宮水学園(塩瀬)「ブラジル移民と弓場(ゆば)農場」2012年11月02日

 一昨日の午後、3ヶ月ぶりに宮水学園塩瀬講座を受講した。講師がいつも貴重で面白い話を聞かせてもらえる山下忠男西宮文化協会会長であり、テーマも「名塩の進取の気風~ブラジル移民と弓場農場~」という興味深いものだったこともある。
 受付でいつもながら大部の資料がテキストとして渡された。受講後、自宅で復習する上で貴重なものだ。中心となる話は、名塩出身の弓場勇氏が一家をあげてブラジルに移住し、弓場共同農場をつくり上げる物語だった。
 弓場農場づくりの背景となる日本のブラジル移住の歴史が語られる。1908年(明治41年)に笠戸丸で800名弱の農業労働者がブラジル移住して以来、約100年を経て現在6世まで約150万人の日系人が在住する。初期の移住は、出稼ぎの貧農でなく高額の渡航費を負担できる専門職の非農民が多数を占めたという。移住先はサンパウロ州の大農場で、過酷な労働と低賃金が待ち受け、風土病で死去する移住者も多かった。笠戸丸移住者で3年後に何とか安定した生活を確保できたのはその4分の1に過ぎなかった。自力で生活できるようになった移民たちは、少しずつ土地を購入したり借りたりして自営農民となり、徐々に日本人集団地を形成した。
 1924年に信濃海外協会を中心にアリアンサ移住地が開設された。アリアンサとは「共生、共同、協力」を意味するポルトガル語である。アリアンサには、ある程度の資産を持ち教育水準も比較的高い若者たちが、理想郷建設を夢見て入植した。
 1926年(大正15年)、名塩出身の19歳の若者だった弓場勇が、篤農家で名塩村長も歴任した実父を含め一家10人でアリアンサに移住した。勇は熱心なキリスト教信者で武者小路実篤を愛読する文学少年だった。三田中学時代に剛速球投手で鳴らした勇は、アリアンサで野球チームを結成し、野球場建設や野球大会を通じて青年たちとの社交の場を広げた。青年たちは村の在り方や農業改革にも目を向けるようになった。勇は1935年に武者小路のユートピア・新しき村の挫折を踏まえた、アリアンサ版の新しき村・弓場農場を開設する。
 1934年にブラジル政府の日本移民制限と日本政府の移住政策の転換の流れを受け、アリアンサの自治共同の村運営は終焉する。理想の村づくりを夢見て移住した多くの人たちが村を去る中で、弓場勇を中心とする青年たちが独自に新たな土地を購入し共同生活を開始する。これがアリアンサ精神継承農場としての弓場農場の基盤となる。
 その後の弓場農場は、「祈ること、耕すこと、芸術すること」を理念に、太平洋戦争下の日本人敵視政策や倒産という危機を乗り越えて生き残った。1976年には弓場農場50年祭が挙行され、当時の名塩出身の八木米次西宮市議会議長も列席した。2008年には、コムニダーデ・ユバ(弓場農場)は、日系団体初めてのブラジル連邦政府文化功労賞を受賞した。弓場農場は、激動期のブラジルで80年近く生き抜き、日本文化と信仰を守り、芸術による人格開放と農業を共存させるコミュニティとしてブラジル人にも認知され愛されながら今尚存続している。

 初めて知った壮大な「弓場農場物語」だった。ブラジル移住という日本人にはなじみのある気がかりな出来事の実相を初めて学んだ気がした講座だった。とりわけ名塩出身の弓場勇という人物に魅かれた。90数年前に19歳の若者が、両親や兄弟を説得して一家をあげて地球の裏側の異国に移住するという大胆な計画を実行した。その勇気と情熱に脱帽する他ない。しかも自身の理想と計画を見事に成し遂げたのだ。その気概とスケールの大きさに敬服するばかりだ。
 それにしても名塩という小さな村に、なんと多くの素晴らしい歴史が秘められていることだろう。蓮如と教行寺、紙漉き、蘭学塾、八基の壇尻、名塩八幡神社に続いて、弓場農場の起源まであった。名塩川沿いの山合いの狭くて貧しい集落が生き延びていくうえでの「進取の気風」が、そうした歴史の背景をつくっている。
 ※貼付画像右の「若き日の弓場勇」画像は、「ありあんさ通信」のHPより拝借させていただいた。

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