「ゼロ成長社会」にカジを切れ!2014年07月06日

 学生時代からの友人からメールを貰った。アベノミクスを読み解く上での情報「蜂谷隆ブログ」の水野和夫著「資本主義の終焉と歴史の危機」の書評の紹介だった。http://blog.livedoor.jp/tkhacchi/archives/38089809.html
 書評を読んで驚いた。「目から鱗」の想いがよぎった。アベノミクスを世をあげて歓迎している観がある。デフレ脱却と称して物価上昇を煽る政策はどこか違う、何かおかしいと思っても、なんとなく景気や雇用が回復しているかのような雰囲気の中で声にならない。そんな気分の中で目にした記事だった。以下、ポイントを紹介する。
・資本はフロンティアを広げながら利潤率を高め、自己増殖を推進していくものだが、BRICsなど新興国の登場で、そのフロンティアがなくなってきているので、行き詰まっている。ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレがこれを証明しているという。
・無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中、しかも圧倒的多数の中間層が没落する形で現れる。人々を豊かにするための成長政策は、逆の結果を生むというのだ。アベノミクスなど世の中に蔓延する「成長教」に対して鋭く批判している。
・資本主義システムが終わりに近づいている今日、「脱成長モデル」の必要性を唱えている。「ゼロ金利、ゼロ成長、ゼロインフレ」が長く続く日本は、「定常状態」(「ゼロ成長社会」)に最も近いところにいる。このアドバンテージを生かして「ゼロ成長社会」にカジを切れと主張している。
・「より速く、より遠くへ、より合理的に」という近代資本主義を駆動させてきた理念もまた逆回転させ、「よりゆっくり、より近くへ、より曖昧に」と転じなければなりませんと述べている。
 著者の水野和夫氏 (日本大学教授・経済学) は、別の対談で以下のように発言している。
・今の日本に「成長」の余地はあるのでしょうか。(略)ほとんどの商品は、行き渡るところまで行き渡ってきています。「フロンティア」は残っていません。飽和状態の中で無理やり成長しようとすれば、バブルが生成されます。(バブルで)得をするのは、その間に稼いだ1%の富裕層です。たとえバブルが崩壊しても、公的資金で救済されるため、彼らの痛手は小さい。一方で何ら恩恵を受けていない中間層は、リストラされて職を失った上で、救済のための負担を強要されます。富裕層はまんまと逃げ切り、99%がバカを見る。それが「成長」の帰結です。
・投資が行き渡った現在、高度経済成長の再来は望めません。成長は近代の病気です。「頑張れば成長する」は幻影に過ぎない。取り憑(つ)かれるとひどい目に遭うのです。このままアベノミクスを続ければ、日本という国家も経済も立ち行かなくなるでしょうね。

 「定常状態」という言葉が気になりネット検索した。真っ先に引っかかったのが、広井良典『定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』(岩波新書)という書籍だった。「定常型社会」とは「(経済)成長ということを絶対的な目標としなくとも十分な豊かさが実現されていく社会ということであり、ゼロ成長社会といってよい。著者は次のように語っている。
 『なぜ「定常型社会」なのか?基本的には、経済成長の究極の源泉である需要そのものが成熟ないし飽和状態に達しつつある、ということであるが、関連する重要な要因として次の2点がある。
 第一は、高齢化ないし少子化という動きと不可分のものとして、人口そのものが2007年をピ-クに減少に転じたということである。このこと自体、明治期以来わが国が百数十年ぶりに初めて経験する現象だ。 第二は、環境問題との関係である。資源や自然環境の有限性が自覚されるようになり、経済活動それ自体の持続性ということを考えても、経済の規模の「定常性」が“要請”されるようになった。 このように、定常型社会とは実は「高齢化社会」と「環境親和型社会」というふたつを結びつけるコンセプトでもある』

 久しぶりに知的好奇心に駆られた。紹介した二冊の書籍を読みたいという欲求がどこまで持続できるか分からないがノミネートしておく意味でもブログに綴った。