復刻版日記24「土砂降りの蝉の声」 ― 2011年08月02日
猛暑の早朝散歩道でかしましいクマゼミの鳴き声を耳にした。その騒がしさに数年前の現役時代の通勤途上の光景を思い出した。その印象的な光景をHP日記で綴ったものだ。
『ウォーキング通勤の効用のひとつに、季節の移ろいを肌で感じられる楽しさがある。8月はじめの夏真っ只中の通勤途上でのひとコマである。通勤経路の商店街の路地を入った所に200坪足らずの児童公園がある。狭い公園の周囲を、広葉樹の緑の葉っぱが覆っている。早朝7時頃だった。その公園にさしかかった途端、私の耳に土砂降りの蝉の声が一斉に降り注がれた。何しろ周辺は下町の人口密集地域である。この公園以外に付近に緑地はない。近辺に生息するあらゆる蝉がこぞってこの公園の合唱コンクールに参加したとしても不思議でない。
それにしてもなんという騒々しさだろう。「ミーンミーン」というアブラ蝉の合唱が醸し出す「蝉しぐれ」の情緒には程遠い凄まじさである。クマ蝉の「シャーシャーシャーシャー」というバケツをひっくり返したような騒がしさである。とはいえこの真夏の風物詩がもたらす自然騒音に、ある種の心地よさを感じていたのも否定できない。
公園沿いの通路脇の樹に、甲高い鳴き声を発しながら取り付いている一匹のクマ蝉が目に入った。手を伸ばせば届く位置である。私の足音は聞こえている筈のくだんの蝉は、大胆にも鳴き声を止める気配はない。子供の頃の光景が蘇えった。我が物顔に羽を震わせている蝉の背後から、足音を忍ばせ網を近づけた。網が蝉のバリヤーに踏み込んだ途端、必ず鳴き声がピタッと止んだ。狼狽して一気にかぶせた網を、苦もなくかい潜った蝉は、愚かなハンターをあざ笑うように空高く消え去った。時に蝉の小便と称する水滴を散らしながら・・・。
ところで目の前の蝉である。思わず立ち止まって見つめる私の視線を浴びながら依然として雄叫びを上げ続けているのだ。「何を小癪な!」。いたずら心を抑え切れなくなった50年後のハンターがそっと手を伸ばす。右手の親指と人差し指が、獲物の胴体の左右の空間で静止する。鳴き続ける蝉。「まさか」。二本の指がゆっくり閉じられた。「ウッソーッ!」。彼の蝉は、私の指の間で固まっていた。
私が幼かった頃、あれほど不敵で、そしてすばしこかった蝉はどこにいったのか。蝉の側だけに問題があったのではない。蝉を取り巻く環境が大きく変化したのだ。都会の子供たちの遊びから「蝉取り」が消えてどれ位になるのだろうか。かって蝉取りに熱中した子供たちは、今や「ムシキング」のモニターにかじりついて一顧だにしない。都会の蝉たちは、自身が捕獲されるという恐怖の体験を味わうことがなくなって久しい。かって蝉の体内に埋め込まれていた危険を敏感にキャッチするセンサー遺伝子は、稼動することなく数十年を経た。そして今、センサー機能を退化させた無力な蝉が私の指先に摘まれている。
指先の蝉についてのこの解釈は一方的な仮説なのかもしれない。この蝉は、不幸にも短い命の最終章で私の目に留まってしまっただけなのだ。危険を察知しても、飛び立つだけの余力はなかったのだ。ふとそんな気がして、指先をそっと開いてみた。蝉は、あっという間に真っ青な空に吸い込まれるように飛び去った。見事なはばたきの残像が目に焼きついた。
残されたわずかな命に向って精一杯羽ばたいていったけなげな蝉との束の間の楽しい触れ合いだった。その余韻を愉しみながらウォーキングを再開した。
『ウォーキング通勤の効用のひとつに、季節の移ろいを肌で感じられる楽しさがある。8月はじめの夏真っ只中の通勤途上でのひとコマである。通勤経路の商店街の路地を入った所に200坪足らずの児童公園がある。狭い公園の周囲を、広葉樹の緑の葉っぱが覆っている。早朝7時頃だった。その公園にさしかかった途端、私の耳に土砂降りの蝉の声が一斉に降り注がれた。何しろ周辺は下町の人口密集地域である。この公園以外に付近に緑地はない。近辺に生息するあらゆる蝉がこぞってこの公園の合唱コンクールに参加したとしても不思議でない。
それにしてもなんという騒々しさだろう。「ミーンミーン」というアブラ蝉の合唱が醸し出す「蝉しぐれ」の情緒には程遠い凄まじさである。クマ蝉の「シャーシャーシャーシャー」というバケツをひっくり返したような騒がしさである。とはいえこの真夏の風物詩がもたらす自然騒音に、ある種の心地よさを感じていたのも否定できない。
公園沿いの通路脇の樹に、甲高い鳴き声を発しながら取り付いている一匹のクマ蝉が目に入った。手を伸ばせば届く位置である。私の足音は聞こえている筈のくだんの蝉は、大胆にも鳴き声を止める気配はない。子供の頃の光景が蘇えった。我が物顔に羽を震わせている蝉の背後から、足音を忍ばせ網を近づけた。網が蝉のバリヤーに踏み込んだ途端、必ず鳴き声がピタッと止んだ。狼狽して一気にかぶせた網を、苦もなくかい潜った蝉は、愚かなハンターをあざ笑うように空高く消え去った。時に蝉の小便と称する水滴を散らしながら・・・。
ところで目の前の蝉である。思わず立ち止まって見つめる私の視線を浴びながら依然として雄叫びを上げ続けているのだ。「何を小癪な!」。いたずら心を抑え切れなくなった50年後のハンターがそっと手を伸ばす。右手の親指と人差し指が、獲物の胴体の左右の空間で静止する。鳴き続ける蝉。「まさか」。二本の指がゆっくり閉じられた。「ウッソーッ!」。彼の蝉は、私の指の間で固まっていた。
私が幼かった頃、あれほど不敵で、そしてすばしこかった蝉はどこにいったのか。蝉の側だけに問題があったのではない。蝉を取り巻く環境が大きく変化したのだ。都会の子供たちの遊びから「蝉取り」が消えてどれ位になるのだろうか。かって蝉取りに熱中した子供たちは、今や「ムシキング」のモニターにかじりついて一顧だにしない。都会の蝉たちは、自身が捕獲されるという恐怖の体験を味わうことがなくなって久しい。かって蝉の体内に埋め込まれていた危険を敏感にキャッチするセンサー遺伝子は、稼動することなく数十年を経た。そして今、センサー機能を退化させた無力な蝉が私の指先に摘まれている。
指先の蝉についてのこの解釈は一方的な仮説なのかもしれない。この蝉は、不幸にも短い命の最終章で私の目に留まってしまっただけなのだ。危険を察知しても、飛び立つだけの余力はなかったのだ。ふとそんな気がして、指先をそっと開いてみた。蝉は、あっという間に真っ青な空に吸い込まれるように飛び去った。見事なはばたきの残像が目に焼きついた。
残されたわずかな命に向って精一杯羽ばたいていったけなげな蝉との束の間の楽しい触れ合いだった。その余韻を愉しみながらウォーキングを再開した。
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