藤沢周平著「小説の周辺」(その2:作家の日常)2012年11月10日

 藤沢周平著「小説の周辺」の最初のパートの所感である。便宜的に「作家の日常」というタイトルを勝手につけてみたジャンルである。
 このエッセイ集で藤沢周平が配偶者を「家内」という呼称で綴っていることを知って内心でほくそ笑んだ。私自身もこのブログで同じ呼称で綴っている。どうでもいいようなものだが、他人の目に触れる表現としてはこれは結構悩ましい。「妻」「女房」「嫁はん」「かみさん」「連れ合い」「お母さん」「母ちゃん」「○○(固有名詞)」等々、選択肢は多い。それぞれの言葉の語感に、配偶者との距離感や親密度の微妙な違いを感じてしまう。「家内」を「主婦を家の中に押し籠めておきたい男社会の呼称」という説もある。それでも「家内」を使うのは、それが自分自身の日常用語であり、ありのままの日常を語る上では避けがたいと思うからである。
 それはさておき、このパートでは、NHKの素人のど自慢や大相撲中継の愉しみ方、正月の過ごし方、老いの感じ方、碁のつきあい、方言の味、歯痛と歯医者とのつきあい、散歩道の風景など23のエッセイが綴られている。
 気に入った文章や琴線に触れる表現を幾つか記しておこう。「核の開発は科学の偉大な勝利だったろうが、核兵器を頭の上にぶら下げて進退きわまっている人間はマンガでしかない(『暑い夜』」)」。「方言の後ろには気候と風土、その土地の暮らしがぎっしりと詰まっている。方言がときとして人を感動させるのは、それが背後の文化を表出しながら今も生きていることばだからである(『生きていることば』)」。「年とることはいやなことである。(略)ただし私には、人間の老化は自然の現象で、じたばたしても仕方ないという気持ちもある。(略)やはり年相応に老いてみっともなくなって行くのが、一面、人間ののぞましい姿なのではなかろうか(『剰余価値』」)」。
 著者の老境にさしかかった50代の頃の著作である。日常を見つめる視線に円熟した穏やかさや優しさが窺える。このパートの最後のエッセイ「冬の意散歩道」も良かった。毎朝の30分ほどの散歩を語ったものだ。自宅を出てからの散歩道で展開する風景が描かれる。散歩の終わり頃に野良猫たちの三角関係のバトルを目撃する。「争いの種となった雌猫と思われる猫が道に出てきた。それが存外に不器量な猫なので、思わずにやりとする。しかし器量がいい女性と魅力のある女性というものはちがうだろうから、といった感想がまとまるころには、出発点に近いバス路線が見えて来て、私の散歩も終わりに近づいているのである」と、このエッセイが締めくくられる。さりげない文章に作家の眼差しが光っている。毎朝、同じコースを散歩している自分の心情がオーバーラップしてくる。