試練の髭面2008年05月27日

 リタイヤ後、やり遂げようと思ったことが三つあった。「毎日1万歩以上のウォーキング」「ブログの毎日更新」、そして「髭の復活」である。いずれも今のところ継続している。前二つに比べ「髭」は「やり遂げる」というほどのシロモノではないとも思う。・・・が事はそれほど単純ではない。前二つは自分の意志でいかようにも達成可能であるが、「髭」については自分の意志を超えた制約が想定されるからだ。
 伸ばし始めて半月程になる。1cm程の白髪髭は、いかにも中途半端で、むさ苦しさが漂う。「民生委員の用でお年寄りの家に行くのに嫌がられるんと違う?」と、家内は一応気遣いをこめて婉曲な批判の言葉を口にする。今朝、出合い頭に起きたばかりの娘が発した。「不潔やな~ッ。ホームレスオヤジと同居してるみたい!」。父親への気遣いという言葉を持ち合わせない娘の反応は、かくも残酷である。明日、久々に労働委員会の会議がある。公的な場での髭面の反応に一抹の不安がないわけではない。
 私にとって4度目の髭である。チェ・ゲバラの見事な髭の風貌に憬れた学生時代、社会人2年目の労組結成直後の書記長時代、そして50日に及ぶ闘病生活を過ごした昨春である。自分らしくありたいと願い、それを制約する環境と葛藤した時期と期を一にしている。 
 他人の評価はいざ知らず自分ではいたって気に入っている。とはいえ本人の意向にかかわらず、予想外の制約がいつスッピンを強要するか予断は許さない。私の髭面は試練を乗り越えいつまで生きのびるのだろうか。