藤沢周平著「小説の周辺」(その4:小説の周辺)2012年11月19日

 藤沢周平著「小説の周辺」の三番目のパートの所感である。このパートこそが「小説の周辺」にふさわしい内容だった。
 このパートでは、著者が愛読した文学作品(漢詩、近代詩、ミステリー、俳句、短歌など)の書評や映画評、徳川家康や大石内蔵助などの人物評、自身の著作にまつわるエピソードなどの27のエッセイが綴られている。
 「映像と原作」と題された自分の原作ドラマについてのエッセイが面白かった。「映像というものには凄いところがあって、時どき原作者の立場など忘れてしまうような、すぐれた映像にぶつかることがある。原作につきすぎてもいなければ、離れすぎてもいない、そういう位置で、自由に原作を料理し、まさに映像でしか表現出来ないものを描きだしているような作品にぶつかると、原作者は、半ば観客であり半ば原作者である立場から、完全に一人の幸福な観客になり切る。つまり脱帽するわけである。映像は、原作を再現するメディアとしてあるわけではない。原作に触発されて、そこからまったく別の世界を構築してみせる、映像自身のために存在するものなのである」。映像の原作者ならではの見方だと思った。
 このエッセイ集の著者の「あとがき」も印象的だった。「エッセーというものはたとえば業余のしたたりとでもいうか、仕事のひまにぽつりぽつりと心に浮かぶことを書きとめるなら、かなりいいものが出来るのではないかという気がする」という点は、なんとなく分かる気がした。また「私はこのエッセー集でも、(略)しきりに郷里について書いていることに気づいた。しかし考えてみれば私は郷里にいくつかの大切なもの、たとえば風景、人情、教え子、友人知己などを残して、その日暮らしに似た都会生活を送っているわけで、こうした私自身の存在理由にかかわるような事柄については、どうしても繰り返し書くことになるのだと思う」という感慨もまた、著者の作品の根底に流れるものを垣間見たように思えて共感した。