五木寛之著「仏教への旅(ブータン編)」2009年04月28日

 今月16日にオープン間もない地元図書館を訪ねた。その際目にとまった五木寛之著作の「仏教の旅(ブータン編)」を即座に借り受けを決めた。最近読んで感銘した「資本主義はなぜ自壊したのか」で著者が激賞していた国がブータンだった。そのブータンを好きな作家のひとりである五木寛之がどのように描いているのか、興味深々だった。
 今日、250頁の単行本をようやく読み終えた。巧みな構成の著作である。「第1章:風の国へ」でブータンの特異な風土が語られる。「第2章:チベット密教の化身」でその特異な風土に根づいたチベット仏教とその本質とも言える「化身」について語られる。何といっても圧巻なのは「第3章:ブータン仏教の幸福」である。この著作のテーマであり結論が、ブータンを代表するオピニョン・リーダーでもある社会学者カルマ・ウラ氏の言葉を通して展開される。「第4章:日々の祈り」ではブータンでの様々な驚きと感銘を噛みしめるかのようにその余韻が伝えられる。起承転結!見事な構成である。
 第3章でのテーマについて触れてみたい。旅について「ブータンのことを知る旅は、同時に、日本について知る旅だ」という五木氏のコメントにウラ氏は「相手を通して自分を発見する旅」と応じる。6ヶ月間の日本滞在の体験を通してウラ氏が日本の印象が語る。「日本人の行動パターンは、非常に自制がきいている。こうすべきだ、ああすべきだ、という見えない規制が社会にあって、それにしたがっている人が多い」。これに対し五木氏が感じたブータンの全く逆の印象が述べられる。「そんなにあくせくしなくていいよ、おもいつめなくてもいいよ、というゆるやかな感覚だった」。ウラ氏は、それは人間関係にかぎらないという。「日本では、道路もきちんと舗装され、川もコンクリートで固めてしまう」。日本人の自然を規制する必然性の背景をウラ氏は「経済大国をつくるという一点から出てきている」と考える。「近代化ということでいえば、日本はたしかに、経済的な進歩を、成しとげたといえます。しかも、それは、太平洋戦争後のごく短い期間で達成されました」「戦後の日本人は、山の頂をめざしてひたすら登りつづけました。現在、日本は山の頂上に立っています。けれども、いざそこに立ってみると、これから何をしたらいいのかが見えない。、という状態なのではないでしょうか」「頂上に立つために、日本人は個人が努力しただけではなく、いわば兵隊としての組織をつくったのだと思います。・・・組織がつくられたことによって、個人は全員そこに属さねばならない、という結果になりました。そのなかでは、個人がこころの安らぎを求めるとか、個人が幸福を追求するということが、むずかしい状況になっているのではないでしょうか。日本は成功し、発展してきました。しかし、そのあいだに失ってきたものもありました。それは個人の充足感であり、あるいは自然であり、あるいは他の人たちとの人間関係だったのではないでしょうか」。私たちは数値化され、形象化されたものだけにこだわり、目に見えないものの価値や、目に見えない世界というものを見失ってきたのではないか。そのために、いま大きな壁にぶつかっているのではないか、と五木氏は考える。
 ブータン仏教についてのウラ氏の解説が紹介される。ブータンには現在も、「縁起(えんぎ)」と「業(ごう)」という二つの仏教的概念が生きつづけている。縁起は、すべてのものは相互関係にあるということだ。すべての生き物、すべての現象はお互いに依存しあい、関連しあっていま、ここにある。・・・こうした認識に立てば、自分だけの幸福を追求することは意味がない、ということに気づくだろう。・・・ただし、縁起によって物事がつながりあっていることはわかっても、ではどうすればいいか、ということは縁起からは引きだせない。そこで、ある行いをすれば、それに対する相応の結果が導きだされる、という「業」の概念が大事になる。
 ウラ氏は、とりわけ「縁起」を重視する。「一番大切なのは『個人』ではなく『関係』だといえます。・・・すべての現象は相互に関連して起こる、という本質的な認識こもとづいていえば、幸福ということも、個人だけではありえません。他者との関係のなかでしか、個人は幸福にはなれないのです。ウラ氏はこのように、あくまでも世界を「つながり」のなかでとらえようとする。「個」を重視する西洋的な思想とは対照的だ。・・・(ブータンの目指す進歩は)つながりのなかにある個人が幸福であることが、はっきり見えるような進歩だという。そのとき、人間関係のよしあしが社会の進歩をはかる指数になる。古来の仏教の思想である「縁起」という概念が、関係性の改善をめざすことによって、現代にこそふさわしいものの見かたに転じるのである。しかも、それが従来の西欧主導型モデルを超えるものとして、位置づけられている。
 ブータンが、世界各国から熱い視線を向けられているキーワード・国民総幸福量(GNH)についてもウラ氏の口から言及される。従来、ブータンのような発展途上国は、開発を進め、経済成長を目標に掲げ、GNPを拡大することが普通だった。GNPがあがれば国は繁栄し、国民も幸福になると信じられてきたからだ。しかし、それは西欧主導型の進歩のモデルなのではないか。仏教国のブータンには、それとはまったく異なる進歩のモデルがふさわしいのではないか。そのブータンで生まれた概念がGNHだった。GNPやGDPは物質主義を代表するものだ。つまり、”目に見える”指標だ。それに対して、GNHは国民の幸福というものを重視する。これは、いわば”目に見えない”指標である。・・・人口わずか60万人の国王親政の国が、これから近代化をはじめるというときに、GNH国家をめざそうとしている。
 ウラ氏はGNPなどの指標の弱点を様々に指摘する。GNPはあくまで、市場での商品とサービスの動きを測るものとして作られた。しかし、市場を通過せずに流通しているものが、社会にはたくさんある。自然保護などのように消費につながらないものに力を入れてもGNPはあがらない。ボトル入りのミネラルウォーターを飲めばGNPは増えるが、自然の川の水を飲んでも増えない。病気になって医療費がかかればGNPは増えるが、健康であれば増えない。ブータンの山村の物々交換の生活や、農家の自給自足の生活は経済統計の数値にはまったく現われない。主婦が家庭で一生懸命働いてもGNPは増えないが、外で働くようになってはじめてGNPはあがるのである。ウラ氏はこうしたGNPなどの指標の弱点を補ったうえで、それとは別の価値観を測る指標、それがGNHの概念だと考える。
 ブログとしては長すぎる引用だったと思う。私の心にしみとおる、引用せずには済まされない言葉の数々だった。ここ数年私を困惑させていた不可解で納得しがたい様々な事象についての「解」を得た想いである。行先の見えない暗闇のような心の旅路に一筋の光明を見た想いでもある。