三人の義太夫・太夫の墓碑探訪2009年04月21日

 昨日のブログを綴りながら、三人の義太夫・太夫の墓碑の謎に嵌ってしまった。熱しやすく冷めやすい生来の性格はどうしようもない。思いこんだら百年目である。今朝の散策コースは三人の墓碑の再探索以外にはありえない。
 最初は中国自動車道北側の「竹本多賀太夫塚」だ。今朝も農作業小屋の庭先を訪れると小屋から出てきた70歳前後のおじいさんに出会った。ラッキー!早速、疑問をぶつけてみた。「この辺りは昔の大坂街道の一部だった平尻街道の分岐点のあったところですか」「そう、ここは小字は平尻と言っていた所で、この小屋はその頃は街道筋の茶店だった。旧街道はあの向こうの山の谷間を通り、山中を縫って道場平田の宿まで繋がっていた」と知りたかったことを一挙に教えてもらった。「子供の頃は、名来の村で道刈りをしていて、その街道を行き来していたもんだ。今は通れなくなってしまったが」「その三つの墓石も、わしのじいさんとばあさんが倒れていたのを二人で起こして据え直したものだ」
と多賀太夫塚の横の「宇滴宋圓」の文字が刻まれた墓石と「蝸牛」の文字が辛うじて判読できる墓石を指さした。いずれの墓石も建立の年号は見当たらない。この地の所有者でしか語れない貴重な情報に感謝して辞した。
 次に訪れたのは銭塚地蔵横の墓地だ。「竹本増太夫塚」と「西国巡礼供養塔」が並んでいる。増太夫塚には天保6年(1836年)の、供養塔には安政4年(1858年)の文字が刻まれている。増太夫はネット検索で1750年代に江戸三座に出演した太夫とわかった。とするとこの塚はその死後100年ほど後に建立されたものと思われる。
 最後の山口中学校近くの「竹本加治太夫墓」には年号らしきものもなく、かすかに残る文字も判読不能だった。
 かくしてこの地に残る三人の義太夫・太夫の墓碑の再探索は一旦終了した。依然として彼らのこの地との関わりは謎のままである。推理小説の謎解きの如き旅路が続いている。