新たな伴侶と過ごす老後の形2013年08月23日

 私の同年代の二人の知人が還暦前後の歳で新たなパートナーとの老後を選択した。二人の選択を見聞しながら、老後を新たな伴侶と過ごすということの意味を考えさせられた。
 ひとりは前妻と離婚した後、同世代の女性と再婚した。学生時代からの永い付き合いで、前妻とも今の伴侶とも夫婦ぐるみで面識がある。最近もその知人宅を訪ね夫婦二組で懇談した。雑談を通して二人の関係の在り方を垣間見た気がした。一言でいえば、「いたわり合い」ということになるだろうか。ともに「バツイチ」である。それぞれに結婚生活の不幸な結末を味わった末の再出発である。それだけにお互いをいたわり合う気遣いが伝わってくる。同時にそれは夫婦間のある種の遠慮を意味しているようにも見えた。
 今ひとりは前妻と死別した後、少し歳の差のある女性と巡り合った末の選択である。前妻とは面識があったが新たなパートナーとは面識はない。ともに両親が健在で、成人した子供もいるようだ。当人どうしは互いを老後の伴侶として選択しているという。問題はそれを「再婚」という形で行うには両親や子供たちといった家族との軋轢が大き過ぎるということのようだ。新たな家族関係を受け入れることの家族の側の抵抗感も分からなくはない。老後に新たな伴侶と過ごすということの現実的な障害である。ならばあえて婚姻関係を結ばずとも事実婚でも良いではないかとも思うが、部外者の無責任なコメントかもしれない。二人の選択は家族たちからの公の祝福で完結するという「熱い想い」があるのかもしれない。
 二組の「新たな伴侶と過ごす老後の形」を想いながら、我が「昔からの伴侶と過ごす老後の形」を振り返った。きみまろ流の「あれから40年」の伴侶がいた。「いたわり合い」はなくとも遠慮もない。ツーカーで通じ合う阿吽(あうん)がある。「熱い想い」はなくとも「冷めた諦観」がある。「夫婦はひとり、時々二人」の永年連れ添った末の「ほど良い距離感」がある。何よりも家族に波風立てずに二人で終生を全うするという安心感と安定感は何物にも代え難いものがある。・・・という我田引水で締めておこう。