ダン・ブラウン著「天使と悪魔(上・中・下)」2009年04月24日

 3月25日に映画「ワルキューレ」を見た時の予告編のひとつに「天使と悪魔」があった。「『ダ・ヴィンチ・コード』から3年・・・。新たな歴史の謎が暴かれる」という刺激的なキャッチコピーとともに「イルミナティー」という気になる文字が映された。その後、書店で「映画化」と大書した帯を巻いた角川文庫の「天使と悪魔」が並んでいるのを目にした。読んでみたいという衝動に抑えられなかった。
 世の中には「陰謀史観」というものがあるようだ。「歴史上の出来事はある特定の個人や団体の陰謀によって起こされたとする陰謀論」の立場で世界史を解釈することらしい。私が初めて陰謀史観なるものに出会ったのは数年前の米国出張の時だった。同行してもらった現地の日本人コンサルタントから「イルミナティー」という秘密結社の存在を聞かされた。本気で信じているらしい彼の口から様々な歴史上の出来事の背景説明が語られ、一種のカルチャーショックのような気分を味わった。その後、私の知人のひとりも独自にそうした研究をしていることを知って、「陰謀史観」の意外な裾野の広さに驚いた。
 さて「天使と悪魔」である。物語の骨格は、「16世紀に創設された科学者たちの秘密結社”イルミナティー”」とローマ・カトリックの本山ヴァチカンとの闘いである。こういえばあたかも陰謀史観に立った物語のように聞こえるが実際はそうではない。秘密結社は謎解きの味付け役として登場するものの存在の有無は語られない。むしろ個人的には「宗教と科学の対立・葛藤」という壮大なテーマが見事に描かれていると思った。
 下巻冒頭の前教皇侍従・カメルレンゴが枢機卿たちとテレビカメラをとおして世界に語りかける場面は圧巻だった。教会に向けられた攻撃に対するイルミナティーと科学者たちへの捨て身の訴えとして語られている。
 「あなたがたは戦いに勝ったのです。・・・科学こそが新たな神です。・・・医療、電子通信、宇宙旅行、遺伝子操作・・・いまやこういった奇跡こそ、子供たちに語り聞かせられています。・・・けれども、科学の勝利は、わたしたちひとりひとりに犠牲を強いました。それも、非常に重大な犠牲です。・・・略・・・。私たちを結びつけるはずのテクノロジーさえ、逆に分断しています。誰もが電子的に世界とつながっているにもかかわらず、強い孤立感を覚えています。そして、暴力、差別、断絶、裏切りと言ったものに苛まれているのです。・・・歴史において、人間がいまほど抑圧され、萎縮していた時代がないことには、疑問の余地がありません。・・・略・・・科学は、生まれてもいない胎児を調べて答を導き出そうとする。遺伝子さえも組み換えようとする。意味を探求するあまり、神の世界をどんどん細かく切り刻み・・・あげくの果てに、見つかるのはさらなる疑問ばかりなのです。・・・略・・・あなたがたの勝利です。ただし、あなたがたは、答を示して勝ったわけではないのです。人間社会を急激に別の方向へ差し向けることで勝利し、そのために、私たちが指針としてきた真実を骨抜きにしてしまいました。宗教は追いつくことができません。・・・略・・・科学とは、どんな神なのでしょうか。民に力だけを与え、その使い方に関する倫理の枠組みを示さないというのは、どんな神でしょうか。」
 宗教と科学の対立は、実は私たち自身の心の中の葛藤でもある。時に科学の恩恵に感謝し、時に宗教の倫理観に立ち返る。ダン・ブラウンの上記のメッセージはそうした現代人の心の襞に染みとおる名文である。1時間刻みに4人の次期教皇有力候補を殺害し、その果てに核を越える爆発力を持つ反物質でヴァチカンを吹き飛ばすというタイムリミット・サスペンスとしてのドキドキ感にも成功している。観光歴史都市ローマを舞台にした展開は、4年前のローマ観光の思い出を呼び起こす格好の観光サスペンスでもあった。この作品のそうした多くの愉しみ方以上に、「宗教と科学」について考えさせられた作品だった。