藤沢周平著「彫師伊之助捕物覚え・消えた女」2012年03月18日

 藤沢周平の異色の時代小説「彫師伊之助捕物覚え・消えた女」を再読した。元凄腕の岡っ引・彫師の伊之助が十手を持たない一職人の身で難事件に挑むという物語である。
 この作品の直前に同じ作者の「神谷幻次郎捕物控・霧の果て」を読んだ。こちらは一話完結の8編の短編捕り物帖であるのに対し、「消えた女」は、事件の鍵を握る個性豊かな人物が次々に登場し、それに応じて事件の真相が徐々に明らかになるという物語性のあるスリルに満ちた長編である。
 この作品をアメリカのハードボイルド風探偵小説になぞらえた作家・長部日出雄の「解説」も説得力があった。両者のいくつかの共通項をあげながらこの作品を解説してみせる。ひとつは「心意気(ダンディズム)」である。いっさいの権威や権力の保護を排して身を危険に晒して挑んでいく。つぎに「潔癖性(ストイシズム)」。伊之助は世間の法律とは別の自分だけの法律を持ち、それを頑なに守ることにすこぶる潔癖で厳格だ。こうした共通項の指摘をハードボイルド派探偵小説の模倣ということでなく、むしろこの作品の持つ典型的な時代小説の枠におさまりきらない普遍性を帯びた作品として取上げているのである。その延長線上で藤沢周平の次の言葉を紹介する。
 「時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい。ただし人情といっても、善人同士のエール交換みたいな、べてべたしたものを想像されるにはおよばない。人情紙のごとしと言われた不人情、人生の酷薄な一面ものこらず内にたくしこんだ、普遍的な人間感情の在りようだといえば、人情というものが、今日的状況の中にもちゃんと息づいていることに気づかれると思う」。けだし名言である。