名来公会堂で長老の回答を伺った2013年05月27日

 2日前の夜、名来公会堂を訪ねた。名来の歴史研究会総会後の勉強会に参加した。講師は山口地区の大長老の橋本芳次さんである。実はこの勉強会は、1か月ほど前に散歩途中で出会った橋本さんにお訊ねした名来の歴史上の幾つかの疑問点を、研究会メンバーも同席した場で答えて頂くために設けられた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/05/08/ 勉強会は8時過ぎから始まった。
 主な質問は4点あった。第1点は、名来神社と有間神社の関わりである。有間神社の社頭掲示板に「有間神社が以前は山口荘山王谷(現・山口町名来)に鎮座されていた」とあることからの関心だった。これについては、「有間神社と名来神社は直接には何の関係もない」とのことだった。「名来の愛宕山にある名来神社は、それまで愛宕社と呼ばれていたが昭和61年の大修復以降、名来神社となった(昭和61年発行の名来神社の由来書を頂いた)。一方、有間神社は有馬郡誌(下巻の有野村の項)にも下山口の山王谷(現在の北六甲台3丁目・旧グリーンタウン)にあったとされ、霊亀年間(715-717)に洪水のため遷座された。由来も場所も全く異にする」。
 第2点は、山口村誌の記述にもある孝徳天皇の妃・小足媛(おたりひめ)と名来との関わりである。これについても、江戸時代以前に名来は千足(せんぞくorちあし)と呼ばれていたことからの類推だろうが、確たる文献は何もなく、関連は明らかでないとのことだ。
 第3点は、公智神社の御旅所が名来にあったという伝承とその場所の推定である。橋本さんの解説で最も熱のこもった点だった。「御旅所が名来にあったという話は、公智神社の先々代宮司の長谷川徳三郎氏はじめ多くの故老たちから聞かされた。公智神社は平安末期の1097年の大洪水で現在地に遷座されるまでは、向山山頂(現・北六甲台天上公園)にあった。その頃の山口村の中心は現在の山口センター辺りで、名来村の中心は現在の名来南公園辺りで、当時は公智神社へのお参りは名来が一番近かった。従って当時の宮本は名来にあった筈だ。山口各村のダンジリが曳きダンジリであるのに名来だけが神輿の伝統を引く担ぎダンジリであることもそれを裏付けている。御旅所の場所の特定は今となっては困難だが、個人的な印象では今の名来神社辺りではないかと思っている。子供の頃に愛宕山にあった松の大木がその印象を強くしている」。
 第4点は、名来の西川に架かる番守寺橋に名を残す番守寺のあった場所である。「番守寺は明治21年まであった日蓮宗の寺だが、当時檀家が4軒にまで減少し維持できずに氷上郡野坂に寺号移転となった。場所は現在の番守寺橋に近いネオダイキョー自動車学校の入り口辺りにあった」。
 1時間半ばかりの橋本さんのお話の後、総会だけに出される缶ビールや日本酒を酌み交わしながら懇談した。学識のある研究者でかつ誰も知らない時代の生き証人でもある橋本さんならではの話だった。かねての疑問の多くが氷解した。貴重な2時間ばかりの勉強会を終えて帰路に就いた。