鎌倉幕府の執権・北条時頼と鎌倉峡2021年12月30日

 高橋克彦作品の再読が続いている。今は「時宗・全四巻」の第2巻を読んでいる。第一巻に続いて主人公は時宗の父・北条時頼である。第5代執権として盤石の執権政治を確立し幕府の結束を固めた人物である。ところが疫病に罹り30歳の若さで執権職を辞した後、最明寺で出家し最明寺入道と称した。出家した後、蒙古襲来の情報も念頭にその備えのためもあって全国を行脚して回ったという。
 山口町の北の端に隣接する神戸市北区に関西屈指の渓谷・鎌倉峡がある。2008年に地元のスポーツクラブ21の鎌倉峡とその一角にある百丈岩のハイキング・イベントに参加した。鎌倉峡入口には茶店がありその前に「西明寺入道 北条時頼公遺跡」と刻まれた石碑があった。その時は「へ~!鎌倉幕府の執権だった人物がこの地を訪れたんだ」という感想とともに、鎌倉峡という名称が鎌倉幕府ゆかりの人物の滞在にちなんだことに興味を持った。
 今、「時宗」を読みながら、蒙古襲来を迎え撃った英雄・時宗の父・時頼の事績を辿っている。作者は、時頼の全国行脚が蒙古襲来を前にした全国の実情把握の意味があったと指摘する。蒙古襲来という未曽有の国難を迎え撃ったのが鎌倉幕府の執権政治だったことは幸運だったと思える。平安時代でもなく室町時代や戦国時代でもない権力基盤が固まった鎌倉時代だったからこそ乗り切れたと思える。それを可能にしたのは外ならぬ時頼だったのだ。
 あらためて鎌倉峡に建つ「北条時頼公遺跡」の意味合いを噛み締めた。