藤沢周平「市塵」上下2009年03月23日

 藤沢周平の「市塵(しじん)」上下二巻を読んだ。トルコ旅行に持参して往復の機内で大半を読んでいた。江戸中期の儒学者にして政治家でもあった新井白石の評伝ともいうべき歴史小説である。
 舞台は天下の悪法・生類憐れみの令を触れた将軍綱吉の晩年に始まる。浪人で市井の儒学者だった白石が、藩主の侍講として甲府藩に仕え、六代将軍家宣となった藩主とともに政治顧問として天下の経営に携わる経緯がいきいきと描かれている。家宣の側用人だった間部詮房(まなべあきふさ)の際立った調整力と、白石の学識に裏付けられた企画力が見事なコンビネ-ションを発揮して、朝鮮使節の待遇改革、通貨改革による経済立て直し、長崎貿易改革などを次々と実現していく。ビジネス社会のプロジェクトメイキングのサクセスストーリーの典型的なパターンを見るようだ。
 それにしても驚かされたのは、当時の江戸幕府の政権交代のダイナミズムだ。五代・綱吉、六代・家宣とその幼児である七代・家継、八代・吉宗の実質的に三代の将軍の政権交代のドラマが物語の主要な骨格として描かれている。綱吉没後、側近として権勢を振るっていた柳沢吉安とその幕僚たちに代わって、家宣側近の間部、白石を中心とした幕僚たちが権力の中枢に座っていく。そして将軍吉宗の登場とともに紀州の側近たちにその座を明渡していく。新将軍の新たな武家諸法度の交付を皮切りに、前政権の政策が大胆に見直されていく。長期の自民党政治の政権たらい回しの色あせた現実との何という違いだろう。まるでアメリカの大統領交替に伴う幕僚交替と政策変更を見るかのようだ。
 藤沢周平という作家の多面的な才能を見せつけられた作品でもある。政権交代に葛藤する白石の心理も見事に描かれている。偉大な学者と見られがちな白石が、実は極めて人間的な市井の人であったと作者は語っている。表題の「市塵」(市中のちり埃)の所以である。