OB会のハシゴの日2009年04月11日

 40年のビジネス・ライフを過ごした企業グループのOB会総会が開催された。大阪難波のスイスホテル南海大阪の会場に120名ほどのOBと現役役員が集まった。リタイヤして1年近くが経過した。会場にはずっと以前にリタイヤされた先輩方の懐かしい顔があちこちで見られる。この会合はそうした方々との年1回の邂逅の場である。
 活動経過・計画や会計報告・予算等の型通りの総会議事を短時間に済ませ、OB会の公認サークル「ゴールドファーム」の活動報告がある。大阪府の遊休農地を活用した有機・低農薬栽培の野菜造り活動で知人の多くが参加している。帰りにはゴールドファーム栽培の野菜が嬉しいお土産となった。その後はいよいよメインの飲食懇親会となる。最初のうちはテーブルで料理中心の時間を過ごすものの、途中からは懐かしい顔ぶれとの旧交を温めるため各テーブルを飛び交うことになる。それはそれで楽しいひと時だ。多くの知人たちが初めて目にする私の髭面が会話の格好の糸口になっていた。
 OB総会を終えて、参加した何人かと一緒に次の同期会の会場に向う。なんとこの日はOB会のハシゴだった。すぐ近くの「がんこ・なんば本店」が定例会場だ。OB会総会に参加したメンバーにとっては二次会の様相を帯びている。同期会から参加したメンバーが半数近くいて、総勢20名ほどの懇親会となった。思い思いに懇親を交わした後は一人一人の近況報告となる。参加したほぼ全員がOBとなった。企業グループを離れて尚現役生活を送る者もいるが、リタイヤ生活に入ったメンバーも増えてきた。各々の個性を発揮できるリタイヤ後の近況報告が楽しみな年代を迎えようとしている。
 3時から9時までの呑み通しの日の帰路の最寄り駅には、久々に家内の迎えの車が待っていた。

自治会総会と地区センターこけら落とし寄席2009年04月12日

 朝は在住地区の自治会総会だった。昨年に続いて今年も総会議長を引受けた。9時半の開会15分前に会場の地元小学校の体育館に到着。開会直後に委任状1100名と169名の出席が報告された。1800世帯を擁する自治会の総会成立が告げられた。去年と同じ「相棒」とともに議長席に着く。分担も昨年どおり私が後半担当である。
 前半の今期の活動報告や会計報告が提案され質疑応答となる。毎年発言のある元自治会長をはじめ、数人の質問要望が出される。「自治会の回覧板が行事が終ってから回される等、回覧が遅すぎる」「自治会館等の公共施設の利用マナーの徹底を」「犬の糞の不始末の対策を」等、毎年問題となるテーマが相次ぐ。予定時間を大幅に超えてようやく前半の議事を可決し後半の議事に入った。
 事前に所定の手続きで選出されていた新役員候補者達を拍手承認し、来期の活動計画と予算案の議事に入る。ここでも「団地内の6つの公園の清掃や遊具の安全等の管理強化」「最大のイベントである盆踊りの運営の分担」等の提案がある。12時の予定時間を40分ばかり越えてようやくた全ての議事が終了した。
 午後1時半からできたばかりの地区センターのホールでこけら落としの「ゑびす寄席」がある。事前にチケット予約している。急いで帰宅し昼食を終えて会場に駆けつけた。ホール入口には大勢の行列ができている。200名定員のホールでの寄席のチケットは完売したとのこと。1時半に真新しいホールに入場した。立派な舞台と音響効果を考慮したとおぼしき内壁が目に入る。日頃は箱物行政に批判的ではあっても、いざ自分にとって身近な施設となると途端に甘くなる。
 6人の噺家たちが高座に昇る。ちなみに「ゑびす寄席」は、西宮市在住の噺家たちが出演している寄席らしい。とりわけ若手の笑福亭瓶成は私の住む住宅街にある小学校卒業と自己紹介があり驚かされた。6人の内、露の団四郎、笑福亭三喬、笑福亭達瓶は過去のゑびす寄席でも聞いた噺家だった。それぞれに古典を演じ、2時間余りの高座が終了した。

足元の春を彩る3種の野草2009年04月13日

 桜に目を奪われていた春の散歩道だった。今朝も散り始めた桜を納めようとデジカメを持参して出かけた。土筆採りのスポットを通りかかった時、畦道に群生する土筆の姿が目に入った。思わず踏み込んで近づいた。
 遅咲きの土筆をシャッターに納めようとカメラを構えた。上からモニターを見てシャッターを切るだけが能ではないと、ふと気がついた。カメラを地面近くに寄せて土筆の真横からシャッターを切った。直後にモニターで確認した画像には、桜を借景にした生き生きした土筆の姿が見事に切り取られていた。
 桜だけでない春の風景が足元にあったのだ。そう思って歩みを進めた目に飛び込んだのは濃いピンクのレンゲの群れだった。先ほどの土筆と同じ手法でシャッターを切った。こちらも有馬川沿いの桜並木を借景に鮮やかなレンゲ草を写し取った。
 更に進むと今度は黄色と黄緑に覆われた菜の花のお出ましだ。真横のアングルでシャッターを切ったことはいうまでもない。
 足元の春を彩る野草3種の競演に、他愛もなく笑みを漏らしてしまった散歩道だった。

公益委員への意見書執筆2009年04月14日

 労働委員会で担当している不当労働行為事件のひとつの最終陳述が終った。調査、審問が終了し公益委員会議での合議を経ていよいよ命令交付となる。労働者委員はこの合議に向けて意見を述べることができる。
 労働者委員として担当事件結審後の意見陳述は、可能な限り意見書提出という形で行ないたいと思った。就任1年を経過しての自分なりの決意みたいなものだった。あっせん等を行なう労働争議の調整事件では労働者委員としての役割機能はそれなりに重大である。ところが担当事件の多数を占める不当労働行為事件は、法的な事実関係調査がメインであり公益委員中心の流れとなる。労働者委員、使用者委員の出番は限られている。とはいえ現に発生している不当労働行為の救済を求めている労働者・労働組合の申立ての審査・救済がテーマある。公益委員や使用者委員以上に労働者委員の関わり方が重要な意味を持つと思う。合議に向けた労働者委員としての自分なりの意向表明はけじめとしても欠かせないと考えた。
 昨年7月に途中から引き継いだ事件の結審を迎え、労働者委員としての意見を述べる機会が初めて与えられた。就任間もない時期で経験、知識ともに不十分だとは思ったが、交付すべき命令内容について意見をしたためて公益委員に提出した。
 1年間の経験を経て二度目の意見書提出である。今日の午前中いっぱいかかって双方の最終陳述書を読み返し、意見書執筆を終えた。

異業種交流会「ノダフジ知ってますか」2009年04月15日

 昨晩は異業種交流会の4月例会の日だった。4月例会は通常「お花見会」となる。ところが第2火曜の定例会は4月14日で桜の花見には遅すぎる。代表幹事が見事にこの難問をクリアした。ネット検索の果てに、「ノダフジ」のお花見と相なった。大阪市福島区の下福島公園内の藤の花(ノダフジ)を愛でるという企画である。昔から「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」と並び称された知る人ぞ知る藤の名所だったそうだ。知らんかったな~ッ。
 18時30分集合の案内である。JR東西線の新福島駅から徒歩数分の下福島公園に到着した。生憎の小雨混じりの中を、公園のぬかるみを伝って南側の藤棚に出た。公園南側すぐの京阪・中之島駅からのアクセスルートもあるようだ。春の夕暮れは尚明るい。公園内には見事な藤棚が左右に設けられている。とはいえ藤の開花にはまだ尚早。白い花弁がちらほら見えるだけである。
 18時半頃には今回講師の藤三郎さんがお見えになった。野田藤発祥の地で代々庄屋を務め野田藤を守り伝えてきた藤家の18代目当主である。19時頃、集合した会員9名が藤さんの案内で300mほど西のノダフジ発祥の地・春日神社に向う。道中のあちこちに藤棚や藤の鉢植えが目につく。さすがに発祥の地である。藤家所有のマンションの建つ一角に朱塗りの鳥居と垣根に囲まれたこじんまりした社があった。境内を覆う藤棚には薄紫の藤の花が満開前の控え目な姿を見せていた。境内には「野田の藤跡」の石碑が建っている。藤さんに案内されてすぐ南にある竹矢来で覆われた小さな社に立ち寄る。鳥居前の広場にも藤棚がある。社をバックに集合写真を撮影した。小雨の中のノダフジ見学を終え、藤さんを囲む例会会場に移動する。途中下福島公園を経由した際、藤棚横の和風庭園の石碑に案内された。「野田ふじと藤邸の庭」にまつわる碑文でこの庭が藤さん宅から移築されたものと知った。
 JR新福島駅近くの四川料理の店・醤じゃん(じゃんじゃん)が予約の会場である。ここから合流したメンバーも含め総勢14名の例会が始まった。乾杯の後、藤さんから持参のレジュメとラミネート加工の大判資料をもとに野田藤にまつわる多面的で興味深い以下のようなお話しを伺った。
 ・野田の藤を詠んだ三首の中世・藤の和歌が残されている。鎌倉時代初期の太政大臣・西園寺公経の歌、室町幕府2代将軍・足利義詮(よしあき・尊氏の子)の歌、南北朝時代の後醍醐天皇第5皇子・宗良親王の歌である。
 ・足利義詮が1364年に住吉詣での途中で野田玉川に立ち寄り藤見物をしたことが野田藤の始まりとされる。
 ・太閤秀吉が文禄3年(1595年)に藤見物に遊覧した際、藤の庵で御茶を催した。秀吉の死の1年後に春日神社(藤家)に豊臣家から豊公画像が下賜された。
 ・江戸時代には野田村は藤の名所として知られ、「摂津名所図会」「浪花百景」「藤伝記(野田藤の歴史や伝承の記録)」に記録が残されている。
 最後に藤さんから思いがけないプレゼントを頂いた。赤と白の野田ふじワインだ。一同あらためてグラスでワインの乾杯を重ねたのはいうまでもない。玉川春日神社総代、福島区歴史研究会理事でもある地元名士の藤さんに最後までお世話になった4月例会だった。

地元にできた図書館2009年04月16日

 今月初めに地域の地区センターがオープンした。市役所支所、ホール、保健福祉センター、老人憩いの家、図書館分室、児童センター、公民館の七つの施設を備えた地域の核となる複合施設だ。四日前の日曜にはホールで開催されたこけら落としの「ゑびす寄席」で6人の噺家たちの話芸を楽しんだ。 
 その後慌ただしい毎日を過ごして、ようやく一息ついた今日、是非利用したと思っていた図書館分室を初めて訪れた。リタイヤ生活にとって図書館は貴重な施設である。たっぷりある時間を好きな読書で過ごす楽しさは、現役時代には叶わぬものである。かといって残された余生を考えれば購読して読み返すほどのこともない。読みたい本が気軽に借れる図書館ほどありがたい施設はない。
 問題はどの程度利用可能な蔵書が備わっているかである。センターの案内パンフによれば約160坪の面積に約4万冊が所蔵されているようだ。3階の真新しい図書館分室に入った。陽光と照明で明るい室内には木製書棚がゆったりとした配置で並んでいる。中央のスペースは一般向けの図書コーナーで、奥の三分の一ほどは児童用図書コーナーになっている。一般書の中心は著者別の小説がメインの構成である。市には4つの図書館と6つの分室がある。これまでの他の図書館での利用実績のデータを踏まえた品揃えなのだろう。
 20分ほどかけてじっくり書棚を見て回った。何しろこれから長いお付合いの施設である。さすがに文庫本はなかったが、自宅で読む分には単行本でも問題ない。特に小説に関しては十分な所蔵数と思われた。五木寛之の「仏教の旅(ブータン編)」を借りることにした。先日読んだ「資本主義はなぜ自壊したのか」で作者が激賞していた国ブータンを好きな作家である五木寛之がどのように描いているのか。目にした途端、借入れを決めた著作った。
 カウンターに行き、貸出図書と持参の貸出券を提示する。貸出券は現役当時に利用した最寄り駅前の図書館で作成済みだった。市の全図書館共通のバーコード付きカードである。1回にひとり15冊2週間借出可能である。ネットで所蔵図書検索、貸出状況参照、延長申込み、予約等もできる。便利になったものだ。リタイヤ直後にオープンしたありがたい施設にあらためて感謝した。

篠山の里山で山菜採りに興じた2009年04月17日

 ご近所夫婦三組で山菜取りに出かけた。他の二組のご夫婦のこの時期の恒例行事に、今年は私たちも相乗りさせてもらった。トルコツアーをご一緒した旧知のご夫婦と私は初めてお付合いするご夫婦だ。10時に出発し2台のマイカーに分乗して176号線を篠山方面に向う。JR古市駅の手前で左折し、白髪岳、松尾山の案内看板のある辻を北上する。茅葺屋根が点在するのどかな里山の風景が広がっている。川沿いの空地に駐車し、6名のハイカー風の還暦前後の男女が行脚を始めた。しばらく行くと「松尾山・白髪岳案内図」の大きな看板が立っていた。松尾山から白髪岳を縦走するコース案内とその周辺の史跡案内である。看板のすぐ先を左折し白髪岳方面に向う。山道の左右に栗林が続いている。ここが丹波栗の産地だったと思い起こした。
 山菜取り名人たちに案内されてわらび採りスポットに到着した。羊歯類の枯れ草に覆われた山麓の斜面の一角だ。とはいうもののはじめは良く分からない。目が慣れるに従って、頭を折り曲げた薄茶色の産毛に覆われたわらびがあちこちに群生しているのが目に入る。初めて目にする野性のわらびの群生に心が踊る。根元から少し上のきれいに折れるところで摘むのがコツのようだ。空き地の枯れ草から覗かせているのはまだ若いわらびが多い。名人のアドバイスで低い樹木の林に分け入った。黄緑の長く伸びた茎を持つ大きなわらびが群れていた。ジャンパーを木の枝に引っ掛けながら夢中で摘んでいった。みるまにビニール袋を収穫したわらびが埋めていく。30分ばかりわらび採りに興じた。
 昼食場所を求めて白髪岳の中腹付近まで上ることになった。杉林の間を縫っている山道を、森林浴を楽しみながらの山登りである。葉桜になりかけの桜林の横を通り、ヘアピンカーブを過ぎると東屋風の休憩所があった。その横の小道を登ると何段かの砂防提が続く。上段の堤防の上に昼食に格好の平地があった。早速シートを敷いて昼食となる。曇り空とは言え久々の山登りが、心地よい汗を滲ませ、空腹を訴えている。持参の缶ビールがしみとおり、至福のひと時が訪れる。集合写真やスナップ写真で50数年前の童心に戻る。
 下山途中に突然現われた大きな蛇の姿に一同嬌声をあげる。出発地点の案内看板の所に戻った。ここから駐車地の反対方向の松尾山方向に向う。もうひとつの山菜・こごみ採りのスポットは300mほど先にあった。小川の岸辺の株の間に羊歯類特有の緑色の丸まった芽が覗いている。帰宅後ネット検索すると「草蘇鉄の若芽」とある。確かに蘇鉄のような姿である。こちらは群生とはいかない。しばらくして黒っぽい株を目印に見つけるのがコツと知った。川岸の苔むした岩に滑りそうになりながら、野性採集に明け暮れた縄文人の気分に浸った。
 マイカーに戻り、旧・今田町の天然温泉「ぬくもりの郷」に向う。平日ながら3セク経営の事業体の駐車場は一杯だった。入浴前に地元産品の物産館で野菜や佃煮の買物をし、出来立て豆腐や揚げたてのオカラ入りコロッケを味わった。本館のお土産コーナー奥に温泉入口があり、1人700円のチケットを購入。50分後の男女の集合時間を打合せ、ロッカーキーを受取って入場する。浴室は思いの他豪勢な造りだ。室内大浴場の他に二段に分かれた露天風呂が二つありサウナや水風呂もある。室内風呂、露天風呂、サウナをハシゴし、身体を洗っていつになくゆっくり過ごした。とはいえ元来がカラスの行水である。集合時間15分前に出て館内を散策する。4時半に全員揃って館内の軽食コーナーで寛ぐ。猪フランクをアテに呑む風呂上りの地ビールが堪らない。
 5時半には自宅のある住宅街の麓の貸し農園に着いた。二組のご夫婦はともに貸し農園仲間でもある。顔見知りのご近所さんも畑仕事に余念がない。マイカーを降りて雑談を交わす。知人のご主人から早速、ネギやワケギや筍を頂いた。山菜採り同行のご夫婦からもほうれん草を頂いた。初体験の山菜採りと天然温泉の癒しの一日だった。ご近所付き合いで相乗りさせてもらった小旅行が、最後まで恵まれた収穫に包まれて終了した。リタイヤ後のお付合いの輪がまた広がった。その日の夕食にはこごみのゴマだれ和えが、灰汁抜きに1日おいた翌日の夕食にはわらびのオシタシがビールのアテに供された。

久々の地域の歴史探訪2009年04月18日

 朝の散策を久々に地域の歴史探訪で過ごした。二日前にできたばかりの地元図書館で「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を見つけ借り受けた。マップにはこの地域の史跡だけでなく道標、石碑、供養塔、伝承地などが記載され、知りたかったいくつかの石碑の位置も記されていた。そんなわけで8時前から11時前までの3時間ばかりを探訪した。
 最初に訪ねたのは竹本多賀太夫という人物の墓碑である。ネット検索してみると明治初期の浄瑠璃の太夫のようだ。中国自動車道北側の側道から北に入った小道の先に農家の倉庫がある。マップの示す墓碑の位置はその庭先のようだ。着いた時折りよく倉庫から中年のおじさんが出てきた。早速、尋ねると、目の前の何基かの石碑指して、「このどれかの筈だ。この辺りは昔の宿場があった所で、この道が昔の街道だったと聞いている」と西に続く細い農道を指さした。確かにひとつの墓碑には竹本多賀太夫の文字がくっきり刻まれていた。画像を撮った後、教えられた旧街道を辿った。大阪と丹波を結ぶ大坂街道の一部であった平尻街道に違いない。残念ながらすぐ傍に造成されたゴルフ場の工事のためか北に500mほどいった所で行き止まりとなった。
 次に訪れたのは地元の氏神・公智神社に隣接する浄土宗の古寺・光明寺である。マップの示す西国巡礼供養塔の位置はここの境内と思われた。境内に入って眺めてみるがよく分からない。ほどなく庫裏から檀家参りに出かける様子の住職と鉢合わせた。来意を告げると山門前と納骨堂前の二つの石碑を教えてもらった。
 旧山口村の真中を走る旧街道と明治橋を結ぶ地点に「山口村道路元標」がある。大正8年(1920年)制定の旧・道路法で当時の各市町村に設置が義務づけられたのが道路元標である。今となっては1951年に西宮市と合併して消滅した旧・山口村の貴重な名残りである。
 山口中学と芽具実橋の間の道路際の植込みの中に「竹本加治太夫の墓碑」があった。どういう人物だったのかネットでもよく分からない。
 マップの位置から明徳寺の境内とおぼしきところに「夜泣き地蔵」が記されている。境内に入り捜してみると本堂南にそれらしき小さなお堂があった。本堂正面で掃除中だった住職に尋ねると、「この辺りでお地蔵さんはあそこしかない。恐らくあれが夜泣き地蔵でしょう」とのこと。しばらく雑談を交わしてお礼を言って辞した。帰宅後、私のHP・にしのみや山口風土記に有馬郡誌からの次の記述を記事にしたことを思い出した。『古、上山口庄屋、永年子なきを悲しみ、祈願せしに、忽ち美事なる男子を授かり、篤信奉祠せしを、明徳寺境内に遷祠せるものにして、夜泣き地蔵とも、道祖神(縁結地蔵)とも、お乳の地蔵ともいう』
 最後に訪ねたのが銭塚地蔵横の墓地だった。「竹本増太夫墓碑」と「西国巡礼供養塔」がマップに記されていた。墓地入口の「山口五郎左衛門時角の碑」のすぐ横に「竹本増太夫墓碑」があった。竹本増太夫については、江戸中期の延享、宝暦年間に江戸三座に出演した太夫ということらしい。供養塔はそれらしき碑文がなくどれか分からない。ただすぐ隣りに光明寺で住職から教えられた供養塔とほぼ同じ仕様の墓碑があった。確かめる人とていないがほぼ間違いないと画像に納めた。
 土曜の朝の価値ある散策だった。かねて確かめたいと思っていた石碑を一挙に目にして画像に納められた。お二人の住職からの証言も得られた。歴史探訪の達成感に浸りながら自宅に着いた。

娘の留学仲間との韓国ツアー2009年04月19日

 昨日の朝、娘が韓国旅行に出発した。友人たちとの個人ツアーのようだ。娘は2年前までカナダに1年半ほど語学留学をしていた。今回のツアーは当時の留学中の仲間と一緒だという。
 関東や中部地方にいる友人たちだ。今は日常的な付き合いがあるわけではない。なのに帰国後も交流が続いている。ある時、娘に「なぜそんなに付き合いが続くのか」聞いてみた。「留学中の付き合いは、密度が濃いからな~」という答が返ってきた。そういえば留学中の付き合いは何も日本人だけでなく、韓国や中国、中東、南米方面の留学生とも親交があったと聞いたことがある。
 娘は長い人生の一時期を、留学という貴重な過ごし方を送ったのだとあらためて思った。知人や友人が全くいない異国の地で、一からの人間関係を創るという体験である。孤独で不安な日常生活をスタートさせた留学生たちにとって、語学学校という共通の場が貴重な交流の機会を提供したに違いない。日常生活の過ごし方の得がたい情報交換の場であったことは想像に難くない。「密度の濃い」付き合いの中身に思い至った。
  
 3日前の篠山の山菜採りの小旅行をHPで記事にした。
 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-sasayama-sansaitori.htm

三人の義太夫・太夫の墓碑2009年04月20日

 二日前に地域の歴史探訪をした。地元図書館で西宮市教育委員会発行の「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を借り受けたことがきっかけだった。記載された地元の史跡や石碑には、私の知らなかったものもいくつかあった。それらを自身の目で確かめようと思った。
 興味をそそられたのは竹本○○太夫という義太夫の太夫とおぼしき人物の墓碑である。がわずか1.5kmの範囲に「多賀太夫」「増太夫」「加治太夫」の三人もの墓碑が記載されている。実際に現地を訪れて墓碑を目にした。三つの墓碑は、規模や仕様が驚くほど似通っている。
 何故、三人もの太夫の墓碑が至近距離で共通する形状でこの地に残されているのか?この地域にどんなゆかりの人物たちなのか?その謎に俄かに興味が湧いてくる。ネットで三人の名前や竹本義太夫のキーワード検索を試みると以下のことがわかった。「義太夫の太夫が芸名を名乗る際にはかならず竹本か豊竹を苗字とするようになった」「竹本増太夫は、延享~宝暦初期に江戸三座に出演した太夫」。このことから墓碑の竹本姓の三人の太夫が単に義太夫の太夫という共通項があるだけで同じ一門ということではないらしい事、竹本増太郎の活躍した時代が江戸中期の吉宗の時代だったという事がわかっただけである。彼らとこの地域との関わりを示すものは見つけられなかった。
 かすかな手がかりは、竹本増太夫の墓碑に隣接して西国巡礼供養塔があった事である。西宮市立郷土資料館ニュースのバックナンバーによると、この供養塔の傍に「西国巡礼供養塔 右は大坂 左は山道 寛政三年(1791)亥歳四月十八日同行九人」と記された道標があったとのことだ。またこの道標は「おそらく山口町の平尻より道場町平田へ通っている道の分岐点に建っていたものと思われます」とある。この分岐点とは竹本多賀太夫の墓碑が現存するところである。江戸時代には山口では西国三十三所巡礼を廻るのが盛んであったと伝えられており、西国巡礼と義太夫の太夫とのなんらかの関わりが推定される。
 こうして考えると三人の太夫とこの地域との関わりについての興味が尽きない。三人の墓碑を更に注意深く見てみよう。