両家両親の顔合わせ ― 2010年10月11日
娘の縁談が本人たちが敷いたレールに乗って着々と進行している。娘が婿殿の実家を訪ねたり、婿殿が我が家にやってきたり・・・。そして本日は、いよいよ両家両親たちの昼食を交えての顔合わせの日である。本人たちが日取りを調整し会場を予約して万端整えた。当節、親たちの主導権はどこにもない。
朝10時過ぎに自宅を出て、娘と三人で大阪梅田に向った。会場での鉢合わせでまごつかないよう、先方さんに少し早めに着座してもらうということまで打合せ済みのようだ。携帯メールが威力を発揮しているとはいえ、中々芸が細かいではないか。会場は有馬温泉の有名ホテルの直営店だった。予定通り婿殿とそのご両親が座敷でお待ちだった。それぞれの前に同じ顔ぶれが着座する。本人たちから双方の両親の紹介がある。続いてこれも筋書きだったのか、両親立会いでのプレゼント交換となる。娘には指輪が、婿殿には腕時計が贈られ、包装紙を解いて現物がお披露目される。
食前酒で乾杯した後はざっくばらんな懇親の場となる。父親二人の前には瓶ビールが置かれた。着座した際に、仲居さんから飲み物の打診があった。どちらが主客というわけではないようだが、この場は新郎側の意向を尊重すべきとお向かいに判断を委ねた。ビールのオーダーにホッとした。「結構です」と答えられれば、従うほかないと観念していたのだから。しばらく父親たちの仕事の話などで場をつないだ後、婿殿がiPod(アイポッド)を取り出して画像を見せてくれた。先ごろ二人で行ってきた式場での衣装合わせの画像だった。娘の白無垢姿やウェディング姿がいっぱいおさめられ、婿殿の羽織袴姿とタキシード姿が二三枚おさまっている。何といっても結婚式は花嫁が主役だとあらためて思い知った。突然当日の「花嫁の父」のイメージが襲ってきて、一瞬こみ上げるものがあったのもやむをえまい。
お箸入れと掛け軸に書かれた寿の文字が、わずかにこの場の意味を彩っているビルの谷間の閑静な和室だった。そんな会場での2時間ばかりの歓談が過ぎた。さすがにこうした利用にこなれた感じの行き届いた仲居さんたちの接客ぶりだった。両家が揃ってJR大阪駅に向かい、駅でお別れしてそれぞれの帰路についた。
こうして着々と娘の嫁ぐ日が近づいてくる。
朝10時過ぎに自宅を出て、娘と三人で大阪梅田に向った。会場での鉢合わせでまごつかないよう、先方さんに少し早めに着座してもらうということまで打合せ済みのようだ。携帯メールが威力を発揮しているとはいえ、中々芸が細かいではないか。会場は有馬温泉の有名ホテルの直営店だった。予定通り婿殿とそのご両親が座敷でお待ちだった。それぞれの前に同じ顔ぶれが着座する。本人たちから双方の両親の紹介がある。続いてこれも筋書きだったのか、両親立会いでのプレゼント交換となる。娘には指輪が、婿殿には腕時計が贈られ、包装紙を解いて現物がお披露目される。
食前酒で乾杯した後はざっくばらんな懇親の場となる。父親二人の前には瓶ビールが置かれた。着座した際に、仲居さんから飲み物の打診があった。どちらが主客というわけではないようだが、この場は新郎側の意向を尊重すべきとお向かいに判断を委ねた。ビールのオーダーにホッとした。「結構です」と答えられれば、従うほかないと観念していたのだから。しばらく父親たちの仕事の話などで場をつないだ後、婿殿がiPod(アイポッド)を取り出して画像を見せてくれた。先ごろ二人で行ってきた式場での衣装合わせの画像だった。娘の白無垢姿やウェディング姿がいっぱいおさめられ、婿殿の羽織袴姿とタキシード姿が二三枚おさまっている。何といっても結婚式は花嫁が主役だとあらためて思い知った。突然当日の「花嫁の父」のイメージが襲ってきて、一瞬こみ上げるものがあったのもやむをえまい。
お箸入れと掛け軸に書かれた寿の文字が、わずかにこの場の意味を彩っているビルの谷間の閑静な和室だった。そんな会場での2時間ばかりの歓談が過ぎた。さすがにこうした利用にこなれた感じの行き届いた仲居さんたちの接客ぶりだった。両家が揃ってJR大阪駅に向かい、駅でお別れしてそれぞれの帰路についた。
こうして着々と娘の嫁ぐ日が近づいてくる。
塩野七生著「ローマ人の物語39」 ― 2010年10月12日

在位僅か19カ月の皇帝ユリアヌスの治世が「ローマ人の物語39巻」の文庫本一冊分に費やされている。前38巻は在位24年の前皇帝コンスタンティウスの物語だったが、その後半部分は副帝時代のユリアヌスの記述が占めている。この記述量の違いこそが著者の二人の皇帝に対する評価と好悪を示している。そして多くの読者にも著者のその気分を受け入れ同感する気分があるに違いない。「ローマ人の物語」は歴史書ではない。塩野七生という作家の描く歴史小説だ。読者は古代ローマの物語を通して古代ローマの歴史の舞台に想いを寄せ、それぞれの受け止め方で独自に「歴史」を学ぶ。
若き副帝ユリアヌスはガリアでの戦闘に勝利しガリア全域の統治に成功する。 そのユリアヌスに正帝コンスタンティウスからペルシャ討伐のための兵士供出の命が下る。ユリアヌスに従ってガリアを平定した蛮族兵士の精鋭たちはこの命に猛反発し、ユリアヌスの正帝推戴の挙に打って出る。逡巡の末ユリアヌスは正帝就任を受諾する。皇帝コンスタンティウスはユリアヌス討伐に向う途上で病死する。
紀元361年、ついに皇帝となったユリアヌスは、先帝たちの定めたキリスト教優遇策を全廃するとともに、かつてのローマ帝国の精神の再興を目指し、伝統的な多神教を擁護する。幼少の頃の幽閉時代に学んだギリシャ文明や青年期の遊学でのギリシャ哲学がユリアヌスに深い影響を与えていた。新皇帝はキリスト教徒を始めとした既得権層からの強硬な反対を押し切って矢継ぎ早に改革を進める。更に皇帝就任1年も経ないで帝都コンスタンティンノープルをl後にし東へ向かう。ペルシャ戦争再開という帝国の最大の問題処理に乗り出したのだ。
ペルシャ王国の首都クテシフォンにまで攻め入り優勢に進めていたペルシャ戦役も第二軍との合流を果たせず苦境に陥る。ローマ軍は首都攻略を断念し第二軍と合流すべく北上する。そのローマ軍を追ってペルシャ軍が波状攻撃を仕掛ける。不意の奇襲の最中に、飛んできた槍がユリアヌスの腹部深くに突き刺さる。ローマ帝国が大きくキリスト教化する流れに一人抗した31歳の若き皇帝が死を迎えた。
著者はこの巻の最後に「皇帝ユリアヌスの生と死」を語る。著者の想いは、次の一文に凝縮されている。「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか」。
若き副帝ユリアヌスはガリアでの戦闘に勝利しガリア全域の統治に成功する。 そのユリアヌスに正帝コンスタンティウスからペルシャ討伐のための兵士供出の命が下る。ユリアヌスに従ってガリアを平定した蛮族兵士の精鋭たちはこの命に猛反発し、ユリアヌスの正帝推戴の挙に打って出る。逡巡の末ユリアヌスは正帝就任を受諾する。皇帝コンスタンティウスはユリアヌス討伐に向う途上で病死する。
紀元361年、ついに皇帝となったユリアヌスは、先帝たちの定めたキリスト教優遇策を全廃するとともに、かつてのローマ帝国の精神の再興を目指し、伝統的な多神教を擁護する。幼少の頃の幽閉時代に学んだギリシャ文明や青年期の遊学でのギリシャ哲学がユリアヌスに深い影響を与えていた。新皇帝はキリスト教徒を始めとした既得権層からの強硬な反対を押し切って矢継ぎ早に改革を進める。更に皇帝就任1年も経ないで帝都コンスタンティンノープルをl後にし東へ向かう。ペルシャ戦争再開という帝国の最大の問題処理に乗り出したのだ。
ペルシャ王国の首都クテシフォンにまで攻め入り優勢に進めていたペルシャ戦役も第二軍との合流を果たせず苦境に陥る。ローマ軍は首都攻略を断念し第二軍と合流すべく北上する。そのローマ軍を追ってペルシャ軍が波状攻撃を仕掛ける。不意の奇襲の最中に、飛んできた槍がユリアヌスの腹部深くに突き刺さる。ローマ帝国が大きくキリスト教化する流れに一人抗した31歳の若き皇帝が死を迎えた。
著者はこの巻の最後に「皇帝ユリアヌスの生と死」を語る。著者の想いは、次の一文に凝縮されている。「宗教が現世をも支配することに反対の声をあげたユリアヌスは、古代ではおそらく唯一人、一神教のもたらす弊害に気づいた人ではなかったか」。
映画評「十三人の刺客」 ― 2010年10月13日

事前に読んだネット・レビューの評価が良すぎたに違いない。それとも時代劇に対する自分の嗜好が変わってきているのだろうか。恐らく両方とも当たっているのだろう。映画「十三人の刺客」を観終えて、大きかった期待とのギャップに戸惑いを覚えていた。
テレビCMで初めてこの映画のガイドフィルムを見た。「これは観んとアカン!」と思った。本格的な迫力のある時代劇の登場を思わせた。ネットレビューの高い評価にも「さもありなん」と受け止めた。そして今朝9時に上映直前のプレミアムシートに期待に胸ふくらませて着席した。
好きな作家のひとりである池宮彰一郎の原作は、骨太なストーリー展開を提供していた。主役の役所広司はじめテレビドラマ白洲次郎で魅せられた伊勢谷友介や好漢・伊原剛志などキャストも文句なしだ。美しい木曾の山奥にたたずむ穏やかで牧歌的な落合宿が、要塞化した修羅場に一変する落差も衝撃的だった。何よりもラストに延々と展開される戦闘シーンは、大規模で迫真の舞台セット、スピード感、音響硬化、巧みなカメラアングルなどを駆使して迫力とリアリティーを見事に映し出していた。醜悪で無様で泥まみれの殺し合いが、戦闘の偽りのない現実であることを容赦なく伝えていた。それはまるでこれまでの時代劇に受け継がれてきた様式美を一切打ち砕くかのようなメッセージだった。
この戦闘シーンこそが監督がめざした新たな時代劇の形なのかもしれない。実はそれこそが最近の私には違和感をもたらすものでもある。藤沢作品の映画化が続いている。時代劇の美しさと安らぎと郷愁に浸れる作品が多い。観終えて何か心に沁みるものが残るのも共通している。ところがこの作品には「凄かった」という印象は残るものの、心に響くものはない。時代劇としては秀逸の作品に違いない。映像作品としても水準以上のレベルである。レビューの高評価も戦闘シーンについてのものが多い。期待と実際の落差は、時代劇に一定の様式美や郷愁を求め琴線に触れる何かを期待する嗜好がもたらしたギャップというほかはない。
テレビCMで初めてこの映画のガイドフィルムを見た。「これは観んとアカン!」と思った。本格的な迫力のある時代劇の登場を思わせた。ネットレビューの高い評価にも「さもありなん」と受け止めた。そして今朝9時に上映直前のプレミアムシートに期待に胸ふくらませて着席した。
好きな作家のひとりである池宮彰一郎の原作は、骨太なストーリー展開を提供していた。主役の役所広司はじめテレビドラマ白洲次郎で魅せられた伊勢谷友介や好漢・伊原剛志などキャストも文句なしだ。美しい木曾の山奥にたたずむ穏やかで牧歌的な落合宿が、要塞化した修羅場に一変する落差も衝撃的だった。何よりもラストに延々と展開される戦闘シーンは、大規模で迫真の舞台セット、スピード感、音響硬化、巧みなカメラアングルなどを駆使して迫力とリアリティーを見事に映し出していた。醜悪で無様で泥まみれの殺し合いが、戦闘の偽りのない現実であることを容赦なく伝えていた。それはまるでこれまでの時代劇に受け継がれてきた様式美を一切打ち砕くかのようなメッセージだった。
この戦闘シーンこそが監督がめざした新たな時代劇の形なのかもしれない。実はそれこそが最近の私には違和感をもたらすものでもある。藤沢作品の映画化が続いている。時代劇の美しさと安らぎと郷愁に浸れる作品が多い。観終えて何か心に沁みるものが残るのも共通している。ところがこの作品には「凄かった」という印象は残るものの、心に響くものはない。時代劇としては秀逸の作品に違いない。映像作品としても水準以上のレベルである。レビューの高評価も戦闘シーンについてのものが多い。期待と実際の落差は、時代劇に一定の様式美や郷愁を求め琴線に触れる何かを期待する嗜好がもたらしたギャップというほかはない。
労働委員会主催の実践的セミナー ― 2010年10月14日
昨日午前中を映画鑑賞で過ごした後、午後は労働委員会関係のセミナーに出席した。中央労働委員会近畿地方事務所主催の「増大する労働紛争と労働委員会の活用」をテーマとした労使関係セミナーだった。
第1部で大阪市大教授の「労働委員会の過去・現在・未来」と題した基調講演があった。労働委員会制度の発足とその後の経過が簡潔に整理して報告された後、今日の個別労使紛争の激増とその背景が触れられた。従来は企業内労使関係で対応されていた個別紛争が、近年その対応の不十分さから地域ユニオンへの駆け込みという「紛争の外部化」を招いているという厳しい指摘があった。また労働委員会制度の問題点の背景に、府県労委、中労委、地裁、高裁、最高裁と最大5段階の審判が可能な五審制の問題の指摘があった。特に労使関係の安定性をテーマとする労働委員会と権利関係の存否をテーマとする裁判所との判断視点の違いが、労働委員会命令と行政訴訟判決の食い違いを招いているという点は納得性のある指摘だった。ただ活性化に向けて地方労働委員会の府県からブロックへの移行という議論について、アクセスの不便さや府県組織であることの抑止力という点での反論は、説得力に欠けると思った。
第2部は3件の事例研究を材料としたパネルディスカッションだった。府県労働委員会代表から事例が報告され、それぞれの事例についてコーディネーターの進行で労使双方の代理人代表である弁護士と基調報告者の教授がパネリストとして意見を述べるという形式である。労働者代理人の弁護士からは個別の相談に対し、労働局、労働委員会、労働審判等のいずれの選択を行うかは費用と迅速性の観点からアドバイスするといった意見があった。使用者代理人の弁護士からは「整理解雇は極力避けるよう助言する。整理解雇の4要件をクリアするのは至難であり訴訟で勝てた試しはない」といった本音の意見が聞けたりした。市大教授の「あっせんは足して2で割る方式でなく、法的判断などの基軸をもとにそれを踏まえて妥協点を探るという視点が大切」といった意見も傾聴に値するものだった。
大阪府庁合同庁舎の大会議室を企業の労使代表者、地域ユニオンの役員、労働委員会委員、労働行政関係の職員などが埋め尽くした。実務に即した実践的な3時間のセミナーだった。
第1部で大阪市大教授の「労働委員会の過去・現在・未来」と題した基調講演があった。労働委員会制度の発足とその後の経過が簡潔に整理して報告された後、今日の個別労使紛争の激増とその背景が触れられた。従来は企業内労使関係で対応されていた個別紛争が、近年その対応の不十分さから地域ユニオンへの駆け込みという「紛争の外部化」を招いているという厳しい指摘があった。また労働委員会制度の問題点の背景に、府県労委、中労委、地裁、高裁、最高裁と最大5段階の審判が可能な五審制の問題の指摘があった。特に労使関係の安定性をテーマとする労働委員会と権利関係の存否をテーマとする裁判所との判断視点の違いが、労働委員会命令と行政訴訟判決の食い違いを招いているという点は納得性のある指摘だった。ただ活性化に向けて地方労働委員会の府県からブロックへの移行という議論について、アクセスの不便さや府県組織であることの抑止力という点での反論は、説得力に欠けると思った。
第2部は3件の事例研究を材料としたパネルディスカッションだった。府県労働委員会代表から事例が報告され、それぞれの事例についてコーディネーターの進行で労使双方の代理人代表である弁護士と基調報告者の教授がパネリストとして意見を述べるという形式である。労働者代理人の弁護士からは個別の相談に対し、労働局、労働委員会、労働審判等のいずれの選択を行うかは費用と迅速性の観点からアドバイスするといった意見があった。使用者代理人の弁護士からは「整理解雇は極力避けるよう助言する。整理解雇の4要件をクリアするのは至難であり訴訟で勝てた試しはない」といった本音の意見が聞けたりした。市大教授の「あっせんは足して2で割る方式でなく、法的判断などの基軸をもとにそれを踏まえて妥協点を探るという視点が大切」といった意見も傾聴に値するものだった。
大阪府庁合同庁舎の大会議室を企業の労使代表者、地域ユニオンの役員、労働委員会委員、労働行政関係の職員などが埋め尽くした。実務に即した実践的な3時間のセミナーだった。
推進員の皆さんとの第4回公民館講座の下見 ― 2010年10月15日
朝9時前に金仙寺口バス停近くの有馬川緑道の石碑前に到着した。既に4人の公民館講座推進員の皆さんがお待ちだった。一ヶ月後に控えた公民館講座の第4回「山口の旧街道を歩く」の下見の日である。
5か月ほど前に同じルートで初めてボランティア・ガイドを体験した。市のポータルサイト「西宮流」のブロガーの5人の皆さんが南部からやまなみバスで来訪された。ブログを通じて知り合い、山口散策のガイド役をお引き受けした。その時の体験が第4回講座に繋がっている。5人の方のガイドでも、ともすれば分散しがちで予想以上に時間を要した。次回講座では30名程度の参加が見込まれる。到底一人のガイドではこなせない。そこで推進員の皆さんと相談し、グループ分けしてガイド役も分担して頂くことになった。共通のコースマップとガイドコメントによる下見ガイドが今日の目的だった。
9時過ぎに私を含めて6名で出発した。道すがら地元の推進員の皆さんから様々な情報が寄せられ、ガイドの修正追加を教えられた。上山口の大クスの150年以上の樹齢、上山口公会堂保管の夫婦松火鉢、明徳寺境内の夜泣き地蔵前の五輪塔などの追加ガイドが必要だ。公智神社前の宮前通りは地元では「馬場の筋」の名で親しまれた通りということだ。公智神社でのトイレ休憩が欠かせない。解散地点は最終ポイントである正明寺西側の名来公園が望ましい。下見を通して以上のようなことが分かった。
午後1時から大阪での会議が入っている。11時前に正明寺境内で推進員の皆さんとお別れし、バス停に急いだ。
5か月ほど前に同じルートで初めてボランティア・ガイドを体験した。市のポータルサイト「西宮流」のブロガーの5人の皆さんが南部からやまなみバスで来訪された。ブログを通じて知り合い、山口散策のガイド役をお引き受けした。その時の体験が第4回講座に繋がっている。5人の方のガイドでも、ともすれば分散しがちで予想以上に時間を要した。次回講座では30名程度の参加が見込まれる。到底一人のガイドではこなせない。そこで推進員の皆さんと相談し、グループ分けしてガイド役も分担して頂くことになった。共通のコースマップとガイドコメントによる下見ガイドが今日の目的だった。
9時過ぎに私を含めて6名で出発した。道すがら地元の推進員の皆さんから様々な情報が寄せられ、ガイドの修正追加を教えられた。上山口の大クスの150年以上の樹齢、上山口公会堂保管の夫婦松火鉢、明徳寺境内の夜泣き地蔵前の五輪塔などの追加ガイドが必要だ。公智神社前の宮前通りは地元では「馬場の筋」の名で親しまれた通りということだ。公智神社でのトイレ休憩が欠かせない。解散地点は最終ポイントである正明寺西側の名来公園が望ましい。下見を通して以上のようなことが分かった。
午後1時から大阪での会議が入っている。11時前に正明寺境内で推進員の皆さんとお別れし、バス停に急いだ。
塩野七生著「ローマ人の物語40」 ― 2010年10月16日

かつてのローマ帝国の精神の再興を目指した若き皇帝ユリアヌスが、31歳でその生涯を終えた。ユリアヌス亡き後の僅か7カ月の帝位を継いだヨヴィアヌスは、ユリアヌスが行ったキリスト教勢力の拡大を押し止める法令をことごとく廃棄した。若き皇帝の努力は無に帰した。帝国がユリアヌス以前の状態に戻された時、ヨヴィアヌスは死体となって発見された。
その後の帝位を継いだのは、生粋の北方蛮族出身のキリスト教徒の武人ヴァレンティアヌスだった。ヴァレンティアヌスは皇帝就任後まもなく実弟ヴァレンスを東方担当の共同皇帝に任命する。そして帝国西方の蛮族侵入との闘いに明け暮れたヴァレンティアヌスの10年に及ぶ治世がその病死によって幕を引く。帝国の西半分の帝位はその長男グラティアヌスに継承され、東西に分担統治された帝国はつかの間の平穏期を迎える。
帝国の安定を崩したのは中央アジアの草原を母胎とするフン族だった。フン族の襲撃を逃れて帝国と境を接するドナウ河下流地域に住むゴート族が難民となって帝国領に移り住んだ。この地域は東方担当のヴァレンス帝の管轄下である。共存の道を選んだヴァレンス帝の思惑は蛮族の略奪と都市襲撃の前に崩れ去る。皇帝ヴァレンスは蛮族とのハドリアノポリスの闘いで大敗し戦死する。
この非常事態に西方皇帝グラティアヌスは、無政府状態になった帝国東方の回復を30代の武将テオドシウスに託し、対等の格をもった皇帝に任命する。東方皇帝となったテオドシウスは巧みな用兵で戦闘に勝ち続けゴート族を追い詰めるが、最後には蛮族の帝国領内での移住を公認することで帝国の安定をはかる。
東西の安定化がはかられる中で二人の皇帝に強い影響力を持つ人物によって強力な親キリスト教路線が推進される。その人物とは、後にカトリックと呼ばれることになるキリスト教三位一体派のミラノ司教アンブロシウスだった。首都ローマ出身の優秀な高級官僚だったアンブロシウスは、司教就任後二人の皇帝の顧問役となってカトリック・キリスト教会大飛躍の基盤固めを着実に進める。それはカトリック・キリスト教会による「異教」と「異端」との闘いでもあった。皇帝を通じてのキリスト教以外の異教は多神教のギリシャ・ローマの伝統的宗教をも圧殺する。同時にキリスト教内部のカトリック派以外の宗派をも駆逐していく。
紀元383年、西方皇帝グラティアヌスが反乱を起こした司令官によってブリタニアで殺害される。その結果テオドシウス帝が東西合わせた帝国全体を実質的に統治することになる。唯一の皇帝テオドシウスは30代で洗礼を受けている。それはキリスト教徒という「羊」になったことを意味する。司教という「羊飼い」の導くままに従う羊である。皇帝と司教の関係でいえば皇帝の権威と権力は神が認めたものであり、その神の真意は司教によって伝えられる。すべてはミラノ司教アンブロシウスの考え通りに進行した。テオドシウス帝は司教の導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた。
「キリストの勝利」と題された三巻の最終第40巻のタイトルは「司教アンブロシウス」である。それは、キリスト教と世俗の権力との関係を見事なまでに洞察していたひとりの高級官僚出身の司教によって、ローマ帝国の精神と伝統と風土が最終的に終焉を迎えさせられた物語だった。
その後の帝位を継いだのは、生粋の北方蛮族出身のキリスト教徒の武人ヴァレンティアヌスだった。ヴァレンティアヌスは皇帝就任後まもなく実弟ヴァレンスを東方担当の共同皇帝に任命する。そして帝国西方の蛮族侵入との闘いに明け暮れたヴァレンティアヌスの10年に及ぶ治世がその病死によって幕を引く。帝国の西半分の帝位はその長男グラティアヌスに継承され、東西に分担統治された帝国はつかの間の平穏期を迎える。
帝国の安定を崩したのは中央アジアの草原を母胎とするフン族だった。フン族の襲撃を逃れて帝国と境を接するドナウ河下流地域に住むゴート族が難民となって帝国領に移り住んだ。この地域は東方担当のヴァレンス帝の管轄下である。共存の道を選んだヴァレンス帝の思惑は蛮族の略奪と都市襲撃の前に崩れ去る。皇帝ヴァレンスは蛮族とのハドリアノポリスの闘いで大敗し戦死する。
この非常事態に西方皇帝グラティアヌスは、無政府状態になった帝国東方の回復を30代の武将テオドシウスに託し、対等の格をもった皇帝に任命する。東方皇帝となったテオドシウスは巧みな用兵で戦闘に勝ち続けゴート族を追い詰めるが、最後には蛮族の帝国領内での移住を公認することで帝国の安定をはかる。
東西の安定化がはかられる中で二人の皇帝に強い影響力を持つ人物によって強力な親キリスト教路線が推進される。その人物とは、後にカトリックと呼ばれることになるキリスト教三位一体派のミラノ司教アンブロシウスだった。首都ローマ出身の優秀な高級官僚だったアンブロシウスは、司教就任後二人の皇帝の顧問役となってカトリック・キリスト教会大飛躍の基盤固めを着実に進める。それはカトリック・キリスト教会による「異教」と「異端」との闘いでもあった。皇帝を通じてのキリスト教以外の異教は多神教のギリシャ・ローマの伝統的宗教をも圧殺する。同時にキリスト教内部のカトリック派以外の宗派をも駆逐していく。
紀元383年、西方皇帝グラティアヌスが反乱を起こした司令官によってブリタニアで殺害される。その結果テオドシウス帝が東西合わせた帝国全体を実質的に統治することになる。唯一の皇帝テオドシウスは30代で洗礼を受けている。それはキリスト教徒という「羊」になったことを意味する。司教という「羊飼い」の導くままに従う羊である。皇帝と司教の関係でいえば皇帝の権威と権力は神が認めたものであり、その神の真意は司教によって伝えられる。すべてはミラノ司教アンブロシウスの考え通りに進行した。テオドシウス帝は司教の導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた。
「キリストの勝利」と題された三巻の最終第40巻のタイトルは「司教アンブロシウス」である。それは、キリスト教と世俗の権力との関係を見事なまでに洞察していたひとりの高級官僚出身の司教によって、ローマ帝国の精神と伝統と風土が最終的に終焉を迎えさせられた物語だった。
大学サークル同窓会・・・帰ってきた青春 ― 2010年10月17日

昨日、大学サークルの同窓会があった。JR岡山駅近くのホテルが会場だった。1時半に自宅を出てJR三宮駅から在来線で岡山駅に向った。大学生活の最初の半年間、実家のあった姫路から岡山までを2時間かけて通学した。以来40数年を経てリタイヤした身となった。たっぷり時間はある。思い出の通学風景をあらためて車窓から眺めたいと思った。山陽本線が岡山県に入った最初の駅「三石」に着いた。思い出深い駅だが、それはあらためて記事にしよう。
会場のメルパルクOKAYAMAには開催時間の1時間前に到着。出席者は私を最年少に3年先輩までの7名の皆さんだ。リタイヤ世代の同窓会は誰もが早目に到着する。予定より30分早く5時半に開宴した。乾杯後ひとしきり雑談した後、参加者それぞれの近況報告となる。
私の報告を皮切りに席順に報告があった。自治体幹部職員退職後、農業に従事しながら農業専門学校で本格的に学習を始めたTTさん。民生委員、交通補導員などのボランティア活動の傍ら犬の育成に新たな生きがいを見出しているTHさん。市会、県会議員歴任後、NPO事業を立上げ忙しい毎日を送っているNOさん。学生時代、朝日訴訟や国際共通語エスペラントの活動に取組み、今は童話「葉っぱのフレディー」の翻訳の間違いを糺すという誰もが見過ごしてしまいそうだが、かけがいのないテーマにこだわり続けるTOさん。最後に今回の幹事役のお二人の報告である。今も現役の弁護士でハンセン病国家賠償訴訟に力を尽くすAHさんからは大病の体験なども報告された。2年前に深刻な胃がんを発病しその後の闘病で見事に社会復帰を果たしたHOさん。今回の同窓会はHOさんを励ます会でもあった。
参加者の近況報告は、学生時代のサークル活動で理解し合った各々の個性を見事に蘇らせるものだった。それぞれの人格を認め合いながらせめぎ合ったサークル活動での論争が更に新たな人格を磨きあげていた。サークルのそうした風土と活動の蓄積がその後の人生にはかりしれない影響を及ぼしていたことをあらためて思い知らされた。
予定時間をはるかにオーバーして9時半にお開きとなった。会場を後にし、一旦JR岡山駅で解散した。私を含め遠方から来訪の三名は幹事手配の駅前のビジネスホテルにチェックインした。チェックイン後、物足りなさを感じていた三人は、駅前の飲み屋を求めて再び散策した。赤提灯を見つけて生ビールのほろ酔いセットをオーダーし、論争再開となる。私以外のお二人は農業従事者である。自ずとテーマは日本の農業再生の在り方という大層なものになる。口角泡を飛ばした後、10時半閉店の店を後にホテルに戻った。40数年ぶりの「帰ってきた青春」をかみしめながらベッドに着いた。
会場のメルパルクOKAYAMAには開催時間の1時間前に到着。出席者は私を最年少に3年先輩までの7名の皆さんだ。リタイヤ世代の同窓会は誰もが早目に到着する。予定より30分早く5時半に開宴した。乾杯後ひとしきり雑談した後、参加者それぞれの近況報告となる。
私の報告を皮切りに席順に報告があった。自治体幹部職員退職後、農業に従事しながら農業専門学校で本格的に学習を始めたTTさん。民生委員、交通補導員などのボランティア活動の傍ら犬の育成に新たな生きがいを見出しているTHさん。市会、県会議員歴任後、NPO事業を立上げ忙しい毎日を送っているNOさん。学生時代、朝日訴訟や国際共通語エスペラントの活動に取組み、今は童話「葉っぱのフレディー」の翻訳の間違いを糺すという誰もが見過ごしてしまいそうだが、かけがいのないテーマにこだわり続けるTOさん。最後に今回の幹事役のお二人の報告である。今も現役の弁護士でハンセン病国家賠償訴訟に力を尽くすAHさんからは大病の体験なども報告された。2年前に深刻な胃がんを発病しその後の闘病で見事に社会復帰を果たしたHOさん。今回の同窓会はHOさんを励ます会でもあった。
参加者の近況報告は、学生時代のサークル活動で理解し合った各々の個性を見事に蘇らせるものだった。それぞれの人格を認め合いながらせめぎ合ったサークル活動での論争が更に新たな人格を磨きあげていた。サークルのそうした風土と活動の蓄積がその後の人生にはかりしれない影響を及ぼしていたことをあらためて思い知らされた。
予定時間をはるかにオーバーして9時半にお開きとなった。会場を後にし、一旦JR岡山駅で解散した。私を含め遠方から来訪の三名は幹事手配の駅前のビジネスホテルにチェックインした。チェックイン後、物足りなさを感じていた三人は、駅前の飲み屋を求めて再び散策した。赤提灯を見つけて生ビールのほろ酔いセットをオーダーし、論争再開となる。私以外のお二人は農業従事者である。自ずとテーマは日本の農業再生の在り方という大層なものになる。口角泡を飛ばした後、10時半閉店の店を後にホテルに戻った。40数年ぶりの「帰ってきた青春」をかみしめながらベッドに着いた。
大学サークル同窓会・・・吉備路の散策 ― 2010年10月18日

6時前に目が覚めた。大学サークル同窓会の懇親会後の岡山駅前のビジネスホテルの一室だった。朝食までの時間をこの町の随一の花街だった一角を訪ねた。学生時代の一時期を通ったバイト先のあったところだが、これもあらためて記事にしようと思う。7時ちょうどにホテルに戻った。宿泊組三名は8時前に迎えに来てもらった幹事のAHさんと合流し、駅前通りで待つHOさんのマイカーに乗り込んだ。
30分余りで吉備路最大の名所である備中国分寺に着いた。ピンクと白の一面のコスモス畑の向うに五重塔の美しい姿が見えた。国分寺参拝の後、裏手を抜けて畦道沿いにこうもり塚古墳に向った。吉備王国名残りの6世紀後半の前方後円墳である。全国最大規模と言われる横穴式石室に入り巨大な石棺を目の当たりに見る。
次に向ったのは酒津配水池だった。高梁川の笠井堰から取水した溜池である。済興寺駐車場から西に向い高梁川東側の疎水を南に進む。大きな溜池の南には五つの排水門の不思議な構造物が目につく。疎水百選にも選ばれた美しい風景が広がっていた。
ここから最後の目的地である倉敷美観地区は目前だ。地区内に入るとすぐに奇妙なお面をつけた着物股引姿の男たちがたむろしていた。昨晩テレビニュースで報道されていた倉敷秋祭りの素隠居(すいんきょ)だ。早速、赤い団扇で頭を叩かれた。その先には二台の布団神輿が練られている。よく見ると一台は太鼓打ちと担ぎ手が揃って女ばかりの珍しい神輿だ。男神輿と女神輿の組合せのお祭りのようだ。しばらく見物した後、古くからある有名なcafeエル・グレコに入り、コーヒーを味わいながら休憩した。
大原美術館のパスポート・チケットを購入し美術館巡りを始める。最初に大原孫三郎の住まいだった有隣荘を見学し、続いて本館、工芸・東洋館、分館と見て回る。何といっても圧巻は著名な西洋画家たちの名作の数々だ。グレコの受胎告知やモネの睡蓮をはじめ、誰もが知っている有名絵画が次々に登場する。セザンヌ、ゴーギャン、マネ、ルノワール、マティスなどの巨匠たちの作品をよくぞこれだけ一堂に集められたものだと驚嘆する他はない。
昼食は幹事お勧めの「讃州うどんの庄・かな泉」という店で冷やし天ぷらうどんを味わった。昼食を済ませて駐車場に向う。途中、倉敷川の川面を優雅な川舟が下ってくるのに出くわした。巫女姿の三人の美女が身じろぎもせず着座している。パンフレットで「三女神舟巡幸」という行事だと知った。車に乗り込みお祭りが尚続いている美観地区を後にし、岡山駅に向った。駅で幹事のお二人と西に向うTHさんとお別れし、姫路まで一緒のTTさんともども2時半の上り新幹線に乗車した。
30分余りで吉備路最大の名所である備中国分寺に着いた。ピンクと白の一面のコスモス畑の向うに五重塔の美しい姿が見えた。国分寺参拝の後、裏手を抜けて畦道沿いにこうもり塚古墳に向った。吉備王国名残りの6世紀後半の前方後円墳である。全国最大規模と言われる横穴式石室に入り巨大な石棺を目の当たりに見る。
次に向ったのは酒津配水池だった。高梁川の笠井堰から取水した溜池である。済興寺駐車場から西に向い高梁川東側の疎水を南に進む。大きな溜池の南には五つの排水門の不思議な構造物が目につく。疎水百選にも選ばれた美しい風景が広がっていた。
ここから最後の目的地である倉敷美観地区は目前だ。地区内に入るとすぐに奇妙なお面をつけた着物股引姿の男たちがたむろしていた。昨晩テレビニュースで報道されていた倉敷秋祭りの素隠居(すいんきょ)だ。早速、赤い団扇で頭を叩かれた。その先には二台の布団神輿が練られている。よく見ると一台は太鼓打ちと担ぎ手が揃って女ばかりの珍しい神輿だ。男神輿と女神輿の組合せのお祭りのようだ。しばらく見物した後、古くからある有名なcafeエル・グレコに入り、コーヒーを味わいながら休憩した。
大原美術館のパスポート・チケットを購入し美術館巡りを始める。最初に大原孫三郎の住まいだった有隣荘を見学し、続いて本館、工芸・東洋館、分館と見て回る。何といっても圧巻は著名な西洋画家たちの名作の数々だ。グレコの受胎告知やモネの睡蓮をはじめ、誰もが知っている有名絵画が次々に登場する。セザンヌ、ゴーギャン、マネ、ルノワール、マティスなどの巨匠たちの作品をよくぞこれだけ一堂に集められたものだと驚嘆する他はない。
昼食は幹事お勧めの「讃州うどんの庄・かな泉」という店で冷やし天ぷらうどんを味わった。昼食を済ませて駐車場に向う。途中、倉敷川の川面を優雅な川舟が下ってくるのに出くわした。巫女姿の三人の美女が身じろぎもせず着座している。パンフレットで「三女神舟巡幸」という行事だと知った。車に乗り込みお祭りが尚続いている美観地区を後にし、岡山駅に向った。駅で幹事のお二人と西に向うTHさんとお別れし、姫路まで一緒のTTさんともども2時半の上り新幹線に乗車した。
十八歳のひと夏の青春 ― 2010年10月19日

大学時代のサークルの同窓会に出席した。三宮駅から岡山駅までをJR在来線で行くことにした。リタイヤ後のたっぷりある時間を追憶の旅に充てようと思ったのだ。播州赤穂行の新快速電車が姫路駅に着いた。ここから岡山までは40数年前の半年間、入学したばかりの大学に毎日2時間ほどかけて通学した路線だった。姫路駅からは新快速が各駅停車に切り替わる。乗客たちがごっそり入れ替わり車内の風景がローカル色を強めた。相生駅に着いた電車を降りて、向い側ホームに停車中の鈍行電車に乗り代える。まばらな乗客の旧型車両のボックス席に一人座った。車窓ののどかな田園風景が旅路の寛ぎをもたらしてくれる。三宮駅で求めておいた缶ビールを空けると、至福のひと時が訪れた。県境を越えて岡山県に入った最初の駅が三石駅だ。思い出深い駅の風景が40数年前の十八歳の夏の光景をまざまざと蘇らせた。
『私の通学電車にふた駅先の和気高校に通学する高校生たちが大勢乗り込んできた。ボックス席の向い側に一人の女子高生が席を占めた。大柄の屈託のない明るい雰囲気の女の子だった。どんなきっかけだったのかは忘却の彼方だ。いつの間にかおしゃべりしていた。意外に話しが弾んだことは確かだ。彼女が下車する和気駅にあっという間に到着した。次の日、到着した三石駅で半ば期待しながら車窓越しにホームを見つめた。目ざとく私を見つけた彼女が笑顔で手を振り乗車口に急いだ。向かいの席にやってきた彼女とのおしゃべりが再開した。どれくらいの期間だっただろう。同じ通学列車の同じ車両の同じ席が二人の共通の空間となって時が過ぎた。
夏休みを終えて後期から下宿することになった。二人の共通の空間は断念を余儀なくされた。しばらく文通が続いた後、大学とその周辺を案内する約束ができた。岡山駅で落ち合ってバスで大学構内にやってきた。構内や隣接の運動公園を散策した。どんな話しの成り行きだったのか、私の下宿を訪ねたいと言い出した。年上の冷静さが一瞬のためらいを招いたが、結局案内することになった。四畳半一間の我が城で少し緊張しながら何事もなく過ごした。何事かがあるには二人は余りにも純情で若すぎたというほかはない。下宿を後にした彼女を駅まで見送った。その後二人が会うことはなかった。』
昭和30年代が終わろうとする頃の、ひと夏の淡い青春物語である。
『私の通学電車にふた駅先の和気高校に通学する高校生たちが大勢乗り込んできた。ボックス席の向い側に一人の女子高生が席を占めた。大柄の屈託のない明るい雰囲気の女の子だった。どんなきっかけだったのかは忘却の彼方だ。いつの間にかおしゃべりしていた。意外に話しが弾んだことは確かだ。彼女が下車する和気駅にあっという間に到着した。次の日、到着した三石駅で半ば期待しながら車窓越しにホームを見つめた。目ざとく私を見つけた彼女が笑顔で手を振り乗車口に急いだ。向かいの席にやってきた彼女とのおしゃべりが再開した。どれくらいの期間だっただろう。同じ通学列車の同じ車両の同じ席が二人の共通の空間となって時が過ぎた。
夏休みを終えて後期から下宿することになった。二人の共通の空間は断念を余儀なくされた。しばらく文通が続いた後、大学とその周辺を案内する約束ができた。岡山駅で落ち合ってバスで大学構内にやってきた。構内や隣接の運動公園を散策した。どんな話しの成り行きだったのか、私の下宿を訪ねたいと言い出した。年上の冷静さが一瞬のためらいを招いたが、結局案内することになった。四畳半一間の我が城で少し緊張しながら何事もなく過ごした。何事かがあるには二人は余りにも純情で若すぎたというほかはない。下宿を後にした彼女を駅まで見送った。その後二人が会うことはなかった。』
昭和30年代が終わろうとする頃の、ひと夏の淡い青春物語である。
「クラブ環」の人間模様 ― 2010年10月20日

大学サークル同窓会の懇親会を終えた翌朝である。岡山駅前のビジネスホテルを後にし、旅先での早朝散策を愉しんだ。この町随一の花街だった一角に向った。学生時代の一時期を通ったバイト先のあったところだ。
駅前の大通りに出た。日の出前の人気のない薄明りの街並みをライトを点けた路面電車が発車時間を待っていた。東にしばらく歩くと西川に出る。繁華街の中心部を流れる掘割である。右に折れて西川沿いの整備された並木の続く遊歩道を進む。500mばかり南に行った所の左手一帯が「田町」と呼ばれる花街だ。
バイトをしていた当時、格式のある一流クラブと言われた「クラブ烏城」の跡地らしき所にやってきた。そのすぐ南の角を右に折れた先に「クラブ環」があった。そこには今は水商売の店が各フロアを埋める雑居ビルが建ち、辛うじて当時の面影を残していた。突然、背後で男女のかん高い嬌声が聞こえた。クラブ烏城の跡地らしきビルから出てきた若いイケメン二人が、ふらついた足取りのアラフォー世代の女性をタクシーに乗せようとしていた。かっての名門クラブは今やホストクラブにその席を明け渡していた。玄関先の若者たちの嬌声が、40数年前のバイト生活で初めて知った水商売の実態と人間模様を思い起こさせた。
『大学の出身高校同窓会で知り合った1年先輩からの助っ人依頼がきっかけだった。彼のバイト先の田町のクラブでどうしても人手が足りないので二三日でいいから臨時バイトをしてくれないかとのことだった。小説の世界でしか知らない水商売というものへの興味がなかったわけではない。実際にその世界を垣間見てみるのも悪くない。そんな軽い気持ちで引き受けた。
二三日の筈の水商売のバイトは、かれこれ2年近くに及んだ。夕方から深夜12時まで、銀盆片手に客席の間を飲み物や料理を運び灰皿を交換し入店客を案内するというボーイの仕事だった。こわごわ半身で浸かった水は意外と心地良いものだった。ある種の恐怖の予感は皆無だった。同時にチョッピリ期待したおねえさんたちとの甘い関係もまた皆無だった。
ママの弟だという気弱で気の良いマネージャー、口数少なくしっかりと店を仕切って誰からも一目置かれていたチーフバーテンダーのヤマちゃん、一見やくざ風ながら根は優しかったバーテンのオオスミさん、イケメン気どりの軽薄さが持ち味のフロア主任のニシオカくんなど、いつの間にか気心知れた仲間意識が芽生えていた。休日のある日、オオスミさんの自宅に遊びに行ったこともある。在日韓国人の何世かだった彼の奥さんから美味しい焼き肉をご馳走になった。ホステスのおねえさんたちの何人かとも親しくなって軽口を叩きあったり、ラーメンをご馳走になったりした。華やかな客席での彼女たちとは裏腹に子供を抱えて必死に生きている素顔が覗けるのもそんな時だった。ある日のショータイムにデビュー直後の「ヒデとロザンナ」がどさ回りの営業にやってきた。2階の客席に向うロザンナのミニスカートからはみ出した逞しい両足に息を呑んだ記憶が今も残っている。
私にとっての異色の世界だった筈の水商売のバイト先は、ごく普通の人たちが織りなす人間模様で彩られた異色でも何でもない世界だった。』
駅前の大通りに出た。日の出前の人気のない薄明りの街並みをライトを点けた路面電車が発車時間を待っていた。東にしばらく歩くと西川に出る。繁華街の中心部を流れる掘割である。右に折れて西川沿いの整備された並木の続く遊歩道を進む。500mばかり南に行った所の左手一帯が「田町」と呼ばれる花街だ。
バイトをしていた当時、格式のある一流クラブと言われた「クラブ烏城」の跡地らしき所にやってきた。そのすぐ南の角を右に折れた先に「クラブ環」があった。そこには今は水商売の店が各フロアを埋める雑居ビルが建ち、辛うじて当時の面影を残していた。突然、背後で男女のかん高い嬌声が聞こえた。クラブ烏城の跡地らしきビルから出てきた若いイケメン二人が、ふらついた足取りのアラフォー世代の女性をタクシーに乗せようとしていた。かっての名門クラブは今やホストクラブにその席を明け渡していた。玄関先の若者たちの嬌声が、40数年前のバイト生活で初めて知った水商売の実態と人間模様を思い起こさせた。
『大学の出身高校同窓会で知り合った1年先輩からの助っ人依頼がきっかけだった。彼のバイト先の田町のクラブでどうしても人手が足りないので二三日でいいから臨時バイトをしてくれないかとのことだった。小説の世界でしか知らない水商売というものへの興味がなかったわけではない。実際にその世界を垣間見てみるのも悪くない。そんな軽い気持ちで引き受けた。
二三日の筈の水商売のバイトは、かれこれ2年近くに及んだ。夕方から深夜12時まで、銀盆片手に客席の間を飲み物や料理を運び灰皿を交換し入店客を案内するというボーイの仕事だった。こわごわ半身で浸かった水は意外と心地良いものだった。ある種の恐怖の予感は皆無だった。同時にチョッピリ期待したおねえさんたちとの甘い関係もまた皆無だった。
ママの弟だという気弱で気の良いマネージャー、口数少なくしっかりと店を仕切って誰からも一目置かれていたチーフバーテンダーのヤマちゃん、一見やくざ風ながら根は優しかったバーテンのオオスミさん、イケメン気どりの軽薄さが持ち味のフロア主任のニシオカくんなど、いつの間にか気心知れた仲間意識が芽生えていた。休日のある日、オオスミさんの自宅に遊びに行ったこともある。在日韓国人の何世かだった彼の奥さんから美味しい焼き肉をご馳走になった。ホステスのおねえさんたちの何人かとも親しくなって軽口を叩きあったり、ラーメンをご馳走になったりした。華やかな客席での彼女たちとは裏腹に子供を抱えて必死に生きている素顔が覗けるのもそんな時だった。ある日のショータイムにデビュー直後の「ヒデとロザンナ」がどさ回りの営業にやってきた。2階の客席に向うロザンナのミニスカートからはみ出した逞しい両足に息を呑んだ記憶が今も残っている。
私にとっての異色の世界だった筈の水商売のバイト先は、ごく普通の人たちが織りなす人間模様で彩られた異色でも何でもない世界だった。』
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