やっと撮れたッ!二羽のカワセミ2012年11月01日

 有馬川堤の草の合間にチラッと目に入った。瞬間的にカワセミだと確信した。先日、二羽のカワセミを見かけた場所からわずか10mほど先のところだった。即座に足を止め、ポケットを探った。こんなこともあろうかと今朝はバッチリ30倍ズームのデジカメを忍ばせていた。
 堰の上で二羽のカワセミがその鮮やかな濃淡二色のブルーの羽根を休めていた。これまでの幾度かの遭遇経験が、一羽の時は間違いなく人の気配を察知して、瞬時に飛び去るという習性を教えていた。ところが二羽の時は何故か飛び立たないことを先日の遭遇で知った。今朝も期待通りの行動パターンを見せてくれた。佇んだままじっとしている。しばらくして一羽が河原の砂利に降り立った。もう一羽が後を追う。首を左右に動かして回りを窺う所作が愛らしい。再び堰の上に一緒に戻る。これだけ仲が良いのだから、カップルにちがいないと思った(帰宅後Wikiで調べると「オスはクチバシが黒く、メスは下のクチバシが赤い」ということだが、画像では判別できなかった)。
 もちろんデジカメのズームを変えながら何度もシャッターを切った。二羽のカワセミをズームで捉えて一枚の画像に納めるという奇跡的な機会を得て内心で小躍りしていた。二羽がすぐ近くで一緒にいたこと、それを目撃したこと、高ズーム機能付きのデジカメをもっていたこと、そして二羽が飛び立たなかったことの全ての条件が重なってキャッチできた幸運なのだから。
 この感動を、誰かと分かち合いたいと思った。私が来た方から人影が徐々に大きくなって近づいた。予想通り先日の遭遇でも共感し合った同じ住宅街の同年輩のご婦人だった。近づいた彼女に目で合図しながら唇に立てた人指しゆびを川面に向けた。すぐに察知して一瞬の驚きの表情がすぐに笑顔に変わった。そっとその場を離れた時に、デジカメのモニターに表示した二羽のカワセミを自慢げに見せた。「今日もデジカメを持ってこなかったんです」と悔やむ彼女に、「有馬川散策にはデジカメは必携ですね」とエラそうに範を垂れた。
 もちろん今日のブログネタはこれしかない。貼付画像にはオマケで過去に撮ったカワセミのいいショットを2点追加した。

宮水学園(塩瀬)「ブラジル移民と弓場(ゆば)農場」2012年11月02日

 一昨日の午後、3ヶ月ぶりに宮水学園塩瀬講座を受講した。講師がいつも貴重で面白い話を聞かせてもらえる山下忠男西宮文化協会会長であり、テーマも「名塩の進取の気風~ブラジル移民と弓場農場~」という興味深いものだったこともある。
 受付でいつもながら大部の資料がテキストとして渡された。受講後、自宅で復習する上で貴重なものだ。中心となる話は、名塩出身の弓場勇氏が一家をあげてブラジルに移住し、弓場共同農場をつくり上げる物語だった。
 弓場農場づくりの背景となる日本のブラジル移住の歴史が語られる。1908年(明治41年)に笠戸丸で800名弱の農業労働者がブラジル移住して以来、約100年を経て現在6世まで約150万人の日系人が在住する。初期の移住は、出稼ぎの貧農でなく高額の渡航費を負担できる専門職の非農民が多数を占めたという。移住先はサンパウロ州の大農場で、過酷な労働と低賃金が待ち受け、風土病で死去する移住者も多かった。笠戸丸移住者で3年後に何とか安定した生活を確保できたのはその4分の1に過ぎなかった。自力で生活できるようになった移民たちは、少しずつ土地を購入したり借りたりして自営農民となり、徐々に日本人集団地を形成した。
 1924年に信濃海外協会を中心にアリアンサ移住地が開設された。アリアンサとは「共生、共同、協力」を意味するポルトガル語である。アリアンサには、ある程度の資産を持ち教育水準も比較的高い若者たちが、理想郷建設を夢見て入植した。
 1926年(大正15年)、名塩出身の19歳の若者だった弓場勇が、篤農家で名塩村長も歴任した実父を含め一家10人でアリアンサに移住した。勇は熱心なキリスト教信者で武者小路実篤を愛読する文学少年だった。三田中学時代に剛速球投手で鳴らした勇は、アリアンサで野球チームを結成し、野球場建設や野球大会を通じて青年たちとの社交の場を広げた。青年たちは村の在り方や農業改革にも目を向けるようになった。勇は1935年に武者小路のユートピア・新しき村の挫折を踏まえた、アリアンサ版の新しき村・弓場農場を開設する。
 1934年にブラジル政府の日本移民制限と日本政府の移住政策の転換の流れを受け、アリアンサの自治共同の村運営は終焉する。理想の村づくりを夢見て移住した多くの人たちが村を去る中で、弓場勇を中心とする青年たちが独自に新たな土地を購入し共同生活を開始する。これがアリアンサ精神継承農場としての弓場農場の基盤となる。
 その後の弓場農場は、「祈ること、耕すこと、芸術すること」を理念に、太平洋戦争下の日本人敵視政策や倒産という危機を乗り越えて生き残った。1976年には弓場農場50年祭が挙行され、当時の名塩出身の八木米次西宮市議会議長も列席した。2008年には、コムニダーデ・ユバ(弓場農場)は、日系団体初めてのブラジル連邦政府文化功労賞を受賞した。弓場農場は、激動期のブラジルで80年近く生き抜き、日本文化と信仰を守り、芸術による人格開放と農業を共存させるコミュニティとしてブラジル人にも認知され愛されながら今尚存続している。

 初めて知った壮大な「弓場農場物語」だった。ブラジル移住という日本人にはなじみのある気がかりな出来事の実相を初めて学んだ気がした講座だった。とりわけ名塩出身の弓場勇という人物に魅かれた。90数年前に19歳の若者が、両親や兄弟を説得して一家をあげて地球の裏側の異国に移住するという大胆な計画を実行した。その勇気と情熱に脱帽する他ない。しかも自身の理想と計画を見事に成し遂げたのだ。その気概とスケールの大きさに敬服するばかりだ。
 それにしても名塩という小さな村に、なんと多くの素晴らしい歴史が秘められていることだろう。蓮如と教行寺、紙漉き、蘭学塾、八基の壇尻、名塩八幡神社に続いて、弓場農場の起源まであった。名塩川沿いの山合いの狭くて貧しい集落が生き延びていくうえでの「進取の気風」が、そうした歴史の背景をつくっている。
 ※貼付画像右の「若き日の弓場勇」画像は、「ありあんさ通信」のHPより拝借させていただいた。

道トモさん2012年11月03日

 いつもの有馬川沿いの堤を歩いていた。6時半頃の肌寒い早朝の散歩道だった。中国道の高架下を超えたところで突然、背後から「おはようございます」と声をかけられた。振り返るまもなく追いついた人は、同じ丁内の同年輩の女性だった。黒いスポーツウェアに身を包み帽子を着用したジョギングスタイルだ。それまでも何度かこのコースで顔を合わせて挨拶を交わしていた。先月の民生委員の高齢者訪問で、「有馬川の歩道で顔を合わせてるじゃないですか」と言われてようやく顔と名前が一致した。「女性は場所と服装の違いですっかり印象が変わるもんですね」と弁解じみた言葉を返した。
 そんなことがあって以来の遭遇だった。しばらく雑談しながら歩いていると、今度は向こうから赤いヤッケにバイザー着用の女性がやってきた。先日このコースで二羽のカワセミをみつけた感動を共有したあの女性だった。彼女も高齢者訪問で訪ねているひとりだ。面識のある女性同士の久々の邂逅だったらしく挨拶もそこそこに一気におしゃべりが始まった。途端に私の存在感は雲を霞と消え去った。こうなるといかにもバツが悪い。言葉を挟むのもはばかれたのでそっとその場を離れた。
 有馬川堤の北の端で折り返すいつものコースを終えて、愛宕橋まで戻った。その時だ。ずっと前方の堤に赤と黒の二つの姿が目についた。もちろん先ほどの二人だった。あれから10数分は経っている。一歩も動かず二人はおしゃべりの世界に浸っている。何の話があるのか男には想像の埒外である。ただ、リタイヤ以降、数々のオバサントークの洗礼を受けた身には、彼女たちのそうした行動パターンは決して不可解ではない。ブログネタを思いついて遠望をキャッチした。
 散歩道にも様々な出会いがある。それぞれに束の間の散歩に潤いをもたらしてくれる。こんな出会いを何と呼ぶのだろう。「道トモさん」とでも呼んでおくことにしよう。

家内と山口公民館文化祭に出かけた2012年11月04日

 昨日のお昼前、家内と一緒に山口センターを訪ねた。山口公民館文化祭の見学のためだ。いつもはひとりで訪ねていたが、今年は家内も同行するという。陶芸サークルの展示に友人であるご近所の奥さんの作品もあり誘われているためだ。
 センター4階のフロア全体が文化祭会場となっている。同じ時期に在住の住宅街の自治会主催の文化祭も開催されているが、公民館文化祭は山口地区全体の文化祭ということで、地区内の新興住宅街住民の作品出品や舞台発表もある。
 エレベーター前の第1集会室には、公民館講座の講座風景写真や作品展示がある。こちらには、先日開講した私の「国鉄有馬線・蒸気機関車が走った町」のポスターが掲示されている。他の方の講座風景写真には受講している私の姿もあった。家内に半ば自慢げに講釈しながら、この町の息吹にそれなりに関わっている自分を実感した。
 隣の工芸室が、家内の友人の作品展示もある陶芸とシャドウボックスの展示会場だった。私も面識のあるそのご近所の奥さんは、写真愛好家でもあり山口フォトコンテスト実行委員に推薦した方だ。ちょうど今日が当番の日ということで会場に姿があった。始めてまだ二年ということだがなかなかの力作4点ばかりが展示されていた。見学者には箸置きの作品2点がプレゼントされる。どうやら家内はこちらがお目当てだったようだ。他の会場を一巡し、書道、絵手紙、クラフト、編物、写真、書画などの作品を見学した。調理実習室では料理作品の見学だけでなくヨモギ茶を味わった。
 2階の会場には臨時の喫茶招待席が設けられている。例年この会場に顔を出しコーヒーをよばれることにしている。今回も家内ともども顔を出した。旧山口地区のボランティアセンターの知人と雑談しながらお茶をした。娘の同級生のお母さんが二人もお手伝いをされていた。当然ながら家内の知人でもある。さすがに主婦たちの人脈は思わぬところにも張り巡らされている。そんな感慨を抱きながら、公民館を後にした。

季節外れの墓参とトリックアート2012年11月05日

 色んな行事や事情でお盆に行けなかった墓参りに、家内と二人でようやく昨日行ってきた。朝8時半頃に自宅を出て、約1時間で名古山霊園に着いた。季節外れの霊園だったが、日曜朝とあって幾組かの墓参があった。お掃除を済ませお参りをした。墓地の東に解体修理中で素屋根に覆われた姫路城の天守閣が見える。
 墓参の後、名古山北西の比較的近いところにある太陽公園に向かった。地域活動で招待券2枚を入手していたことや、公開中のトリックアートに大いに興味をそそられていたことから訪ねることにした。車で10分ほどで到着した。目前には山陽自動車道からよく目にしたドイツのノイシュヴァンシュタイン城に似た白亜の城が聳えている。○○地区社会福祉協議会の団体客が観光バスから降り立った。この施設が障害者福祉施設を併設していることを思い起こした。招待券に入場スタンプを押してもらって入場した。ちなみに入場料金は1300円だった。
 ゲストハウス横のモノレールで小高い山の上に建つ「城のエリア」の白鳥城に向かった。巨大な石造の城のゲートをくぐり城内に入る。4階から上が常設のトリックアートの会場となっている。確かに不思議なアートの数々だった。モナリザの絵の前に立って左右上下に顔を動かすと微笑んだモナリザの顔が動いて追いかけてくる。平面に描かれた絵の中に入ってポーズを取る姿を撮影すると、写された写真は見事に立体化している。名画、美術、動物、恐竜、サーカス、アラビアンナイト、忍者屋敷などのテーマに沿って数多くのトリックアートが展開される。だんだん夢中になって思わず寝転がったりして大胆なポーズに挑戦する。貼付の「忍者に槍で突かれた画像」は、壁際に手足をあげて仰臥して写した画像を上下反転させたものである。
 再びモノレールに乗って下山し、もうひとつの「石のエリア」に向かった。凱旋門をくぐって世界各国の石像や石造建築物のレプリカ・ゾーンに入る。モアイ像、兵馬俑、万里の長城、天安門広場、ピラミッドとスフィンクスなどの石造物が広大な山麓に所狭しと設置されている。圧巻は秦始皇帝の兵馬俑を模した「兵馬俑展示館」だった。レプリカとはいえよくぞここまで再現したものだと舌を巻いた。順路に沿って登った先に峰相山・鶏足寺という真新しい本堂だけの寺院があった。寺院下の斜面には五百羅漢の無数の石造が並んでいる。これもまた圧巻だった。12時過ぎには、太陽公園を後にして帰路に着いた。
 それにしてもこの太陽公園というテーマパークらしき施設の意味合いがよくわからない。トリックアートの常設会場もある「城のエリア」、石造物レプリカの「石のエリア」、宗派もよく分からない寺院、多数の障害者施設と四つの異なる性格の施設で構成されている。各施設の関連が余りにもバラバラという気がした。この施設全体のコンセプトや趣旨は一体何だろう。

野鳥と朝焼け2012年11月06日

 まだ薄闇の残る早朝6時過ぎの散歩道だった。今は亡き黒山羊ハッチャンが草を食んでいた石材屋さんの敷地にやってきた。突然、鋭い鳥の鳴き声を耳にした。見まわすと敷地内の枯木の枝先に一羽の野鳥がとまっていた。咄嗟にデジカメを構えた。いつもなら気配を察して飛び去る野鳥が、枝先に薄暮の空を背景に悠然と止まっている。ズームを上げてシャッターを切った。帰宅後、この野鳥の正体をネットで調べた。ツグミの仲間のようだがよく分からない。
 散歩道の歩を進めるうちに日の出が近づいてきた。東の空が茜色に染まり始めた。畑山の上のきれいだが、どこか不安をもたらす朝焼けを切り取った。

バラク・オバマが再選された日2012年11月07日

 午後2時前からオバマ大統領再選のテレビ報道が流され始めた。4年振りのアメリカの大統領選挙は、前回のオバマ優勢の予測とは打って変わって激戦が予想されていた。それでも何とか再選を果たしたオバマ氏に拍手した。少なくとも超大国アメリカの大統領に新自由主義を標榜するロムニー氏が選ばれなかったことを歓迎した。
 4年前にオバマ大統領誕生をの瞬間を、このブログでもある種の感動を込めた文章で綴った。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/11/05/3881438 今回の再選の報道にはそうした高揚感はない。それでもアメリカの政権選択の仕組みや政治風土は日本ほどには酷くはないと思わざるをえない。
 今回の選挙戦の争点は明快だった。「政府の役割を重視した福祉の充実や公正な社会の実現」か「民間主導の小さな政府による自由な競争による経済成長」かという選択だった。それは同時に民主党と共和党という党の路線でもある。それぞれの党はまた価値観においてもリベラリズムと保守主義を標榜しそのスタンスの違いは明快である。要するに対立軸が明快であり、国民のそれぞれの政治信条に沿った選択肢がある。
 翻って我が国の政権選択の仕組みや政治風土は極めて貧困である。それはせんじつめて言えば「対立軸」がないことに尽きるのではないか。二大政党と言われる民主党と自民党の経済政策や政治路線に決定的な違いは明らかでない。それぞれが右から左までの幅広い考え方や勢力を擁した集合体である。第三極の結集を謳って連携を模索する「石原新党」「維新の会」「みんなの党」もその政策や路線の違いは明らかであり、仮に新党結成が成ったとしても野合でしかない。
 アメリカ大統領選挙の結果を、4年前と違った醒めた目で受け止めた。

朝ドラ「純と愛」の型破り2012年11月08日

 NHKの朝の連続ドラマ「純と愛」に嵌まりだした。その訳をあれこれ考えてみると、NHKらしからぬ「型破りさ」にあるようだ。何が型破りなのか。
 ひとつには登場人物のキャラクターがこぞって型破りである。主人公の純と愛はもとより、それぞれの家族たちの誰もが、そこまでやるか風のキャラとして描かれる。それを出演者たちのオーバーアクション風の演技で追い打ちをかける。若村麻由美演じる愛ママの荒唐無稽な凄みに、一緒に観ていた家内が思わず呟いていた。「あんな人おらへんわな~」
 今ひとつは、過去の時代背景の多かった従来の朝ドラに対し、このドラマが徹底的に「今」を舞台にしていることだ。特に若者たちの「今の風景」にこだわっているようだ。今風にこだわれば、NHK的上品さや倫理観を引きずるわけにはいかない。国営放送の朝の時間帯ながらキスシーンもいとわない。ヒロインは知り合ったばかりでいとも簡単に同棲生活に入ってしまう。目上の人へのタメ口やヒロインの独り言も乱暴な言葉づかいでバンバン飛びだす。
 さらにストーリー展開のスピード感も従来にないものだ。週単位で物語が展開するのは朝ドラの常套だが、その展開の仕方はかなりアップテンポでしばしば意表を突かれる。舞台も大阪と沖縄がめまぐるしく転換する。入社したての純があんな中之島の一等地のマンションになぜ住めるのかとか、沖縄までの高額な航空運賃をどう工面したのかなどとヤボな疑問は言うまい。
 この型破りさゆえに、視聴者の評判も芳しくないようだ。「面白くない」「うるさい」「不愉快だ」等々、散々な口コミがネットで踊っている。多くは従来型の朝ドラのイメージからの批判と思える。だが、個人的にはこんな朝ドラもあっていいと思うし、ハラハラ、ドキドキ感に惹きつけられる。目が離せないドラマと言える。
 はてさて今後の展開はどうなることやら。どんな結末が待っているのか。このドラマが終わった時、どんな感想を抱くのかと、興味は尽きない。

藤沢周平著「小説の周辺」(その1:エッセイ集の所感)2012年11月09日

 藤沢周平著作の小説をほとんど読み、再読もほぼ終わってしまった。それでもまだ藤沢作品から離れがたい。そんな想いで書店の書棚の「ふ」のコーナーで視線を移していた。そこで目に留まったのが「小説の周辺」というエッセイ集だった。著者59歳の1986年に単行本として出版されたものだ。
 64のエッセイが三つのパートに分類されて収録されている。それぞれのパートは特に標題はない。収録された内容から第1のパートは、日常生活でのあれこれを綴ったものである。「作家の日常」といたタイトルが浮かんでくる。第2のパートは、ふるさと荘内地方の思い出や帰郷にまつわるもので、「郷愁」といった分野である。最後のパートは、読書、映画、俳句などの評論や自身の作品にまつわるエピソードなどが収録されている。この分野こそが「小説の周辺」なのだろう。
 ここに綴られた「日々の想い」を通して、読者は藤沢作品の背景や意図を受け止め、著者の心情を推測するする愉しみが味わえる。小説でなくエッセイだけに藤沢周平という作家の直截な考えや想いが伝わる。しばしば共感したり、納得したり、触発されたりする文章に出くわす。次回以降で、各パートごとにそうした文章を記しながら所感を綴っておこうと思う。好きな作家のエッセイの琴線にふれた文章について語ることは自分自身を語ることでもある。そんな営みを試してみたいと思った。

藤沢周平著「小説の周辺」(その2:作家の日常)2012年11月10日

 藤沢周平著「小説の周辺」の最初のパートの所感である。便宜的に「作家の日常」というタイトルを勝手につけてみたジャンルである。
 このエッセイ集で藤沢周平が配偶者を「家内」という呼称で綴っていることを知って内心でほくそ笑んだ。私自身もこのブログで同じ呼称で綴っている。どうでもいいようなものだが、他人の目に触れる表現としてはこれは結構悩ましい。「妻」「女房」「嫁はん」「かみさん」「連れ合い」「お母さん」「母ちゃん」「○○(固有名詞)」等々、選択肢は多い。それぞれの言葉の語感に、配偶者との距離感や親密度の微妙な違いを感じてしまう。「家内」を「主婦を家の中に押し籠めておきたい男社会の呼称」という説もある。それでも「家内」を使うのは、それが自分自身の日常用語であり、ありのままの日常を語る上では避けがたいと思うからである。
 それはさておき、このパートでは、NHKの素人のど自慢や大相撲中継の愉しみ方、正月の過ごし方、老いの感じ方、碁のつきあい、方言の味、歯痛と歯医者とのつきあい、散歩道の風景など23のエッセイが綴られている。
 気に入った文章や琴線に触れる表現を幾つか記しておこう。「核の開発は科学の偉大な勝利だったろうが、核兵器を頭の上にぶら下げて進退きわまっている人間はマンガでしかない(『暑い夜』」)」。「方言の後ろには気候と風土、その土地の暮らしがぎっしりと詰まっている。方言がときとして人を感動させるのは、それが背後の文化を表出しながら今も生きていることばだからである(『生きていることば』)」。「年とることはいやなことである。(略)ただし私には、人間の老化は自然の現象で、じたばたしても仕方ないという気持ちもある。(略)やはり年相応に老いてみっともなくなって行くのが、一面、人間ののぞましい姿なのではなかろうか(『剰余価値』」)」。
 著者の老境にさしかかった50代の頃の著作である。日常を見つめる視線に円熟した穏やかさや優しさが窺える。このパートの最後のエッセイ「冬の意散歩道」も良かった。毎朝の30分ほどの散歩を語ったものだ。自宅を出てからの散歩道で展開する風景が描かれる。散歩の終わり頃に野良猫たちの三角関係のバトルを目撃する。「争いの種となった雌猫と思われる猫が道に出てきた。それが存外に不器量な猫なので、思わずにやりとする。しかし器量がいい女性と魅力のある女性というものはちがうだろうから、といった感想がまとまるころには、出発点に近いバス路線が見えて来て、私の散歩も終わりに近づいているのである」と、このエッセイが締めくくられる。さりげない文章に作家の眼差しが光っている。毎朝、同じコースを散歩している自分の心情がオーバーラップしてくる。