五木寛之著「林住期」2010年02月13日

 五木寛之の幻冬社文庫版の「林住期」を読んだ。解説を2月8日に亡くなったばかりの立松和平が書いている。
 古代インドでは、人生を「学生(がくしょう)期」「家住(かじゅう)期」「林住(りんじゅう)期」「遊行(ゆぎょう)期」の四つの時期に分けて考えていた。空想でなくなった人生百年時代を迎えて、作者は前半の50年を終えた後半25年に注目する。50歳から75歳までの「林住期」こそが人生のクライマックスであると主張する。この季節のためにこそ、それまでの50年があったと考えようと説く。そして林住期のイメージをアスリートにたとえて「ジャンプ」と表現する。学生期に基礎体力をつくり、家住期に技術と経験をつみ、林住期という本番の試合に臨むのだ。生きるために働くのでもなければ、働くために生きるのでもない。生きるために生きることこそが林住期の過ごし方ではないか。このような仮説のもとに、作者は様々な角度から林住期の過ごし方を述べる。夫婦関係でいえば、恋愛中心の学生期、愛をはぐくむ家住期、一個の人間として相手と向きあう林住期といった具合だ。
 林住期の体調維持の中で触れられた「呼吸」についての記述は読んでみて「目から鱗」の感を抱いた。人が「生きる(イキル)」とは「息をする」ことではあるまいか。生きることをやめることを「息絶える」という。このように人間の生命活動で最も重要なのは呼吸である。人はオギャアと生まれて最初の息は吐く息(呼気)である。死ぬときにはグッと息を吸い込んで息絶える。「息を引きとる」とは吸った息を吐く力がなくなったときだ。吐く息こそが生命である。カラオケでうたうのも、僧が読経するのも、念仏やお題目を唱え続けるのも長く息を吐き、瞬間的に短く息を吸うという一種の呼吸のトレーニングといえる。そこに念ずる心があれば、より深い呼吸になる。
 「人生50年説」についても語られる。歯医者にかかっている50代の友人の話である。歯の不具合を訊ねる友人に若い歯医者が答える。「人間の体の各部分はだいたい50年ぐらいはもつように作られているわけですから、それを過ぎるといっせいに不具合が出てきます。耐用期限切れですから仕方がないでしょう」。「人生50年」は今も昔もある真実を言い当てている。「50年生きられる」というのでなく「50年は何とかまともに生きられる」ということだ。50歳を迎えたら、耐用期限を過ぎた心身をいたわりつつ、楽しんで暮らす。それが理想だ。
 この指摘は、我が身の日々の衰えを受けとめる上でおおいに励まされた。老いと向きあい、気楽に付き合うためのすぐれた処方箋といってよい。
 作者・五木寛之の林住期をも超えた76歳の作品である。彼の思索の到達点ともいえる作品なのだろうか。肩の力を抜いたさわやかな語り口が実にいい。ひと回りほどの年齢差を追いかけながら五木作品を今後も辿ってみようと思わせられた一作だった。