息子の挑戦2007年03月11日

 手術後4日目を迎え、ほぼ日常生活を取り戻した。万歩計のカウントも昨日から1万歩を越えるようになっている。唯、入浴だけは許されていない。脇腹の血流排出用チューブが取れるまで我慢が続く。とはいえ看護師さんに洗髪をしてもらい、最低限の快適さも取り戻せた。
 11時過ぎに妻と息子夫婦が見舞ってくれた。外資系製薬会社勤務の息子は、今月末に同じ業界のやはり外資系の会社に転職する。製薬業界では転職は一般的というよりむしろジョブアップを意味するという。転職の際の処遇条件も業界ベースでのスタンダードらしきものがあるようだ。個人の側では成長性を見込める分野の薬品をいち早く担当し、その知識と経験を蓄積することがスキルアップに欠かせないという。今回の転職はそうした見通しと意志をもとに転職先とネゴをして実現したという。自らの職業生活を主体的に切り開く新たな挑戦を始めたようだ。結果的に5年近くを過ごした現在の住まいも遠く離れた地に移すことになる。嫁の気苦労も想像に難くない。
 私自身は卒業後すぐに就職した会社で実質的に定年を迎えた。息子の歩んでいるサラリーマン人生は、そんな私から見れば及びもつかない。自らを転勤族と語る息子の人生に一抹の寂しさを感じないではないが、それ以上に着実に自分たちなりの生活を築きつつある息子夫婦の逞しさを頼もしく眺めた。

同室のMさんの退院2007年03月12日

 先週の月曜日に同室の斜め向かいのベッドにMさんが入院してきた。病室での患者同士の自己紹介は、お互いの病名と入院経過の報告が名刺替わりとなる。私と同じ病名で54歳だというMさんは、手術後退院し、今回が最後の化学療法受診のための入院だった。私の近い将来の姿を知る具体的な手掛かりを得ただけでなく、驚愕するほかはない以下のような恐ろしい話も聞かされた。
 
 『発見時の病期はstage4とかなり進行していた。しかも患部が右頬だったことが治療を苛酷なものにした。患部切除後の腹部筋肉の接合、顎のリンパ節切除という14時間にも及ぶ手術だった。手術直後から1週間ほどを、個室で顔を固定され仰臥したまま身動きできない状態で過ごした。全身のしびれに耐えながら、ひたすら天井を眺めるしかない苛酷な現実が、睡眠と覚醒の境界をなくし、時に幻覚が襲ってきた。今だから口にできる恐ろしい幻覚だった。
 眠っているこの部屋に不意に子供たちがドカドカと入ってくる。何十人となく入り込んだ子供たちは楽しげに歌い、はしゃいでいる。ただその子供たちの顔は誰もが右半分が欠けている。右頬を切除した自分の姿が重なる。またある時は、北朝鮮で苛酷な労働を強いられている右半身のない自分の姿が見えた』
 
 今も右頬を大きな絆創膏で覆ったMさんが淡々と語った話だった。Mさんの作り話と片付けられない人間の想像力を越えた内容だった。まぎれもなくMさんが実際に味わった地獄の現実なのだろう。
 そんなMさんの1週間の入院による最後の化学療法が無事終了した。今朝の血液検査で最終的に検査項目の正常値が確認され、主治医の退院許可が下りた。昨年11月の手術以来4カ月もの闘病生活がいったん終了し、以降は定期的に検査を受けるだけとのことだ。
 私よりも2段階も病期が進行していたMさんの闘病生活の克服は、私にとっても励みとなる明るいニュースだった。そしてMさんが語った地獄の体験談のインパクトは強烈だった。

白い巨塔2007年03月13日

 毎週火曜日と金曜日の13時から病棟では指導教官による回診がある。今日も助教授を中心に10数名のメンバーがベッドを囲んだ。先週から実習で私を担当している5回生の女子学生の顔も見える。担当医が簡単に病状を伝え、助教授が手元資料を確認しながら問診する。あっと言う間に終了し次の患者に移る。山崎豊子原作の「白い巨塔」で一世を風靡したあの光景が繰り広げられている。
 直後に実習中の学生がやってきた。患者にとっては余り意味がないと思われる「回診」について尋ねてみた。
 『回診は、診療科ごとに教授や助教授である指導教官を中心に主治医、診療科所属医、研修医、実習中の学生等により診療科の全入院患者を対象に行われる。指導教官が指導下にある全患者の病状を把握するとともに所属医全体で情報を共有するという目的がある。複数の指導教官がそのつど交替することでダブルチェックの機能もある。患者にとっては主治医を越えて直接指導教官に訴える機会でもある』
 なるほどそれなりに筋は通っている。自己満足的な「白い巨塔」のセレモニーというわけでもなさそうだ。

付添女性たちの修羅の場2007年03月14日

 病室のある13階のフロアを主通路に沿って1日に10数回も周回している。自宅近くの有馬川沿いの自然豊かな遊歩道には比ぶべくもないが、1カ月もこの道を歩き続けて、景観とは別の景色が見えてきた。
 10基のエレベーターホールと巨大な吹き抜けを挟んで東西に病棟がある。通路沿いには94のベッド数を収容する32の病室と東西の病棟ごとにナースステーション、談話室、食事スペース、処置室、洗面所などが配置されている。14の個室以外の病室入口は常時開放され、病室内の様子が通路からもうかがえる。病室の住人は日々入れ替わる。見慣れた住人のベッドが、ある日真っさらのシーツに替わり入院待ちの状態に整えられた時、住人の退院を知らされる。
 同じフロアにある耳鼻咽喉科の病室には幼児や児童の患者も多い。通路沿いによちよち歩きの幼児の後ろを若い母親が見守りながらついてくる。私にとっては心和む風景だが、幼児に付添う母親の心労はいかばかりか。談話室では30代の母親がいつも決まった時間に小学校低学年の女の子と一緒に休学中の勉強の遅れを取り戻そうとしている。母親たちの夜はベッドの傍らに並べられる病院貸与のボンボンベッドの上である。
 西病棟の通路突き当たりからは、広々とした窓越しにウォーターフロントまで遠望できる景色が広がっている。この場所でしばしば車椅子の老人とその夫人らしき姿を見かける。80の峠をとっくに越えたかに見える車椅子の老人は、鼻に酸素チューブをつけ、うつろな瞼を開き、半ば口を空いたまま全く身動きしない。すでに話すことも適わないようだ。そんな夫とともに傍らの夫人は、沈みゆく夕日をいつまでも眺めている。逆光に浮かぶ夫人の背中に、いつ果てるともしれない絶望の中で必死で耐えている哀しみを見た。
 入院病棟は、幼い子供たちの病苦を分かち合う母親や夫の晩年を支える妻などの付添い女性たちの修羅の場でもある。

ハム太郎ポシェット2007年03月15日

 手術を終えて1週間が経った。経過は順調だ。日常生活もある点を除いては手術前に戻った。昨日は妻の手を借りて術後はじめてのシャワーも浴びた。厄介でうっとうしいのは、右腋下にぶら下がるチューブの存在である。
 手術で右腋下のリンパ節を切除した。その結果、右腕の血液やリンパ液等の体液が腋下に滞留し還流しなくなっている。そこで右腋下に挿入したチューブからそれらの体液(ドレーン)を体外に流出させる処置が施された。チューブの先端に繋がれたJ-VACという特殊なビニール袋が流出された体液を収納する。
 手術直後のチューブは血液を中心に真っ赤に染まっていた。日を追うごとに血液からリンパ液に比重を移しチューブの色は透明化してきた。順調な経過とのことだ。チューブの取り外しは流出量で決まる。毎日10時にJ-VACのドレーンをメジャーに移して流出量が測定される。術後3日目に60mlに達してピークとなり以後7日目の今日まで同じ量が続いている。チューブの取り外しはまだまだ先になりそうだ。
 ところでチューブに繋がれたJ-VACは手に持って行動するわけにはいかない。何かに収納して首から吊るすほかはない。看護師さんに手作りポシェットを貸与してもらった。利用対象者は子供が多いということで、なんとも可愛いポシェットである。アニメキャラクターのとっとこハム太郎と仲間たちの図柄である。ピンクの布地が可愛さに拍車をかけている。どうみても60を越えた髭面のオヤジが身につける代物ではない。とはいえオヤジの側に選択の余地はない。常時これをお供に日常生活を過ごす羽目に陥っている。エレベーターで鉢合わせた顔見知りの幼児連れの若い母親が子供に囁いた。「可愛いポシェットやね~」。赤面しながら笑顔を返すしか手はない。
 院内ウォーキングもこのスタイルである。今日も首からピンクのハム太郎ポシェットをぶら下げたオヤジが院内を闊歩する。

患者の達人2007年03月16日

  「それじゃ頑張ってね」入院患者の見舞客が帰り際にしばしば口にする言葉である。「うん、頑張るわ」答える側も多くの場合、これ以外の言葉を持ち合わせない。『病を克服できるよう頑張る』ことが共通項である。
 ところでそのために患者ができることは限られている。病の克服はなによりも治療する医師の力量に負うところが多い。次に医師の処方箋を受ける患者の体質に左右される。処方箋の有効性、合併症や副作用の発症など個々人のばらつきは大きいが、これは蓋を開けて見なければ分からない。これらは患者自身の頑張りの埒外にある。
 にもかかわらず患者には『頑張り』が求められる。深刻な病であればあるほどそれを突き付けられた時の衝撃は大きい。「なぜ自分が・・・」という絶望感は深い。どれほど悩もうが与えられた現実は変わらない。ここで患者の『受け止め方』が問われる。突き付けられた現実は変えられなくとも、前向きにポジティブに受け止めるか、後ろ向きにネガティブに受け止めるかは患者自身の選択である。
 患者自身がネガティブになればなるほど本人の病を克服する気力を奪ってしまう。それは同時に患者をサポートする医師や看護師や家族の支援の意欲を萎えさせることにつながる。患者のポジティブさは病克服の貴重なエネルギーである。そしてそれは患者を支援する回りの人達と積極的な関係を築き維持させる上での患者自身が対応可能な唯一の手立てである。
 『病は気から』。この言い古された陳腐な言葉があらためて実感されてくる。これこそが『患者が頑張る』ということの意味であり、『患者の達人』の極意である。

同室者たち2007年03月17日

 4人部屋の病室が昨日から満室になった。向かいのベッドの68歳のFさんは私の入院の翌日に入院し、1カ月以上に及ぶルームメイトとなった。足指の水虫から入り込んだバイ菌が悪化し結局指先切除手術を施された。昨年11月にもこの病院で心臓のバイパス手術を受けたという。腎臓も悪く常時血糖値を測りインシュリンを打つ毎日だ。既往症とのバランスを取りながらの術後の治療は、年齢ともあいまって予想以上に長引いているようだ。子供の頃に両親を亡くし、親戚を転々とした。一時はサンパウロにも在住していたというFさんの波瀾万丈の人生を聞かされた。週3回は見舞ってくる伴侶が、近づいた内孫の宮参りの仕度を伝えている。同伴できないことが目下の悩みという口ぶりに彼の現在の幸せを垣間見る。話し好きである。油断をすれば長時間拘束の罠に嵌まる。いかに巧みにその罠をかいくぐるかが私の目下の悩みである。
 隣のベッドの54歳のOさんは、私と同じ悪性腫瘍が足裏に見つかり1週間前から入院している。入院の際は一人だった。家族はなくずっと独り身だったという。若い時は気楽で良かったがこの年になると寂しくもあると本音をのぞかせる。巨漢である。その体躯から繰り出されるいびきは凄まじい。睡眠剤の服用が私の日課となった。
 昨日入院の70歳前後と思われるIさんの詳細は知らない。午前中に奥さんだけが入院準備に訪れ、本人は午後2時頃一人でやってきた。先住者たちに挨拶をするでもなくさっさとベッドに入り込み、話の接ぎ穂がない。以来、同室の誰とも口を聞いた様子はない。小柄で細みの体からは神経質そうな雰囲気が漂っている。昨日の深夜、フト目が覚めた。Oさんのいびきの合間にかなり大きな独り言が聞こえた。寝つかれないIさんのOさんへののしりだった。
 狭い病室の4人部屋に様々な人生がこめられている。同室者たちがおりなす人間模様や葛藤がある。

病床の雪2007年03月18日

 昨晩は9時半頃の早目の就寝だった。明け方3時半頃目が覚めたものの再び眠りに落ち次の目覚めは6時前だった。睡眠剤の助けを借りたとは言え久々の8時間もの睡眠を得た。
 6時になって室内灯の明かりがいっせいに灯された。いつものように窓側のカーテンを開いた。目に飛び込んだのは、どんよりとした曇り空に舞う粉雪だった。3月中旬になって目にしたこの冬初めての雪だ。降りしきる粉雪を美しいと思った。こんな景色にもちょっとした感動を覚えている自分自身を不思議に思った。
 この病床での生活はすでに1カ月以上に及ぶ。検査や手術や治療といった病にかかわる状況には起伏はあるものの、変化のない日常生活は淡々と平坦に刻まれるだけである。限られた空間の中で限られた人たちとのかかわりだけで成り立っている。
 13階の窓から眺める景色にしばしば見とれている自分がいる。風景のありがたさをこれ程思ったことはない。大病で長期間病床で過ごしたからこそ得られた感受性なのだろう。
 病床から眺める粉雪を美しさをかみしめた。

ももかちゃんの笑顔の謎2007年03月19日

 入院中の万歩ウォーキングがけなげにも続いている。途中でしばしば顔を合わせる母娘がいた。若い母親は1歳前後の女の子のよちよち歩きを見守ったり、抱っこしながらあやしたりしている。すれ違う時、いつも女の子はなぜか私をじっと見つめている。ある時、髭に覆われた口元をほころばせて手を振った。なんと女の子はこぼれるような笑顔をみせてバイバイを返してくれたのだ。すっかりうれしくなった。ウォーキング途中で女の子に会えることを願うようになった。病室の前で母娘と出くわした時、病室の名札で女の子が「ももかちゃん」だと知った。
 昨晩、談話室で母親の傍らでももかちゃんをぎこちない手つきであやしている男性を見かけた。父親に違いない。父親の口元には口髭と顎髭が蓄えられていた。私に向けられたももかちゃんの予想外の笑顔の謎が解けた。今朝、ウォーキングで出会った母親に声をかけた。「パパも髭を生やしているんですね」。母親が笑顔で答えた。「そうなんです」。髭面に興味を示す愛娘の無邪気さをお見通しと言った風情だ。
 ところで病状である。右腋下に挿入したチューブから排出される体液量は、術後8日目からようやく減少に転じた。3日目に60mlのピークが5日間続いた後の減少だった。11日目の今朝は21mlまでになっている。チューブ取り外しの10ml以下まであと一息だ。
 昼過ぎにはガーゼ交換があった。主治医から右手親指切除後初めて自分自身で右手の手洗いをやってみるよう指示された。防水シートに覆われた第一関節から先のない親指のノッペラボウな全貌を初めて凝視した。一瞬の胸が詰まる。親指のない右手のイメージは幾度も想像していた筈だった。確かな想像と実際に目にする現実の埋めようのない乖離を知らされた。この一瞬の精神的ダメージからの立ち直りは意外と早かった。この瞬間をブログでどう表現しようかという思いが意識を切り替えてくれた。IT時代に入り文章表現の手立てが親指主体のペンから親指不要のキーボードにシフトしていることのありがたさに思い至った。人差し指中心の不器用な入力レベルにあることすら今となっては幸いしていると強がった。
 ガーゼ交換の処置の際、主治医から切除したリンパ節の病理検査結果がもたらされた。「転移はなかった」との3人の担当医全員の所見だったとのこと。『禍福はあざなえる縄のごとし』苛酷な現実とともに、いい情報もついてきた。

続・ももかちゃん2007年03月20日

  昨日の朝食後のウォーキングの時だった。ももかちゃんのベッドが消えていた。月曜日である。手術の日だ。ももかちゃんんが手術室に運ばれている。あのチッチャな体のどこにメスが入っているのだろう。胸がしめつけられた。
 今朝の同じ時刻のウォーキングの時だった。談話室にももかちゃん母娘の姿があった。思わず母親に声をかけた。「昨日、手術だったんですね」「そうなんです。右頬のたちの悪い痣を取ったんです。手術前後は泣き叫んでもう大変でした」。若い母親の愛娘と一緒にひとやま乗り越えた逞しさがあった。顔見知りになったオジサンを身を乗り出してのぞき込むももかちゃんの無邪気さがたまらない。
 同じフロアを周回し、再び談話室横に通りかかった。クッションベンチの背もたれにつかまり立ちしながら、ももかちゃんが手を振ってくれる。今は自信をもって振り返している。なんといっても髭面はももかちゃんのタイプなのだから。

 昨晩から我が病室の消灯後の夜間の静寂が戻った。連夜、雷鳴を轟かせていた隣のベッドのOさんが、就寝時間帯に限り個室に移ることになった。向いのIさんの看護師さんへの訴えが奏効したようだ。看護師さんから大部屋でのいびき問題の病院側の解決手法と聞かされた。入院中の睡眠剤服用を覚悟していた私にとってもありがたい措置となった。万事円く収まり一件落着。