蔦 恭嗣著「補陀洛渡海考(金光坊)異聞」2022年01月31日

 同じ住宅街に住む知人(ペンネーム・蔦 恭嗣氏)から同人誌に投稿しているという短編の歴史小説3編を添付メールで送信してもらった。そのうちの一編「補陀洛渡海考(金光坊)異聞」を読了した。
 ”補陀洛渡海”については以前にそれをテーマとした著作を読んだ記憶があり、興味深い”行”として記憶に刻まれていた。知人のこの著作はこの補陀洛渡海を真正面から取り上げた作品だった。
 「16世紀に補陀洛山寺の住職、金光坊が補陀落渡海の途中で舟から逃げ出してここへたどり着くも捕らえられ、再び舟に乗せられ渡海させられた」という史実をもとに、著者が原稿用紙50枚ほどの短編小説に仕上げている。
 作品の主題は、補陀落渡海に船出した金光坊がなぜ途中でそれを断念して逃げ帰り、なぜ再び舟に乗せられて渡海したのかという点をにあると思える。
 金光坊が乗った渡海船を曳く曳航船の綱が切られ、浄土に向かっていよいよ船出したその時、金光坊の脳裏に忽然と問い掛けられるものが浮かんだ。「自分が今から行こうとしている浄土とは何か? 娑婆は本当に穢土か?」「この娑婆を捨てて浄土へ旅立つことが本当の救いとなるのか?」。この問いに応えるべく金光坊は決然と海に飛び込み近くに見える岩礁に向かって泳いだ。
 補陀洛寺に戻った金光坊は、冷ややかに迎える聴衆に向かって再び語り掛ける。「浄土はどこにでもある。皆様方が居られるここも浄土となるのです。皆様方は、お一人お一人が、ここを観音の浄土とするという気持ちを持ち、またそういう暮らしを送るのです」。
 何日か過ぎて金光坊は「上人様は、死ぬのが怖くて逃げてこられたのだ」という噂を耳にする。そのことから「人々は、一度やるとしたことを、理由は何であれ途中で投げ出した人間の言うことなど、自分を正当化する言い訳としか聞かない。行動は行動によってしか完結させることはできないのだ」と気づかされる。そして再び渡海を決意し村の主たちに告げる。その二日後に検分役の若者と一緒に小さな船で出発し、先の渡海で這い上がった岩礁が遠くに見えるところで金光坊は舟の艫を蹴った。
 限られた紙数での主題に対する著者の解釈である。補陀洛渡海を巡るひとつの見方を教えられた。