乙川優三郎著「かずら野」2006年10月25日

 乙川優三郎の「かずら野」を読んだ。
 不思議な物語だった。可憐で誠実で芯の強い悲運のヒロイン・菊子と、酷薄で不実で意気地のない連れ合いである富治との逃避行の物語である。流浪の旅の先々で掴みかけた菊子の幸せは、富治の浅薄な愚行の果てに次々と壊され、新たな流浪へと追いやっていく。菊子の幸せを期待する読者は、畳み掛けられるように裏切られ続ける。読者の裏切られた苛立ちの強さが、そのまま富治への憎悪になって増幅される。
 読者は、物語の9割以上もの永きを、こうした癒されない苛立ちを抱えながら付き合う羽目になる。ところがこれが作者の仕組んだ罠だったのだ。
 文庫本の最後の2頁に至って、物語は一気にそして突然にクライマックスを迎える。読者はそれまでの延々と続く苛立ちの罠に初めて気づかされる。苛立ちの深さの分だけ感動に浸される。この最後の2頁のためだけに創られたといっても良い不思議な物語だった。

 それにしても乙川優三郎という人は、人生の機微を巧みな文章で表現できる作家である。次のような心に沁みる言葉をさりげなく語っている。
 「貧しさを小馬鹿にする態度が、貧しさそのものよりも醜いことを知らない男だった」