三人の義太夫・太夫の墓碑2009年04月20日

 二日前に地域の歴史探訪をした。地元図書館で西宮市教育委員会発行の「西宮歴史散歩・案内マップ」という地図を借り受けたことがきっかけだった。記載された地元の史跡や石碑には、私の知らなかったものもいくつかあった。それらを自身の目で確かめようと思った。
 興味をそそられたのは竹本○○太夫という義太夫の太夫とおぼしき人物の墓碑である。がわずか1.5kmの範囲に「多賀太夫」「増太夫」「加治太夫」の三人もの墓碑が記載されている。実際に現地を訪れて墓碑を目にした。三つの墓碑は、規模や仕様が驚くほど似通っている。
 何故、三人もの太夫の墓碑が至近距離で共通する形状でこの地に残されているのか?この地域にどんなゆかりの人物たちなのか?その謎に俄かに興味が湧いてくる。ネットで三人の名前や竹本義太夫のキーワード検索を試みると以下のことがわかった。「義太夫の太夫が芸名を名乗る際にはかならず竹本か豊竹を苗字とするようになった」「竹本増太夫は、延享~宝暦初期に江戸三座に出演した太夫」。このことから墓碑の竹本姓の三人の太夫が単に義太夫の太夫という共通項があるだけで同じ一門ということではないらしい事、竹本増太郎の活躍した時代が江戸中期の吉宗の時代だったという事がわかっただけである。彼らとこの地域との関わりを示すものは見つけられなかった。
 かすかな手がかりは、竹本増太夫の墓碑に隣接して西国巡礼供養塔があった事である。西宮市立郷土資料館ニュースのバックナンバーによると、この供養塔の傍に「西国巡礼供養塔 右は大坂 左は山道 寛政三年(1791)亥歳四月十八日同行九人」と記された道標があったとのことだ。またこの道標は「おそらく山口町の平尻より道場町平田へ通っている道の分岐点に建っていたものと思われます」とある。この分岐点とは竹本多賀太夫の墓碑が現存するところである。江戸時代には山口では西国三十三所巡礼を廻るのが盛んであったと伝えられており、西国巡礼と義太夫の太夫とのなんらかの関わりが推定される。
 こうして考えると三人の太夫とこの地域との関わりについての興味が尽きない。三人の墓碑を更に注意深く見てみよう。