公智神社裏山の卵塔場2012年01月09日

 昨日の朝、市立郷土資料館のスタッフFさんと一緒に公智神社の大鳥居の高さの計測を行った。その後、禰宜さんに案内していただいて神社裏山にある卵塔場の石造物調査を行った。
 卵塔場とは、卵塔と呼ばれる僧侶の墓石として使われた卵型の墓石のある墓所のことである。「山口町史」の巻頭の写真集に「神仏習合の時代、公智神社の境内に法楽寺と呼ぶ真言宗の寺があったが、いまは歴代住職の墓所だけが神社の裏山の一角に残っている」というコメントとともにその写真が掲載されている。
 法楽寺については「山口村誌」や「山口町史」の本巻でも要約すれば以下のような内容の記載がある。『江戸期の神仏習合の時代にあって公智神社境内(現在の社務所南側とされる)に宮寺・法楽寺があった。従来、同寺の住職が公智神社の神職を兼ねていた。ところが慶応4年(1868)に明治政府により「神仏分離令」が発令されたため、当時の法楽寺住職であった源恵は名を公地権之輔と改め還俗し神主となった。以降、公智神社の祭祀や運営も日本古来の神道に立ち返り、神仏を整然と区別するものとなった。一方で神仏分離令は廃仏毀釈の運動を全国で展開させるきっかけとなった。また法楽寺は明治初年には壇家の減少により廃寺となったが、わずかにその名残りが公智神社裏山に歴代住職の墓として残されている』。裏山の卵塔場は以上のような歴史的背景を物語るものだった。
 禰宜さんに案内されて公智神社境内の裏道を通り、踏み跡で辛うじて道筋の残る山道を登り、裏山頂上に辿り着いた。案内がなければ到底分らない場所だった。7基の卵塔を中心に14基の石造物が建っていた。卵塔には僧侶の位階を示す法印の文字が刻まれ、歴代住職の墓石であることを窺わせている。石造物に刻まれた年号には「享保」「寛永」などの文字が読み取れる。法楽寺の存在は明治初年までであり、当然ながら歴代住職の墓石はそれ以前の江戸期の建立である。正面右手に直角に並ぶ3基の石造物の真ん中の石仏が気になった。如来菩薩坐像のような石仏には頭部が欠けていた。風雨や倒壊による破損とは思われない切り口だった。Fさんによれば、「廃仏毀釈の運動による破壊の典型」のようだ。歴史のうねりの物証を目の当たりにした。
 14基の石造物の高さ、幅、奥行きのそれぞれをFさんと手分けして計測・記録した。時間の都合で刻まれた銘文の判読は次回に回すことにした。30分ばかりの調査を終え、枯れ草に覆われ滑りやすい下り道を降りた。Fさんの話ではこの卵塔場は郷土資料館でも詳細は把握できていないようだ。地元在住の歴史調査団メンバーとして貴重でやりがいのある調査に少し誇らしさを感じた。

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