娑婆の風景2007年03月21日

 祝日の朝である。病室の窓越しに雲一つない青空が広がっている。眼下の天王寺公園の森を取巻く桜の帯がつぼみで白く染まり始めた。春の訪れを告げる柔らかな日差しの中を、何組もの家族連れが散策を楽しんだり、芝生で弁当を広げたりしている。健康な人たちの日常生活の営みがあった。「娑婆の風景」そんな言葉がふと浮かんだ。
 不謹慎のそしりを受けるかもしれないが、長期の入院生活はムショ暮らしを連想させる。限られた空間の中で、多くの時間をベッドの上で過ごすことを余儀無くされる。朝6時の室内灯の点灯を合図に1日が始まり、夜10時の消灯とともに就寝を促される。この間を8時、12時、18時の朝昼晩の食事が時間どおりに運ばれる。9時半前後には看護師の体温、脈拍、血圧の定期測定が、午後には担当医による処置がある。この余りにも規則正しく拘束された生活は、ドラマや小説の世界で描かれる刑務所生活のイメージにつながってしまう。病棟は、社会復帰に向けての「更生の場」といえなくもない。
 ムショ暮らしでは「娑婆の風景」は拝めない。病棟から眺められる「娑婆の風景」は、健康な日常生活を取り戻すための活力でもある。
 
 昼過ぎに妻と娘が訪れた。その直後に息子の嫁とそのご両親に見舞ってもらった。片道2時間もの遠方からの来訪だった。ありがたいことだ。ご両親のそれぞれの実家が、私の高校時代の級友につながっていたことをあらためて知った。
 妻の帰宅直後に、思いもかけない方の見舞いを受けた。1度お会いしただけの方である。私のこのブログだけでなくHPも驚くほど良く読んで頂いている。リタイヤを目前にした同年代の方である。「これからの自分さがし」という彼の問題意識は私にとっても共通のものだ。そんな点から私のHPに過分な共感を頂いた。うれしいかぎりだ。「老後のライフワーク」をキーワードに談話室での会話が弾んだ。

原色の街2007年03月22日

6階南側のレストラン奥に屋外テラスコートがる。コートの南側から天王寺界隈の南の風景が展望できる。暖かい春の日差しに誘われてウォーキング途中の足を止めた。眼下になつかしい建物を見つけた。大正ロマンの香りを帯びた料亭「鯛よし・百番」の全貌が見える。私が参加する異業種交流会の忘年会の定例会場だ。大正初期に遊郭として「原色の街・飛田新地」のど真ん中に建てられた。
 7年前に初めてこの街に足を踏み入れた。その時に目にした光景のもたらしたインパクトは今なお忘れ難いものだった。白と黒を基調としたくすんだ町並みにもかかわらず「原色の街」と呼ぶにふさわしい光景だった。「新世界」の南に縦横に長屋が立ち並ぶ一角である。間口2間ばかりの店が軒を並べている。どの店も玄関引戸が開放され、上がり框(かまち)に年配の女性が、一段上に若い女性がコンビを組んで待ち受けている。「にいちゃん!付けてって」年配女性が声をかける。旧遊郭の名残を留めた古式ゆかしい営業スタイルである。まぎれもなくここは風俗の街だ。とはいえ原色のネオンに彩られた新宿歌舞伎町に代表される今日の風俗街とおよそかけはなれた情緒ただよう街だ。それでもやっぱり欲望という原色を生業とした街に違いない。
 
 夕方、処置室に呼ばれた。右腋下切除部分の抜糸とチューブの取り外しの処置が施された。右手親指跡を覆っていた包帯も除かれた。親指のないむきだしの右手「そのまんま」の生活がスタートした。ピンクのハム太郎ポシェットともお別れだ。日常生活の不便さが一気に除かれた。医療行為という点では単なる通過点なのだろう。患者にとっての日常生活の過ごし方という点では、感慨が深い処置だった。

春がすみ2007年03月23日

 春がすみに覆われた朝を迎えた。昨日夕方の処置後、私の日常生活が一変した。腋下のチューブが取れ、右手の包帯が外された。退院後の生活とほぼ同じ身体条件での生活がスタートした。右手親指のない生活が具体的にどのようなものになるのか。その実態は春がすみに包まれた風景のようにおぼろげでつかみ切れない。
 朝日がのぼりその輝きを増すごとに、春がすみのベールが剥がされていく。様々な生活シーンを過ごすたびに、あらたな身体条件でできることとできないことが明らかになっていく。ペンで文章を書くということは半ばあきらめていた。とはいえ署名という必要最小限のペン字は日常生活の上で欠かせない。親指付根と中指でボールペンを挟み住所氏名を書いてみた。かっての筆跡実現は叶わないものの署名自体は可能だった。
 
 朝9時に前夜当直だった主治医の、いつにない早い処置があった。チューブを外すことで懸念された体液滞留による腋下の腫れはなかった。処置もチューブ挿入跡のガーゼ交換だけという簡単なものになった。
 引き続き主治医から26日から開始予定の化学療法の説明があった。DAV-feronという抗ガン剤投与が化学療法の内容である。1日2時間余りの点滴を5日間実施する。予想される副作用とその対応策が告げられた。早速、説明を受けたことの確認の署名が求められた。
 2日に1度の入浴日だ。11時に看護師さんに右手をビニール手袋でカバーしてもらい浴室に入る。両手でシャンプーが可能になった。タオルも結構きつく絞れるようになった。ところが何かの拍子に、掴んだはずの動作が空を切ることもある。
 春がすみのベールが1枚1枚剥がれていく。

バイバイ・ももかちゃん2007年03月24日

 朝食後のウォーキング途中だった。談話室にももかちゃん母娘の姿があった。ももかちゃんは目ざとく私を見つけると、いつものように満面の笑みで片腕を振ってくれる。「バイバイ」と声をかけ手を振り返す。
 2~3日前に「経過は順調なのでもうすぐ退院できそうです」というお母さんの話を聞いていた。「いつ退院ですか?」。私の問いに返されたお母さんのうれしそうな言葉は、私にとっては苦いものだった。「今日のお昼なんです。いつも遊んでもらってありがとうございました」「エ~ッ今日ですか!寂しくなりますネ」思わず漏らした私のホンネだった。
 その足で部屋に戻りデジカメを手に談話室に向った。「思い出にももかちゃんを写させてもらえませんか」。お母さんは返事の替わりに笑顔でももかちゃんをクッションベンチに座らせてくれた。「オジちゃんに撮ってもらおうネ」。
 私のメモリーカードには、右手を上げてポーズを取っているももかちゃんの愛くるしい笑顔の画像が残されている。辛くて憂鬱なことの多い入院生活の中で、心和んだ楽しい思い出がこもった貴重な1枚だ。バイバイ!ももかちゃん。楽しい思い出をありがとう。

13階の震度32007年03月25日

 朝食後のウォーキングを済ませ病室でくつろいでいた。ベッドを跨ぐ病人用デスクに向ってzaurusのメールチェックをしていた時だった。窓際のカーテンが突然揺れ始めた。一瞬、自分自身になんらかの脳障害が生じたのかと疑った。カーテンの揺れが大きくなり、ベッドそのものも明らかに揺れ始めている。「地震ヤッ!」思わず叫んでいた。隣のベッドで検温していた看護師さんが応じた。「ほんまや!怖ッ」部屋全体の揺れが止まらない。30秒近くも続いたのではないか。阪神大震災の時の未明のベッドでの恐怖がよみがえる。
 つけっぱなしにしていたテレビ画面にテロップが表示された。「9時42分頃、石川県で震度6強の地震がありました」その後の各地の震度速報では大阪北部は震度3と表示された。震度そのものは過去幾度か体験した地震と大差ない。ところが実感した揺れはそれらをはるかに越えている。高層ビル13階の病室である。揺れを吸収する高層ビルの柔構造が上層階の揺れを拡大していた。これもまた今回の病がもたらした特有の体験なのだろう。

最終ラウンド2007年03月26日

 入院生活も最終ラウンドを迎えた。今日から5日間の抗ガン剤投与を経て来週の血液検査結果を待って退院の可否が決まる。順調なら来週末には我が家で食卓を囲んでいることになる。
 入浴日でもある。予定表では9時からとなっている。少し前に看護師さんに右手と腋下のカバーを頼んだ。担当医に看てもらったら、カバーは一切不要だし湯船に浸かっても良いとのこと。誰の介助もなく自力の入浴で20日ぶりに湯船にゆっくり浸かった。
 9時半頃、担当医が看護師さんを伴ってやってきた。左腕に点滴用の注射針が挿入され、いよいよ化学療法が始まった。最初の30分は吐気止めの点滴だった。この点滴中に担当医から患部親指跡付根の3カ所にインターフェロンの注射が施された。かなり痛いとの噂の注射だった。歯医者の麻酔注射の痛みを少し上回る程度だった。抗ガン剤の点滴に移った。初めてのことでもありゆっくりと50分ほどかけて注入された。この段階で吐気や痛みが生じやすいのでその場合はすぐに知らせるように告げられる。いやでも緊張してしまう。こればかりは個人差も大きく蓋を開けなければ分からない。5分経ち10分が経過した。何の自覚症状もない。良かった。安堵の気持ちが広がる。最後の30分は生理食塩水で問題なく吸収した。11時半過ぎに抗ガン剤投与という緊張感のある治療が無事終了した。
 同じ病で以前同室だったMさんは、点滴後、病院食を前にした途端吐気をもようし全く受付けなかった。昼食の病院食にどのように反応するかが次のハードルだった。チャーハン、サラダ、スープの昼食は決して美味しいとは言えないものの抵抗なく胃袋に納まった。
 15時半には主治医の処置があり、親指切除跡の抜糸が行われ術後処置が完了した。

 11時半頃だった。窓の景色を西から流れてきた白煙が包みだした。煙りは急速に膨らみ黄色に染まりだした。室内に焦げ臭い匂いが漂い始めた。明らかに火災だ。煙の元になる方角の病棟通路の西端の窓を覗いた。工事中の更地を挟んで隣接する一角で猛然と煙を吐いている。細い路地に囲まれた古い民家の密集する地域の中の1軒からの出火である。ほどなく消防車のサイレンが次々と鳴り響く。更地からの放水が奏効し間もなく鎮火した。昨日の震災に続く今日の火災だ。退院間近にハプニングの頻発する入院生活だ。

リハビリ開始2007年03月27日

 2回目の抗ガン剤投与を終えた。通常90分程度のようだが点滴の落下速度によって注入時間は異なる。今日も昨日と同じ約2時間を要した。右手親指跡根元への注射も、少しずつ位置をずらすためか昨日より掌側に移り、その痛みは強烈だった。点滴自体は問題なかったものの、昼食の病院食を前にした時少しむかつきを覚えた。食事そのものは残すことなく食べ終えた。
 一方で主治医の手配によるリハビリが今日から始まった。点滴を終えてすぐに1階のリハビリテーション部に行った。担当医の簡単な診察があり、午後トレーナーからリハビリを受けた。右腋下リンパ節切除後の縫付けで固くなった右肩をほぐすこと、右手親指欠如に伴う日常生活の機能改善が目的だ。担当のトレーナーは30代後半と思われる女性の理学療法士さんだった。丁寧で気配りのある指導やマッサージが今後のリハビリの励みになりそうだ。

拝啓 大阪市長殿2007年03月28日

 先週金曜日に病院で床頭台と呼ばれているベッドサイドの収納台が取替えられた。入院患者にとっては日常生活に密着した貴重な什器である。取替え目的は小型冷蔵庫の導入のようだった。ところが導入された新たな台は、ユーザーである患者にとっていくつもの問題を生じさせていた。①収納スペースの殆どを冷蔵庫で占められ自由に使用できるスペースが大幅にカットされた。②唯一の収納スペースである引出しは冷蔵庫が発する熱を吸収し、湿布薬等をうかつに置けないもの構造である。③テレビを載せるターンテーブルの回転が重くなり両手でないと回せなくなった。病人であるユーザーの負担は大きい。④暗証式のセイフティーボックスがカード式になり、パジャマ姿で生活する患者にカードの常備が求められる不便な仕様になった。⑤食事台にもなっていたスライド棚が数cm低くなり屈み込む姿勢を強いられる。
 その日のうちにユーザーの立場から婦長さんに問題点を伝えた。他の患者さんからも聞いているとのことで早速業者に連絡をするとのこと。何の対応もなく土日が過ぎ月曜の午後に業者らしき二人が婦長さんに連れられてやってきた。金曜日以降、何度も連絡してやっと来てもらったとの婦長さんの弁である。何の挨拶もなくいきなり台の点検を始める。ターンテーブルを回してみて「こんなもんです」とほざいた。使い勝手を判断するのはユーザーであり業者じゃない。厳しく批判すると「また連絡します」とそそくさと退散した。
 そして昨日の午後、前日と同じ顔触れで再び現れて、何やら言い訳を始め出した。「お宅はどなたなんですか。名刺をもらえますか」との問いに「市立大学病院の外郭団体の医学振興協会の○○で、名刺は今持ち合わせていない。今月末に財団が解散するので剰余金で今回この台を市大病院に寄贈した。今は有料の冷蔵庫もこの台では無料になる」とのたまう。苦情処理にきておいて、名刺も持参せず名も名乗らずいきなり弁解を始める。およそ民間では考えられない度し難い対応である。「使用料無料の冷蔵庫付きの新台を寄贈してやっている」という態度がミエミエだ。「寄贈といっても煎じ詰めれば税金じゃないか。試作品による使い勝手の試用実験はしたのか。せめて天井ボードの上に追加収納棚を設置できないか」と言うと「看護婦さんには見てもらったが試用実験はしていない。この台の追加の加工等は一切できない」とのこと。どんなに非難されようがその対象である組織は今月末には解散するという魂胆なのだろう。「要するに弁解をしにきただけか。それならこれ以上話しても無駄」と打ち切った。
 今の大阪市のていたらくな実態の一端ををはからずも垣間見た。外郭団体の整理統合の流れの中の出来事にちがいないが、その方法もまたいかにも患者や現場を無視したお役所仕事である。台の側面に貼られた「贈呈:医学振興協会設立50周年事業」のシールがいかにも白々しい。
 それにしても結局しわ寄せを受けるのは現場の患者や看護師さんたちである。今回の導入は4人部屋だけだ。とはいえこの台の問題点が6人部屋や個室への導入時に改善される保証はない。同室の患者仲間の「よくぞ言ってくれた」との言葉にも意を強くした。そこでせめてもの思いでこの顛末の詳細をブログに記した。

理学療法士のプロの技2007年03月29日

 3日前から病院のリハビリテーション部のリハビリを受けだした。正式には理学療法である。右腋下を手術で切除後縫い合わせて20日近くになっていた。この間、庇いながら過ごした右腕は、筋肉が固まり、思いのほか動きが悪い。利き手親指欠如後の機能をどのように回復するかも問題だ。
 担当の女性の理学療法師さんのマッサージや訓練は的確で効果的だった。右腕の上や横への動きを阻んでいた筋肉の硬直は、着実にほぐされてきた。ツボを心得たプロの技を感じさせる。それにしても力仕事である。患者の反発力を押さえ込むように負荷をかけながら巧みにほぐしていく。約30分の治療には相当な体力を要する筈だ。
 日常生活の機能回復面でも新たな発見があった。手術後の食事は右手でフォークを握って済ませてきた。左手で箸を使うことなど、はなっからできないものと思い込んでいた。今日、ものは試しとばかり左手で箸を使って様々の形のピースを籠に入れるよう指導された。なんと意外にできるものだ。「スポーツをやってましたか。初めてにしては素晴らしい運動感です」。励まし用のオダテ言葉と分かっていても悪い気はしない。早速今晩の夕食から木に登った豚になってみよう。

地震・雷・火事・親父2007年03月30日

 5日前に能登半島震災が発生した。高層ビル13階の病室で耐震構造の横揺れの激しさを味わった。翌日、病院と空き地ひとつを隔てた隣接の密集地の民家から出火した。猛炎が病院の建物を包み一時は病室内にも臭いとともに漂った。今日の未明には大きな雷鳴が轟いた。文字どおり地震、雷、火事の災害が相次いで押し寄せた観がある。となれば「親父」に相当する災害もあるのではないか。
 昨日、斜め向かいのベッドのIさんが退院した。Iさんは向かいのベッドのOさんのいびきにあからさまに不満を訴えた。以来Oさんは就寝時間だけ空いた個室に移ってもらうという緊急措置が取られた。そのIさんが退院し、なんと昨晩から病院側は緊急措置を解除したのだ。それでも睡眠剤が常用化していた私は、その効力でなんとか乗り切れるのではないかと思っていた。甘かった。22時半過ぎの服用後眠りに落ちた。深夜、大きな音量に目が覚めた。時計は1時半を指している。恐れていた事態である。100kgもの巨体のOさんのいびきは半端じゃない。睡眠剤の効果を吹き飛ばす破壊力である。ガーガー、ゴーゴーだけでなくアー、オーといった音声まで入り乱れた不規則な騒音である。まんじりともせずベッドで過ごした後、明け方ナースステーションに緊急措置の継続を訴えた。
 「親父」の災害の正体は、隣のベッドの54歳のオヤジの大いびきだったのだ。

 本日をもって5日間の抗ガン剤投与の点滴が無事終わった。特に副作用も発症しなかった。朝6時過に採血があった。この血液検査結果で退院日も決まってくる。
 13時過ぎに担当医の来室があり、今朝の血液検査結果が告げられた。「白血球と肝臓機能の数値が基準値を越えている。来週月曜の血液検査では、この間点滴を止めているので改善される筈。現状では来週火曜日の退院を予定している。ただ白血球の数値が改善していなければ肩に骨髄注射をして少し様子をみることになる。」
 ようやく入院生活のゴールが見えてきた。