家系図物語2020年06月12日

 自叙伝の出版を終えて、本格的に終活に着手した。出版までは執筆に当たって保存してきた各種の資料が欠かせなかったが、執筆を終えてそれらの処分が可能になった。
 そうした資料の中に40数年前に亡くなった父親が生前に毛筆で書き残してくれた家系図がある。さらに20数年前に亡くなった母親の通夜の際には母方の親族から家系の詳細を聞き取った。この二つの情報をもとに私自身でエクセルによる父方、母方の合体版の家系図を作成した。
 中国山地の山合の集落、島根県邑智郡羽須美村が在所だった父方の家系は7代前まで遡って辿れるようだ。江戸中期の1786年(天明6年)に本家・傳三郎から初代・常次郎が分家したのが始まりと記されている。父親の覚(後に出家して覚道と名乗る)は6代・福一と三好アサノとの長男として生まれた。福一はその後、アサノと離婚しアメリカに移住した。父は三好姓に戻ったアサノのもとで28歳の時に羽須美村の了泉坊で得度・出家した。これらは残された家系図や記録から読み取れる父親の生い立ちである。
 父親のこうした生い立ちは生前に聞いたことがない。祖父がどんな思いで祖母と離別しアメリカに移住したのか、父親がなぜ母方に残り、成人して後に得度出家したのか、今となっては知る由もない。
 母方の家系は3代前までしか遡れない。兵庫県佐用郡佐用町が在所の花尾カンシロウが初代のようだ。カンシロウの息子である祖父・伊太郎と祖母・ゆくのの4人の子供たちの末っ子として誕生した。唯一の男子だった九一は早くに戦死しその妻・信江の世話で成長した。姫路の亀山本徳寺の熱心な信者だったその兄嫁の勧めで、当時本徳寺の役僧だった父と結婚した。我が家は遠く離れた父方の実家よりも実家の近い母方の親戚との交わりが多かった。私の幼い頃の思い出の多くも母方の叔母たちの実家や婚家と繋がっている。
 家系図の整理をしながらそこに込められた数々の物語を想像した。

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