体育・自分史2013年01月12日

 自分自身は典型的な文化部系の人間である。60代後半にさしかかったこれまでの人生でも多くの時間を文系のジャンルで過ごした。とはいえ体育会系の活動経験もないわけではない。数少ない体育系の活動遍歴を辿ってみたい。
 幼児を振り返って最初に思い浮かぶ体育は我々の世代の男なら誰もが経験した筈のチャンバラ、缶ケリ、縄跳びといった遊びである。とりわけチャンバラは当時隆盛を誇っていたチャンバラ映画とも言われた時代檄映画の影響もあって、男の子たちに人気の遊びだった。細い竹や棒をもって1対1や集団でやり合った。下手をすれば大怪我にもなりかねない遊びだったが、不思議と怪我の記憶はない。
 小学4年生だったと思うが命を落としかねない事件を起こした。郷里姫路の真ん中を市川という一級河川が流れていた。自宅から歩いて15分もすればその川岸に着いた。ある夏に市川で遊び仲間と泳ぎにいった。水泳練習の経験もないまま浅瀬で水泳の真似ごとをしていた。川の中ほどに行くほど流れが速い。流れに乗ればうまく泳げるのではないかと思った。無謀にも中ほどに向かって進んだ。速い流れに足を滑らせてあっという間に流された。水中でもがきながら子ども心に「死ぬ」と思った。気がついた時には河原で寝かせられていた。誰か大人に助けてもらったようだ。今も私は泳げない。思えばあの時のトラウマを引きずっているにちがいない。
 クラブ活動は中学校に入って初めて経験した。それもなぜか体育会系の軟式テニスだった。恐らく文化系クラブは放送部位しかなかったのではないか。ここで自分の運動音痴が明らかになった。三年間近い在籍中に出場した大会では試合に勝った記憶がほとんどない。一回戦敗退という情けない結果を甘受していた。ただこの軟式テニスの経験は30代半ばの頃にご近所さんたちとプレイした硬式テニスで活かされた。この時の硬式テニスは家内と一緒にプレイした唯一のスポーツでもある。
 次に体育と向き合ったのは大学3年の後期に入ってからだった。その当時の荒んだ生活にケリをつけるしかない修羅場に遭遇し、そこから脱出するための手立てを模索していた。その選択肢こそがボクシングという格闘技だった。我ながら意表をついたドラマチックな決断に本気で挑んだ。異例の入部が認められた3年次の新入部員の半年に及ぶ涙ぐましいトレーニングの後、初めての試合の日を迎えた。そして「3分3ラウンド・・・判定負け」というほろ苦くて漫画チックな結末を味わった。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/omoide2.htm
 サラリーマン生活の脂が乗り始めた30代後半頃から再び体育系を体験する。ゴルフである。これもまた生来の運動音痴は免れない。それでも何とかカッコウをつけねばならないポストにいたため結構打ちっぱなしに通い練習に励んだ。確か初めて2年目の頃の箱根辺りの10組ばかりのコンペでの出来事だった。運動音痴の初心者ゴルファーがナント90という驚異的なスコアを出してしまった。最高ハンディを貰っていたのでダントツの優勝だった。結構豪華な賞品を贈られた表彰式は、人生で初めてのたった1度のスポーツでの晴れ舞台だった。帰宅後の家族の驚きはそのまま自分の驚きだった。とはいえ以後のゴルフで90を超えることはなく平均120前後のお粗末さで推移した。そんなゴルフだけに62歳の時の右手親指切除という大病を潮にあっさり断念した。
 リタイヤ後の今は、1日1万歩というウォーキングが体育系のかすかな名残りと言えなくもない。