宅街での10年後の地域コミュニティー崩壊の危機感」という動機を語り、「地域ボランティア組織合同の活動紹介パンフレットづくりと合同説明会開催、各組織メンバーによる一斉の定年退職者への説明会参加の呼びかけと言った『仕掛けづくり』」を提案した。そして「終の棲家となった新興住宅街での『新たなふるさとづくり』をキーワードとした地域コミュニティーづくり」の夢を述べた。
 7名の面接者の内、3名が選ばれたようだ。来年3月までの任期の第1回委員会が5月25日に開催される。自分のライフワークでもある地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」は「新たなふるさとづくり」といういとなみの重要なツールでもある。行政の場での積極的な提案が、老後のライフワークの奥行を更に深めてくれるだろうか。

三人の義太夫・太夫の墓碑・・・その後2009年05月02日

 先月、地元の街の石碑巡りの散策に出かけて、興味深い事実を知った。わずか1.5kmの範囲に「竹本多賀太夫」「竹本増太夫」「竹本加治太夫」という三人の義太夫・太夫の墓碑があったのだ。三つの墓碑は、規模や仕様が驚くほど似通っている。何故、三人もの太夫の墓碑が至近距離で、また共通する形状でこの地に残されているのか?この地域にどんなゆかりの人物たちなのか?
 竹本増太夫塚には天保6年(1836年)の年号が刻まれており、ネット検索でも「竹本増太夫は、延享~宝暦初期(1750年頃)に江戸三座に出演した太夫」との記述があった。このことから三人の太夫たちが江戸中期から後期にかけての人物だったことが窺わせるものの、それ以上のことは不明だった。
 過日、何か手がかりになる資料はないか、山口町郷土資料館に問い合わせた。徳風会理事長を兼ねる館長から、山口町史編集委員で元市会議員の岡本佐久次さんを紹介された。以前私も参加した山口公民館・地域講座で「山口の昔話」というテーマで講師をされた方である。恐らく90歳前後の年配で今やこの地域の大長老ともいうべき方と思われる。電話によるぶしつけな問合せにも関わらず、以下のような貴重なお話しを伺えた。
 「江戸時代、山口では浄瑠璃が非常に盛んだったようだ。それはこの街の古い家の多くに当時の浄瑠璃本が残されていることでも推測される。3人の太夫の墓碑の内、増太夫墓碑は下山口の橋本さん宅が、加治太夫墓碑は上山口の加治さん宅が代々供養をされている。それは両家の過去帳にも記載されている。それらを考え合わせると、三人の太夫が山口の在住者か出身者であったことは十分推測可能ではないか」
 ここに至って、ようやくかねての謎の大枠が解き明かされた。それにしても岡本さんのような高齢の郷土史に詳しいい方にお話しを伺えた僥倖に感謝するばかりである。同時にこの街の伝承を受け継げる環境や仕組みを早急に整備することの大切さも痛感した。

史跡探訪・・・謎の永蓮寺跡を訪ねて2009年05月03日

 史跡探訪をテーマにした朝の散策が続いている。今朝は、これもかねての疑問だった廃寺跡の探訪に出かけた。
 郷土誌「山口村誌」の「第8章 社寺・教会」に廃寺・永蓮寺の項目があり、以下の記述がある。『上山口通称永蓮寺山にあったと伝えられている。「有馬郡誌」上巻に永蓮寺山として、「往古永蓮寺の在りし所にして、今猶ほ老いたる松樹数本あり。土地高燥、上山口の里を眼下に瞰て風光佳なり」』。また山口の古刹・明徳寺の本尊は、快慶作といわれ国の重要文化財である。明徳寺寺記にこの本尊がかって永蓮寺にあり、寺が兵火で焼失した際に明徳寺に安置されたと記されている。
 以上の記述を読むと、廃寺となった永蓮寺の歴史と格式の重みが窺える。永蓮寺があった永蓮寺山とはどこなのかが、かねての疑問だった。今朝の散策のテーマである。
 山口と有馬温泉を結ぶ98号線から神鉄・岡場駅に向う道路に入ってすぐ北側に上山口墓地がある。人伝に永蓮寺がこの墓地周辺にあったと聞いていた。墓地の南で畑仕事をしていたおばあさんに尋ねると、墓地の南東すぐの所にある小山を指して「あの山に昔お寺があったと聞いたことがある」と教えられた。竹に覆われたその小山に分け入ったが、寺の遺構を示すものは何も見当たらない。周囲を巡っていると耕運機で作業中の同年輩のオジサンを見かけた。尋ねると、「そういえば、ワシらの子供じぶんにはあの山をエレンジ(永蓮寺)山と呼んでいた」とのこと。伝承とは言え、廃寺跡を裏付ける有力な証言だった。
 帰宅して、郷土史家のOさんに確認のための電話をした。「確たる資料は明徳寺にもないが、上山口の人たちが昔からあの山を永蓮寺山と呼んでいると聞いているので、推測としては十分可能ではないか」とのこと。かねての疑問がまたひとつ解消された今朝の散策だった。

家内がついてきた早朝ウォーキング2009年05月04日

 朝の連続ドラマが終り、早朝ウォーキングに出かけようとしていた時だ。家内が、「私も今日はついて行く」という。道すがら「なんでついてくる気になったんや?」と聞いてみる。「ゴールデンウィークで体操がずっと休みやから身体動かさんと・・・」。家内は何ヶ月か前から近所のフィットネス教室に通いだしている。日祝日以外はほぼ毎日汗を流しているようだ。月謝分の元は取り戻さねばと言う主婦の計算が、今のところ奏功している。
 とりとめもないおしゃべりを交わしながら、定番コースの有馬川遊歩道から田園地帯に入り、隣町の稲荷神社で折り返す。神社でお参りをした後、「お父さん、いつも何をお祈りしてんの?」と聞く。「そらまあ~家内安全とか・・・ムニャムニャ」。どっちみち本気で聞いているわけではないので適当に答えると、「お父さんのいつも歩いている道を知っとかんと・・・。途中で倒れたらアカンし」。どうやら「主人が丈夫で長生きできますように」が、家内の祈りのひとつに入っていたようだ。そのことの延長線上で、今日の散策に同行したホンネが、つい口について出たというところか。過剰な気遣いと思うものの、1時間ばかりのひとりきりの散歩を、配偶者に心配される年齢になったことを素直に受け入れるべきか。 
 
HP旅行記をアップした。
 播磨・国宝四カ寺巡り
 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-harima-4kaji.htm
 大岩岳ハイキング
 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-ooiwadake.htm

熱を帯びてきた地域紹介サイト更新2009年05月05日

 一週間ほど前に、西宮のポータルサイト「西宮流」の記者の方に会った。4月1日に西宮の北部住民の念願だった南北直通バス「さくらやまなみバス」が開通した。この路線を維持継続させるための北部地域の対策委員会の広報部会のような場での記者との懇談だった。
 維持継続には乗客数の確保が不可欠だ。そのためには北部住民が所用や買物で南部を訪ずれる際のバス利用だけでは不十分である。南部の住民たちに山口の魅力を積極的にアピールして、このバスを利用して訪ねてもらえることも必要だ。
 そこで私の地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の出番がやってきた。記者いわくは、「西宮流」の山口版ポータルサイトとして活用できないかということだった。3年前に老後のライフワークみたいな気持ちでこのサイトを立ち上げ、以来シコシコと更新を続けてきた。今やこの地域の歴史、自然、史跡、風物を幅広く紹介する唯一のサイトになったことは自負できる。その営みの果ての申し出だった。西宮市の半ばオフィシャルなポータルサイトとの連携は、この地域の自然や歴史や風物の素晴らしさを伝えたいという私の願いを達成する上で願ってもないことだ。
 「豚もおだてりゃ木に登る」。以来、「南の住民がこの街を訪れたいと思えるような情報発信」をテーマにサイトの見直しを始めた。真っ先に着手しているのが、バスでこの街を訪れた時の散策コースの紹介である。できれば「史跡巡り」「石碑を訪ねる」「銘木を巡る」「旧街道を歩く」「旧・国鉄有馬線跡を歩く」といったテーマ別のコース紹介も手がけたい。新たなモチベーションを得て、俄かに風土記探訪とサイト更新が熱を帯びてきた。

山口散策スポット・ガイド2009年05月06日

 朝から丸一日、地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の更新に明け暮れた。老後のライフワークと考えて、三年前の現役時代から立ち上げていたサイトである。それだけに愛着もあり、新たなテーマを見つけた時は、俄然力が入る。
 今回ぜひともアップしようと思ったテーマがある。初めて山口を訪ねようと思った人に、幅広く散策スポットを紹介できるガイドサイトだ。先日お会いした西宮ポータルサイト「西宮流」の記者の方との懇談に触発されたことは言うまでもない。
 真ん中に配置した国土地理院の地域地図に、史跡・仏閣、石碑・墓碑、銘木・自然という三つのカテゴリー別に散策スポットをナンバーを付してマークする。地図の左右に各スポットの名前を地図上のナンバーと符合させて表形式でリスト化する。各リスト毎に「風土記」記事が有る場合はそのサイトにジャンプできるようリンクを貼る。リストの上下幅が地図の上下幅より狭い分だけリスト対応の画像を挿入してバランスを取る。これまでの風土記探訪で蓄積した情報とHP風土記の執筆・作成技術の集大成ともいえる作業だった。
 かくしてできあがったのが「山口散策スポット・ガイド」である。
 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sansaku.corse-map.htm

雨の散歩道2009年05月07日

 屋根を打つ激しい雨足で目が覚めた。5時過ぎだった。二度寝のきかない歳である。リビングに降りて雨戸を開ける。久々の本降りの雨だった。8時前にいつものように「雨にも負けず」散歩に出かける。玄関先のたたきの少なくなった履物が、息子夫婦のUターン後の平常に戻った我が家の日常を告げていた。
 有馬川の遊歩道を、傘を差し、ぬかるみを避けながら歩みを進める。避け切れない雨足が、スポーツシャツの肩を濡らし、ズボンの裾を濡らしている。二段になった川の堰止めが、激しい水音を立てて流れ落ちる小さな滝をつくっていた。
 公智神社前の道路から小川のほとりの小道に入る。左右を桜並木で囲まれた小道である。4月中旬にはピンクに染まった桜トンネルに癒された。初夏の雨の日の桜並木は、新緑の匂い立つような若葉が雨に濡れて光っていた。
 雨の日の散歩道に、いつにない風情が運ばれている。

赤十字の街頭募金での主婦たちの生態2009年05月08日

 朝11時15分から12時30分まで、住宅街の中のスーパーマーケットの店頭に立った。社協役員としての赤十字街頭募金のボランティア活動だった。 
 朝一番の募金担当メンバーから引ぎを継ぎをした。引継ぎ相手のなかに心安くしている同じ民生委員の主婦二人がいた。今日の午後1時には民生委員の定例会議が徒歩15分位の所で開催される。「お昼ご飯・・・どうするの?」「終ってから家に帰る時間ないヨ」「ここで弁当買って持っていったら?」「途中のあの店のお弁当もおいしいヨ」など、お二人からは、矢継ぎ早に声がかかる。思わず「放っといてッ!世話焼きやナ~。ウチの嫁はんとおんなじや」と軽口を叩く。「よ~言うワ。もう、かもたげへんから・・・」とすかさず返される。
 本格的に地域のボランティア活動に参加し始めて1年が経過した。この間、主婦たちの草の根の活動に支えられている実態を思い知らされた。反面、主婦たちの、お喋り好き、世話好き、脱線癖、お菓子持参のお茶時間等々、その特異な生態に戸惑ったのも事実だった。とはいえ、この特有の生態ゆえに彼女たちの活動の持続力が維持されていることも否定しがたい。従って地域デビューしたばかりのリタイヤオヤジが主婦たちの生態に馴染むことは、超えなければならないハードルのひとつだった。先ほどの彼女たちとの掛け合いを通じて、何かひと山越えた気がしたのは思い過ごしだろうか?

黒山羊ハッチャンの脱毛2009年05月09日

  昨日のことだった。朝の散歩を終えて自宅近くの石材屋さんの所に戻ってきた。棲み家を仕切っている金網に黒山羊ハッチャンが背中をこすっていた。見るとハッチャンの身体中を脱色したような薄茶色になった毛が醜くまとわりついていた。近づいてハッチャンに声をかけると、振り返ったハッチャンの眼が悲しげに見えた。なぜかハッチャンがいつまでも元気でいるわけではないのだとフト思った。
 今日もまた散歩帰りの道すがら、いつものように私の視線が黒山羊ハッチャンの姿を求めて棲み家の原っぱ行き来する。すると思いがけない場所にハッチャンがいた。原っぱと石材屋の駐車場との境目の斜面にいた。作業服姿のオジサンが駐車場の淵に立って、清掃用の長柄ブラシでハッチャンの背中をこすっていた。
 昨日のハッチャンの悲しげな様子が嘘のようだ。気持ち良さそうにブラシの動きに身を委ねている。石材屋さんのハッチャンの飼育担当なのだろうか。ハッチャンのオジサンへの安心しきった信頼感が伝わってくる。新緑が燃え立つ季節である。昨日のハッチャンの脱毛は新たな毛の生え変わりの結果だったのだ。そんな勝手な思い込みに満足しながら、様々な人がハッチャンを愛し、そして癒されていると思った。

五木寛之著「さらばモスクワ愚連隊」2009年05月10日

 4月末に読み終えたばかりの五木寛之著作の「仏教の旅(ブータン編)」について、心にしみわたる想いをこのブログにしるした。42年前の学生生活終盤の私の心を、重く包み込んでいた作家が五木寛之だった。現役生活を終えた今の私の心に、その同じ作家が同じように重く包み込むようなインパクトを与えたことに驚きを隠せなかった。あらためて当時愛読した著作を読み返した。
 春真っ只中の42年前、私の生活は荒んでいた。その荒んだ生活のかけがえのない部分をジャズが埋めていた。今思えば、外見的な生活の荒れ方とは裏腹に、「自分」を求めて彷徨った日々は緊張感と充足感に満たされた生活だったと思う。
 五木寛之が「さらばモスクワ愚連隊」を引っさげて小説現代新人賞を受賞したのはその頃だった。ジャズという自己表現が徹底的に追求される世界を舞台に、全存在をかけて挑戦し挫折する青春像が描かれていた。ジャズという音楽をこれほど見事に文章化した作家の凄味を思い知らされた。ジャズが生活の貴重な部分を占めていた当時の私は、「さらばモスクワ愚連隊」で描かれた世界に夢中になった。10年後に訪ソ団の一員として半ば公式にモスクワを訪れた。ジャズクラブがあると固く信じて、夜の街を彷徨ったのは、この小説の世界を固く信じていたからだった。
 今また私は、最近の五木寛之の著作に嵌っている。「大河の一滴」を読み返し、「他力」を購入した。親鸞に傾倒するこの作家は独自の仏教世界を読者に提示している。五木寛之が辿っただろう精神世界の変遷は、私のそれを解き明かしてくれるのだろうか。