地誌のルーツを訪ねて(エピローグ)2014年06月01日

 一週間ほど前に、市のHPの情報公開課(歴史資料チーム)の問合わせフォームに、市史収録の山口関係の地誌の出典と原本の所在を訊ねる内容を入力して送信した。
 一昨日、概略、以下のような回答メールを頂いた。出典については市史第6巻記載の「西宮市山口支所所蔵」ということ以上の内容は確認できなかった。原本の所在は、西宮市山口支所所蔵となっており、西宮市の行政資料の所管部署に移管された形跡がなく、歴史資料チームは所蔵していない。山口支所にも確認したが、地誌の原本及びその写しも所蔵していないとの回答だった。
 市の所管部署からの丁寧な対応に感謝した。事実確認については回答以上のことは困難かと思った。支所所蔵の地誌原本が市史に収録されて以降、支所側のなんらかの経緯や事情で管理から漏れてしまったと考えるほかはない。それにしても貴重な原本の所在不明は残念に思うしかないが、幸いにも原本記載の内容がそのまま市史に収録されていたことを是としたい。あらためてこの資料をもとに旧山口5村の風土記を辿ってみたいと思った。

近江八幡水郷めぐり2014年06月02日

 昨日の午前中、近江八幡の水郷を訪ねた。週末に歯の治療で帰省していた娘を両親がマイカーで送ることになった。どうせ滋賀に行くなら娘夫婦と近場の観光を楽しむことにした。かねてから近江八幡の水郷めぐりを体験したいと思っていた。ネット検索で、「すいれん」という近江牛料理の店の料理と水郷めぐりプランを予約した。http://www.412903.com/suigo.html
 朝10時に「水郷のさと・まるやま」の渡し場に着いた。10艘ばかりの屋形のついた手漕ぎ船が待ち受けている。4人貸切りの屋形船が年配の船頭さんの魯捌きで岸辺を離れた。
 初夏の暑さを覚悟していたが、水郷に入った途端に微風が身体を包
み涼しさを運んでくれた。水面の周囲をヨシ原が覆っている。ヨシ原に生息するヨシキリのギャーギャーというアマガエルにも似た鳴き声が耳に入る。ギーギーと魯のしなる音が心地よい。前を進む屋形船ののんびりした風情にも癒される。ヨシの穂先にたたずむヨシキリをデジカメで捉えた。カイツブリの親子が水面下に首を突っ込んでエサを獲る姿が愛らしい。ひと際大きな合鴨が悠然と漂っている。水郷は水鳥たちの楽天地である。
 この水郷は国の重要文化的景観の第1号に選定されている。その美しい景観の中を人の歩行速度以下のペースでゆっくりと船は進む。時代劇の舞台にもしばしば登場する郷愁を誘う景色が移ろっていく。何とも穏やかでのんびりしたひと時が過ぎていく。船頭さんのガイド付きで1時間ほどの水郷めぐりを満喫した。

近江八幡の街並み散策2014年06月03日

 近江八幡の西の湖の水郷めぐりを終えて、予約しておいた日本料理・すいれんに向かった。JR近江八幡駅近くの店に11時15分頃に到着し、案内された個室に料理がすぐに運ばれた。事前予約のメニューは私たち夫婦は、近江牛入り松花弁当、娘夫婦は近江牛入り石焼御膳だった。松花弁当は近江牛のローストビーフをメインにお造り、天麩羅、イカのわさび和え、煮物、赤だしにデザートがついていた。さめた天ぷらはイマイチだったが、さすがに近江牛は柔らかくいい味だった。
 娘夫婦の行きつけのショッピングセンター駐車場に車を留め、水郷めぐりの受付で入手した「まちなみガイドマップ」を手に散策を開始した。ちなみにこのマップはなかなかの優れもので、町並みの13のスポットを見どころの解説付きで順路に沿って散策できる。
 レンガ造りの池田町洋館街を抜けて、その西側の本願寺八幡別院を訪ねた。山門は閉じられ境内には入れなかったが、案内板の由緒書きで本願寺十一世・顕如上人の開基と知った。半年ほど前に読んだ鈴木輝一郎著「本願寺顕如」 http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/11/08/7047874 を思い起こし感慨深かった。正面に八幡山を望む新町通りの美しい街並みにやってきた。近江商人発祥の地の面影を残す商家のたたずまいが続いている。
 突き当りにあるのが豊臣秀次ゆかりの八幡堀である。欄干のある橋の下を屋形船が行きかい柳の新緑が微風にゆれている。時代劇のシーンでもおなじみのなんとも風情のある景観である。八幡堀に沿って散策路を進むと広い参道に出た。すぐ北側に日牟禮八幡宮の大きな楼門が見えた。境内に入ると拝殿、能舞台、本殿と立派な社殿が建ち並ぶ。境内南側に地元の有名菓子店たねやの経営するクラブハリエの店がある。この店のウリもののバームクーヘンを買うために行列に並んでいた同伴者たちに合流し次に向かった。最後のスポット永原町通りも、池田町通りや八幡堀と並んで格子戸や白壁土蔵が残る重要伝統的建造物群保存地区である。 
 ガイドマップの所用時間通りの約90分の散策だった。さすがに昼下がりの初夏の暑さの中での90分が疲れをもたらしていた。駐車したショッピングセンターでソフトクリームを食べながら休憩した。娘夫婦をマンションまで送り、2時過ぎにはカーナビの自宅に戻るボタンを押して帰路に着いた。

江本純三著「名塩物語」2014年06月04日

 半月ほど前に名塩探史会の定例会を訪ねた。ミュージカル有間皇子物語公演とプレイベント・有間皇子を訪ねる会のチラシを持参してご案内した。その際、10月に山口公民館講座「名塩風土記」を開講し、11月には受講者と「名塩の史跡探訪」を予定していることも紹介した。そんな経過もあって先日、メンバーのおひとりの江本純三さんから「名塩物語」と題した著作を送って頂いた。名塩風土記の講座の参考になればとのご厚意だった。
 「名塩物語」は、昨秋に傘寿(八十歳)を迎えられた名塩在住40年の著者が綴った名塩ゆかりの10篇の小さな物語を集めた作品集である。「はじめに」によれば著者は、大阪大学・適塾記念会、名塩探史会、大阪文学学校などに所属され、学術的な知識、名塩の伝承、創作の技法などを地道に習得されたようだ。永年のそうした積み上げの結晶が「名塩物語」である。
 名塩は山に囲まれた狭隘な地形を縫って流れる武庫川の支流・名塩川の両岸に開けた小さな町である。その豊かな自然と狭隘な地形が独自の風土と文化を育んできた。10篇の物語はこの町ゆかりの有名無名の10人の人物の物語である。名塩和紙の創始者・東山彌右衛門、村の大庄屋の跡取り息子に嫁ぐおくみという架空の娘、太平洋戦争の空襲のさなかに名塩の山裾に墜落した日本軍戦闘機の若い飛行士の思い出を語る老女、蓮如上人の身の回りの世話のため能登から名塩に付き従ってきた若い娘おとら、名塩蘭学塾を開いた英才・伊藤慎蔵、多田源氏の始祖・源満仲の末っ子・美女丸、名塩出身の緒方洪庵の妻・八重、名塩の源照寺開祖・河原太郎、曽祖父・赤松円心ゆかりの木之元地蔵尊で自刃した戦国武将・赤松満政、名塩八幡宮ゆかりの岩倉具視の10人である。
 一読して思ったのは、この小さな町の歴史に刻まれた人物像の多彩さである。名塩を人口でも面積でもはるかに凌ぐ山口にもこれほどの人物像は浮かんでこない。同時に、この物語を読みながら名塩の歴史や風土が生き生きと浮かび上がってくることに驚かされた。それは史実を紐解き史跡を巡っても得られない、物語が紡ぐイメージのもたらす効果である。著者の名塩に対する限りない愛着と郷愁が紡ぎ出す世界でもある。
 著者は、名塩の出身者ではない。40代に名塩の新興住宅地に移り住まれた方のようだ。40年間の名塩での生活が限りない愛着をもたらし、ご自身の関心と素養がこの物語となって結実した。私もまた30年余り前に山口の町の新興住宅地に移住した。山口への愛着がHPにしのみや山口風土記や山口公民館での風土記探訪講座に繋がっている。著者との共通項を思わずにはおれない。著者の地に足のついた創作活動を羨ましく思いながら、その晩年のすごし方に大いに共感した。

北方謙三著「楠木正成」下巻2014年06月05日

 北方謙三著「楠木正成」を読了した。この作品を読むにあたって、全共闘世代の著者が、皇国史観の象徴的人物でもある楠木正成をどのように描くのかは興味深い点だった。
 読み終えてあらためて北方史観ともいうべき著者の独自の視点に共感した。それは皇国史観とはおよそかけ離れたものである。物語の舞台である南北朝時代は、皇国史観の呪縛の下で長い間、学術的にもタブーであり「闇の時代」だった。その時代を独自の切り口で見事に描き切った作品と言えよう。
 著者は、楠木正成を動乱の時代を懸命に駆け抜けたリアリティのある生身の人間として描くことで、皇国史観が作り上げた虚構の人物像を打ち砕く。その正成の視点を通して、国の成り立ち、帝や朝廷の在り方、武士や武家の論理と機能、悪党の存在理由などを語る。正成が追い求めたものは朝廷の軍勢のあるべき姿だった。その軍勢が目指したものは民が自由に生き生きと生活できる国づくりだった。そんな正成の目からみれば現実の後醍醐帝や廷臣は愚劣で時代錯誤な存在となり、皇国史観の逆賊・足利尊氏は時代を背負った存在感のある人物となる。
 それにしても北方太平記に次々と登場する主人公たちは、なんと多彩で魅力的なのだろう。「武王の門」の懐良親王、「破軍の星」の北畠顕家、「悪党の裔」の赤松円心、そして楠木正成等々。決して歴史の上ではメジャーではない実在の人物たちである。前二者は個人的にもその存在すら知らなかったが、Wikで調べても実際に作品に描かれたような途方もない事跡を残している。皇国史観の呪縛は、南北朝という動乱の時代に生きた巨人たちを歴史の舞台から封印していたかのようだ。北方太平記の最大の功績は、彼らをそうした封印から解き放ち、夢や志を求めて時代を駆け抜けた人物像として登場させた点にあるといえまいか。

民生委員と老人会役員の初めての懇談会2014年06月06日

 昨日の午後、在住する住宅街の民生委員と老人会役員の皆さんとの懇談会があった。民生委員になって7年目を迎えるが、初めてのことである。双方の役割や活動内容からすればこれまで開催されなかったことの方が不思議と言える。民生委員は丁目毎に選任されているが老人会もまた丁目毎に組織されている。今回はその5つの老人会と連合組織の代表者10名と民生委員5人との懇談会だった。
 懇談は、初めてとあって顔合わせと双方の忌憚のない意見交換に終始した。最初に民生委員の側から個別に老人会への要望を述べた。私からは、担当地区の高齢者が約260名と多数であり日常的な見守りの限度を超えている現状を伝え、老人会との連携の必要性を述べた。老人会からは会員拡大が最大の課題だが、個人情報の壁が厚く思うように取り組めないという点が強調された。
 老人会加入の目安を65歳以上をとしても、誰がその年齢かどうかの情報は老人会は持ちあわせない。地域で唯一その情報が得られるのは民生委員だけである。かといって民生委員から老人会にその情報を提供することは守秘義務違反となる。他方で民生委員の立場からもお年寄りの老人会加入は、地域との繋がりを深めることで孤立化を避け、見守りの環境づくりとなることからも大いに勧めたい。そんな双方の背景から、毎年秋の高齢者実態調査の訪問の際に民生委員から老人会加入の声掛けをすることを双方で検討してはどうかと提案した。
 超高齢化社会を迎え、お年寄りの見守りや安否確認の地域での態勢整備は欠かせない。自治会や社協や老人会や民生委員など地域の様々な組織や担当者が個別に担っている。そうした取組みの相互の連携でより効果的にカバーできる仕組みづくりが必要だ。今回の懇談会はその第一歩と受け止めたい。秋の二回目の開催を確認して懇談会を終えた。

文化プロデューサー河内厚郎氏の講演2014年06月07日

 昨日、西宮文化協会の定例文化講演会を受講した。講師は神戸夙川学院大学教授の河内厚郎さんで「愛新覚羅溥傑と嵯峨 浩」をテーマとした90分の講演だった。
 受講し終えて二つのことを思った。ひとつは初めて受講した講師・河内厚郎さんのキャラクターのユニークさだった。「有名人が大好きで、何としても直接会って話したいというミーハーです」とのっけから臆面もなく吐露される。「有名作家の百冊の本を読んでも、一度でも会った人には敵いませんから」とも。とはいえご自身が西宮在住の著名人である。文化プロデューサーにして評論家であり大学教授も勤める傍ら、阪神学を提唱し近畿の各自治体の文化行政面での数々のアドバイザー役をこなされている。原点は「人が好き」ということのようだ。「郷土史研究では属地主義とい立場が主流のようだが私は属人主義が好きです」とキッパリ。郷土西宮のゆかりの著名人やその背景を形作る文化風土へのこだわりが根底にある。それが阪神間での様々な文化イベントのプロデュースに繋がっていると思われた。自らをさらけだしながら軽妙なトークでその信条を展開され、何ともユニークで独自の世界が繰り広げられた。
 今ひとつは、清朝最後のラストエンペラー(溥儀)の実弟である愛新覚羅溥傑の一家の物語を初めて身近に知ったことだ。個人的には清朝末期の皇帝の歴史的役割を思えば無関心という以上に遠ざけていた観のあるテーマだった。今回の「愛新覚羅溥傑と嵯峨浩」というテーマは、ひとえに溥傑・浩夫妻の次女・嫮生(こせい)が今も西宮市在住であるという講師の西宮ゆかりの著名人探訪に由来する。嫮生の母・浩は京マチ子主演で映画化もされた自伝「流転の王妃」の著者である。嵯峨侯爵家の長女として生まれ、満州国のバックボーンであった関東軍の主導で皇帝・溥儀の実弟・溥傑に嫁ぎ数奇な運命を辿った。嫮生の姉・慧生(えいせい)もまた学習院大学の同級生と心中(天城山心中)するという数奇な運命を辿っている。唯一、嫮生だけが叔母の嫁ぎ先である神戸の福永家の次男と結婚し5人の子どもをもうけ平穏な人生を今尚歩んでいる。史実の一環として記される人物像とは別に、歴史に翻弄された生身の人間の苦闘の人生を垣間見た気がした。

「昔なつかしい山口」写真展2014年06月08日

 山口センター5周年記念事業のひとつとして6月4日から山口ホール展示室で山口地域コミュニティ主催の「昔なつかしい山口」写真展が開催されている。昨日、会場に足を運んだ。2年前に同じ会場で私が中心になって「山口の昔の写真展」を開催した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/03/03/ そんな経過もあって今回の写真展にも関心が強かった。 
 西宮市情報公開課所蔵の山口地区の昔の写真の展示である。昭和20年代後半以降の比較的新しい風景写真中心の展示だった。個人的に最も興味深かったのは「平尻道【昭和54年】」とコメントされた一葉(貼付画像上段)である。中国自動車道北側を東西に縫っていた旧丹波街道(西国巡礼街道)と山口の集落を結ぶ分岐点だったところだ。今も熊笹の奥に三基の石碑が残されている。HPにしのみや山口風土記執筆のため何度か訪れた場所である(貼付画像下段)。 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sansaku-sekihi.meguri.htm かって街道筋の茶店があったと聞いていたが、その面影を偲ばせる茅葺家の民家の佇まいがカラー写真で残されていた。三基の石碑も熊笹に覆われることなく毅然として佇立している。それにしてもわずか40数年前にそんんな貴重な風景が残されていたことに驚いた。

いかり出張販売終了!2014年06月09日

 在住の住宅街の自治会館で、いかり有野店が毎週月曜日に出張販売していた。出張販売が始まってかれこれ2年半になる。住宅街の店舗で営業していたパントリーが退店して以降、出張販売が始まった。日常のお買い物に不便をかこっていたお年寄りにはありがたい存在だった。最低水準の売上もあったように思ったが、やっぱり販売継続には不足していたのだろう。1カ月ほど前に6月9日販売終了のポスターが掲示された。
 その最終日の今日、最後の販売を見届ける気分も手伝って、自治会館を訪ねた。家内からは目玉商品の卵パックと牛乳パックを買うようにお達しがあったこともある。11時半頃に到着して絶句した。自治会館ホールの特設販売所の周囲をレジ待ち客が一周している。閉店セールの効果は絶大である。一瞬、帰ろうかと思ったが、見届けの義務感と家内への義理で踏みとどまった。
 牛乳パックと最後から2番目の卵パックと好きな果物ライチをカゴに入れ列の最後に並んだ。ご近所の主婦や老人会のお仲間や社協の同僚ボランティアやら、あちこちに知った顔に出会い黙礼する。後からやってきたご近所の同年代のご主人もチラシ片手に商品選択に余念がない。チラシには奥さんが記したマークが間違いなくついている筈だ。憮然とした表情で遅々として進まない列に並ぶ頑固オヤジ風の雰囲気に共感した。奥さんとの葛藤の果てに今日の日常を受け入れたドラマが垣間見える。こんな風景も見納めである。買物難民になりかねないお年寄りたちの困り事がまたひとつ増えたことになる。
 そんなこんなを想いながら時間を過ごし、ようやくレジに到着したのは並び始めて45分後である。よくぞ辛抱したものだ。これもまた出張販売終了という街の息吹のひとコマのなせる技なのだろう。

MRI脳検査2014年06月10日

 半月ほど前に、瞬間的にめまいに襲われ、その日の内に脳外科病院で受診した。CT検査の結果は問題なかったが、念のため脳のMRI検査をしておくことになり予約をした。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2014/05/25/7320609 昨日がその予約の日で、一緒に予約した家内と二人で検査を受けた。
 夕方5時前に検査室に入り、検査台に横たわった。検査開始とともに轟音が耳を襲う。しかもその音も様々に変化する。ガーガーッ、ギーギーッ、ゴーゴーッとガ行変格活用に加えてドン、ドン、ドンという身体に響く振動音もある。あらかじめ担当技師から「20分ほどの検査です。大きな音が聞こえますが、気にせずに寝ていて下さい」と告げられていた。寝られるかッ!いつまで続くぬかるみぞ・・・という想いに駆られながらひたすら耐えるしかない。ようやく機械が停止し技師の入室する音が聞こえた。途方もなく長い20分だった。
 その後検査を受けた家内と一緒に、診察室前で診察を待った。6時過ぎに二人で担当医から検査結果を聞いた。それぞれ200枚ほどの画像が撮影され、担当医のデスク上のPCディスプレイに次々と写しだされる。異常の有無は素人目には全く分からない。固唾を呑んで医師の声を待った。「特に問題はありません。きれいなものです」。ヨカッタ~ッ。「アルツハイマーなんかの心配もないですか」と家内が厚かましく突っ込む。「脳の委縮といった兆候も見られません」とのこと。家内の同様の診察結果を聞いて診察室を出た。半月前の瞬間的なめまいという不安な信号のリスクはひとまず回避された。