NHK連続テレビ小説「おひさま」2011年10月01日

 NHKの朝の連続テレビ小説「おひさま」が終了した。いつの頃からかこの番組はずっと観続けている。観はじめた止められない習慣化する番組である。お気に入りの作品もあるがそれほどでもないものもある。それでも比較的当たり外れの少ない安心して観ることができる番組であることが習慣化させるのだろう。
 さて「おひさま」である。昭和20年の太平洋戦争終戦という過酷な時期を挟んで戦中戦後を生きた女性たちの物語だった。終戦直後に娘を出産したヒロイン陽子の世代は、ちょうど私の母親の世代に重なる。娘の日向子が眺めた時代風景は私自身の風景でもある。日本の原風景の残る安曇野という美しく穏やかな街を舞台に繰り広げられる郷愁を誘うドラマだった。
 NHKのこの番組ならではの豪華な配役陣だった。寺脇康文、原田知世、樋口可南子、平泉成等の手堅い脇役陣の中で、育子役の若い満島ひかりの存在感が印象的だった。ヒロインの井上真央はそれなりに頑張っているとは思ったが、インパクトに欠けどこか地に足がついてない感じがついて回った。
 若尾文子と斉藤由貴のかけあいによる「語り」は正直いただけなかった。斉藤由貴のオーバーアクション気味の演技とも相まってドラマの世界からいきなり引き離される展開はどうにも違和感があった。

久々のカワセミだった2011年10月02日

 早朝のウォーキングに出かける時、デジカメを持参するかどうかで一瞬迷うことがる。結局その時の気分で決めることになる。今朝もなんとなく持参することにした。これが正解だった。
 有馬川の土手道を歩いていた。ついつい川面を眺めてしまうものだ。シラサギやマガモやセキレイなどの野鳥たちの姿に癒されるから。視線の先に鮮やかなブルーが飛び込んだ。カワセミだ!ほんとに久しぶりに目にした姿だった。今日なんとなくデジカメを持参したのはこのためだったのか。今朝の直感に感謝した。
 敏感過ぎるカワセミは、少しの気配にも一瞬で水平飛行の鋭い飛翔に移ることを過去の経験が教えていた。瞬間的に歩くのをやめていた。ポケットからデジカメをそっと取り出し最大ズームにしてフォーカスした。何とか二度シャッターを切った後、そっと足音を忍ばせて近づいた。私の魂胆を見透かしたかのようにカワセミはあっという間に飛び立った。

HP「梼原町の旅」の案内メールの嬉しい返信2011年10月03日

 昨日、先週末の「西宮市の友好都市・梼原(ゆすはら)町との提携20周年記念のバスツアー」の旅日記をHP「にしのみや山口風土記」にアップした。初日 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-yusuhara-hudoki.html と二日目 http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/tabi-yusuhara2-hudoki.html に分けて二つのサイトになった。
 旅先で多くの人たちと交流した。名刺を頂いた方もあり、メールアドレスのある方でHP「旅日記」を読んでもらいたい方に早速メールでご案内した。市の職員の方、梼原町長、農家民宿・きょうちゃんちのおかみさん、ツアー仲間などである。残念ながら、きょうちゃんちはアドレス変更になったのかエラーメッセージが返された。
 空けて月曜の今朝、早速返信第1号があった。なんと!梼原町長からだった。次のような概要のメールだった。「素晴らしい記事を掲載いただいておりますことに感謝いたします。短時間のポイントだけの説明だったと思いますが、そうしたなかで実に詳細に様々な視点から本町のことを捉えていただいます。自分にとりましても学習の一つとなりました」。
 続いて、ツアーの責任者でもあった市の局長からも「写真つきで丁寧にまとめていただき、楽しく読ませていただきました。本市の梼原との交流を広くPRするものであり、重ね重ねお礼を申し上げます。秘書・国際課の職員をはじめ、関係職員には伝えておきました」との返信メールを頂いた。
 責任ある立場にあるお二人からの嬉しいメールだった。拙いHPでもお世話になった梼原町や市と梼原町との交流に少しばかりでもお役に立てたと自己満足した。

遠山美都男著「大化改新」(その5:クーデターの背景と真相)2011年10月04日

 表題の書籍の第Ⅳ章「検証・乙巳の変--発生と展開--」を読んだ。著者は「中大兄と鎌足を中心とした『乙巳の変』というクーデターとその後の『大化改新』の実行」という通説に対し次の点から反論した。即ち「十代後半だった中大兄に王権継承資格があったとは到底考えられない」「鎌足の次男・不比等の代から始まる王権と藤原氏の特殊な関係から、改新当時の中大兄と鎌足の主従関係は想定できない」と論じ、その上で直後に即位して孝徳天皇となった軽皇子こそ「乙巳の変」の中心人物だったと断じる。前章までのこうした展開を踏まえて、第Ⅳ章では著者の独自の視点から「クーデターの背景と真相」が語られる。
 事件の背景には推古帝以来の二人目の女帝である皇極帝の王権譲位問題があったと論じる。本来、王権継承時の混乱防止の安全弁であった女帝の役割りが、推古帝の予想外に長期化した在位によって、有力後継者たちが相次いで早逝し、混乱を招く結果となった。この二代前の女帝の王権継承時の混乱を受けて、皇極帝は即位当初から「譲位」という重い課題を負っていた。即位当時、有力な皇位継承者には四人の皇子がいた。厩戸皇子(聖徳太子)の長子・山背大兄王、皇極帝の同母弟・軽皇子、舒明天皇の皇子で唯一の蘇我氏の血を引く古人大兄皇子、古人大兄の異母弟・中大兄皇子である。
 皇極二年(643年)、古人大兄を擁する蘇我入鹿の勢力と軽皇子を擁する勢力が山背大兄王を襲い自害に追い込む。支配層内の両勢力による譲位に向けた第一歩であった。これにより当時王権継承には若すぎる中大兄を除けば譲位の対象者は軽皇子と古人大兄皇子の二人に絞り込まれた。次に予定されたのは、両派のいずれがどのように皇極帝から譲位を受ける条件をつくり出すかということだった。それは軽皇子派によって巧みに先手を打たれることになった。
 以下は、著者の語る乙巳の変の顛末の概要である。「皇極四年(645年)6月12日、古人大兄と蘇我入鹿は皇極帝から飛鳥板蓋宮に招集を受けた。二人が「大殿」に入ると突如数名の刺客が殺到し入鹿は惨殺される。かろうじて虎口を脱した古人大兄は宮のある大市に逃げ帰る。古人大兄を取り逃がしたものの、入鹿殺害に成功したクーデター派は、皇極帝と軽皇子を伴い飛鳥寺に入り本陣とする。入鹿の父・蝦夷は反撃の旗印となる古人大兄との連絡すらとれないまま甘橿岡の邸宅で支持勢力による武装を強化する。クーデター派は将軍・巨勢臣徳太を甘橿岡に派遣し、古人大兄が起つ気配のないことを強調し蝦夷援護の無益を力説する。蝦夷陣営は動揺し離脱するものが続出し、あっけなく軍陣は瓦解する。翌13日、古人大兄は飛鳥寺でクーデター派の見守る中、髪を落とし出家する。古人大兄の出家という決定的な報を聞き、蝦夷は一族もろとも自決する。翌14日早朝、皇極帝と軽皇子は飛鳥板蓋宮に戻り、予定どおり軽皇子の即位礼を執り行った」。
 著者は、この「乙巳の変」が我が国の王権争奪という支配階級の権力闘争の歴史の原形とみる。平治の乱で平清盛が後白河上皇を源義朝から奪い返すことで逆転勝利したこと、都落ちを余儀なくされた平氏一門が幼い安徳天皇を擁したこと、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が「錦旗」を前に無残な敗北を喫したことなど、「玉」の争奪をめぐる権力闘争の原形である。それは「乙巳の変」が、その直後に行われた「大化改新」という国政改革を目的としていたという「書紀」の記述にもとづく通説への反論の有力な根拠でもあった。

深秋2011年10月05日

 今日も話題は早朝散策の風景である。有馬川の土手道を北に向かった。中国道の高架下をくぐると、一気に視界が広がる。有馬川東側の名来の稲田が目に飛び込んでくる。この舞台装置の鮮やかな四季折々の転換が好きだ。
 今朝の舞台は深秋がテーマである。畦道の縁を覆う草叢から薄茶色のススキが今を盛りと穂を靡かせている。すぐ傍らで野生の柿の木が熟れ頃の実を枝先にたたわにつけている。背景を刈り入れを終えた稲田の黄色い無数の切り株が埋めている。名来の丘陵の濃い緑が雲のかかった高い青空と黄色い稲田を分けている。
 深秋の一幅の日本画にも似た風景を切り取った。

遠山美都男著「大化改新」(その6:事件を生みだした国際情勢と国内事情)2011年10月06日

 表題の書籍の結章「『乙巳の変』のあとにくるもの」を読んだ。非常に興味深い二つの記述があった。ひとつは事件を生みだすことになった当時の東アジア情勢について論じたものだ。今ひとつは我が国史上初めての「譲位」を実現させた背景に大王への貢納・奉仕の関係の質的転換という国内事情があったという指摘だ。
 当時、東アジアは次のような情勢にあった。「唐と高句麗の対立は全面戦争の危機をはらみ、開戦前夜の国際的緊張は、朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)で頻発する政変と内乱となってあらわれた。そうした激変する国際情勢に対応し、国内の支配層を強力に結集できる人格・資質を備えた大王の擁立は支配層全体の念願するところだった。(略)譲位が予定されている女帝は不安定極まりない存在だった。(略)しかるべき人物を大王に立てることが、東アジアの動乱の中で支配層全体の利益を守り抜く唯一の道だった」。クーデター決行の背景のひとつに当時密接に繋がっていた東アジア諸国の情勢がもたらす危機感を指摘したもので説得力のある論旨だった。
 一方で著者は「乙巳の変」は我が国で初めて「譲位」を実現したという点で王権継承の歴史上、画期的なできごとだったと指摘する。「従来、大王によって継承される王権の内容は、大王に対する個々の貢納・奉仕関係の集積だったため、これらを個々に大兄や大后に分掌させることはあっても、一括して他者に委譲することは困難だった。ところが、譲位を企画・構想できたということは、大王に集中された貢納・奉仕の諸関係を大王生存中に大王から引き離し、他者に委譲することが可能になっていたとことことを意味するのではないか。それは、貢納・奉仕の諸関係の集合体である伴造・部民制自体が制度的に発展の極に達し、その内部改革なくしては存続が困難になっていたことを窺わせる」。譲位実現の背景に当時の経済構造という政権基盤そのものの変化を見据えた指摘もまた納得性の高い論旨だった。
 著作の最後の文章もまた印象的だった。「『乙巳の変』の前後、列島各地の首長層の頂点に位置する王権は、伴造・部民制の解体を迫られていた。王権は、伴造・部民制を構成した各級首長層の階級的な利害を調整し、彼らを領域的に編成していくことを通じ、首長配下の農民個々人に対し、初めて本格的に支配の手をのばし始めたのである。七世紀末には「治天下大王」改め『日本天皇』が、首長配下の農民一人一人の前に、はじめて、その姿をあらわすことになる」。著者が著作の中で天皇のことを一貫して「大王」と記述していた所以であった。それはあくまで史実を追い求め客観性というスタンスに徹する学者としての矜持を思わせた。
 300頁の新書版の著作を二度読み返した。歴史学というジャンルの本質の一端を垣間見た気がした。唯一心残りは、第三章の末尾に「クーデターの中心人物だったはずの軽皇子が、なぜ主役の座から転落したのか。その回答もクーデターの発生と展開を検証し、『乙巳の変』の史実を引き出すことによって得られるはずである」として、その興味深いテーマを次章に振られたものの、第四章ではどこにもその回答を得られなかった点だった。

二組の彼岸花の出合い2011年10月07日

 有馬川の川沿いの土手の斜面で彼岸花がまだ頑張って花弁を拡げていた。花弁を朝露が白く縁どっていた。そのみずみずしい風情に引き寄せられるようにシャッターを切った。そしてふと思い出した。二週間前に高知県梼原町で見かけた白い彼岸花を。
 梼原町で迎えた二日目の朝だった。農家民宿の心地良い目覚めの後、朝食までのひと時を散策し、里山の風景を愉しんだ。棚田の石垣沿いに数輪の白い彼岸花が咲いていた。それほど珍しくないのかもしれないが、私には初めて目にした色だった。
 我が町の川沿いに咲く赤い彼岸花と四国の高地の里山に咲く白い彼岸花。遠く離れたそれぞれの棲み処で、それぞれの存在感を主張していた二組を画像にして並べてみた。なぜかそんな二組が同じ空間で出合ったかのような錯覚を覚えた。

奥さんの買物2011年10月08日

 娘が嫁いで半年近くになる。夫婦二人の老後生活も板についてきた。夕方定刻に毎日のように携帯で交わしていた母娘のおしゃべりもさすがに間が開いてきた。二人だけの生活の実像が徐々に輪郭をあらわしてきた。
 夕食の食卓では夫婦だけの会話がいやでも交わされる。昨晩の話題は「奥さんの買物」だった。二階の納戸に仕舞い込まれていた電位治療器が、奥さんの手で夕方にリビングに復活した。何十万もした奥さんの高い買い物だった。購入後一カ月ばかりで飽きてしまって埃をかぶっていたシロモノだった。知人の誰かとのおしゃべりで再び日の目を見ることになったようだ。
 そんな出来事のあった昨晩の夕食での二人の会話だった。亭主の方から切り出した。「買い物好きの君も(ここはあくまで上から目線の呼びかけである)色々買物をしたけど失敗も多かったな。そやけど一つだけ最高の買物をしたんやで」。一呼吸置いて奥さんが答えた。「お父さんのことやと言いたいんやろ!そやけどそれはお互いさまやで」。(ムムッ!オヌシできるな)。
 夫婦も40年以上やってると、お互いの腹の内は言わず語らずの領域が広がってくる。ヤッパリ夫婦二人の老後生活も板についてきている。

子供たちの迫力ある競技2011年10月08日

 昨日の昼過ぎに住宅街の小学校の運動会にかけつけた。午前中は市の郷土資料館で歴史調査団の定例会があった。予定時間をオーバーした研修の後、石造物木曜班のメンバーと山口での合同調査の日程調整を済ませて資料館を飛び出した。11時20分阪急夙川駅発のやまなみバスに何とか間に合った。鷲林寺手前の道路工事による片側通行で最寄り駅の下山口には大幅に遅れて到着した。
 地元小学校には大勢の父兄がグランドの周囲を埋めていた。案内された来賓席にも思いの外多くの来賓たちの姿があった。おりしも午後の第1種目の5・6年生男子による騎馬戦の真っ最中だった。実はいつもは午前中だけの観戦で、午後1番の騎馬戦は初めての観戦だった。過保護のご時世で騎馬戦のような競技が生き延びているとは思わなかった。それだけに何十年振りかの騎馬戦のハラハラ感にときめいた。
 3・4年生全員が演じたソーラン踊りもなかなかのものだった。いかにもイマドキの種目である。リズム感と躍動感あふれるダンスが元気のある掛け声とともに目の前で繰り広げられる。子供たちのリズム感や音感は小さい頃から音楽に親しんで育ってきた世代のものにちがいない。私たちの世代との距離感を覚えずにはおられない。
 運動会の華は何といってもリレーである。全学年でリレーがある。来賓席前で繰り広げられるバトンタッチに思わず手に汗にぎってしまう。
 久々の運動会に心を空っぽにして最後の閉会式までつき合った。

娘夫婦と秋祭り見物2011年10月09日

 昨日は公智神社神社の秋祭りだった。おりしも一昨日から娘が婿殿と一緒に冬物衣料を取りに帰ってきていた。この町で育ちながら娘はまだ一度も秋祭りを見ていないという。「絶好のタイミングで帰省したんやな」と秋祭り見物に誘った。婿殿にも娘の育った町の祭りを知ってほしいと思った。二人とも興味を示し一緒に出かけるという。
 2時前に一人先乗りして御旅所に着いた。既に下山口や名来の壇尻は御旅所前の旧街道に到着している。御旅所では神事が終わり休憩中だった。秋祭りの主役である「天狗さま」から突然声をかけられた。去年、公民館講座でお世話になった講座の責任者が今年の天狗さまだった。御神輿を背景に一緒に写真を撮ろうと誘って頂いた。喜んでデジカメにおさまった。秋祭りは地域交流の場でもある。新旧両地区の知人たちとあちこちで挨拶し雑談した。
 2時半頃に娘夫婦が家内に連れられて御旅所にやってきた。見物中だったご近所の奥さん、娘さん、二人の幼いお孫さんと合流する。待機していた下山口の大壇尻が御旅所横の参道を出発した。小壇尻も後に続く。ここで7人のご一行を連れて一足先に公智神社境内に移動する。お祭りのクライマックスである7基の壇尻の宮入りを待ちうけるためだ。
 境内は既に大勢の参詣者で埋められている。最高のビューポイントの拝殿前の階段には、鈴なりの見物人が手に手にデジカメを構えて待ちうけている。待つほどにようやく準備が整った。スピーカーからは各地区の壇尻ごとに宮入りの様子の解説が流れる。境内中央でフラッガーの旗が振り下ろされた。鐘太鼓のお囃子のテンポがあがり目の前を下山口大壇尻の雄姿が通過した。40分ほどかけて各地区7基の壇尻が次々と宮入りを済ませた。これまで何度もこの秋祭りを見物しホームページでも詳細に記事にした。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-09akimaturi-honban.htm いっぱしの秋祭り解説者を気取って一同にその都度コメントしたりした。ご近所の奥さんの可愛い孫二人を眺めたりあやしたりしながら、フトいつ娘夫婦は孫を連れて壇尻見物に来てくれるのだろうと思ってしまった。