有間皇子ゆかりの地③三田・金心寺2013年11月02日

 有馬郡誌の巻頭の「総敍」には、有間皇子の弟・定慧のことがかなり詳細に記述されている。即ち「藤原定慧は、鎌足の子とあれど実は孝徳天皇の妃小足媛(が)、有間皇子を生み給いて五年の後、孕妃を鎌足に賜い、所生の兒を子とすべく詔ありて生まれしが、定慧なり。(略)九歳にして遣唐使の一行に加わり渡唐す」とある。要するに孝徳帝が妃小足媛を鎌足に下賜した時、既に媛は身ごもっており、それが定慧だったという説である。そうだとすると、定慧は有間皇子と父母を同じくする5歳下の実弟ということになる。
 また金心寺の創建についても次のように記述する。「郡の中部・三田町に如意山金心寺あり。(略)寺は有間皇子の領地に在り。藤原定慧の開基とあるは、実に正しき由来というべく、寺址よりは、奈良朝以前の古瓦出せり。(略)定慧の唐に留る二十年、帰朝するや養父鎌足は既にコウジル薨じ、兄君なる有間皇子は不幸にも悲惨なる早逝等の事実を聞かれ、これ等先人の追福のため(略)有馬郡には兄君及び藤原家乃至(渡唐の時の大使だった)吉氏の保護の謝恩として、此の金心寺は建立せられたるものの如し」。
 この郡誌の記述を是とすれば、三田・金心寺は、有間皇子本人の郡内の足跡としては最も色濃く残されていることになる。金心寺の開基は皇子の実弟であり、寺領もまた皇子の領地内にあったということになる。