山口ホールのゑびす寄席2011年08月01日

 昨日の午後、山口ホールで開催された「ゑびす寄席」に出かけた。西宮在住の落語家たちによる出前寄席である。4年前の北六甲台自治会館での出前寄席以来毎年足を運んでいる。出演者の内、主要な四人は四年前と同じ顔ぶれである。山口ホールができて以降は会場はこちらに移動した。
 2時前の会場には120名ほどの観客が開演を待っていた。そのほとんどが年配の男女だが中に子ども連れの若いファミリーもいる。中入りを挟んで2時間半の高座だった。率直な感想は少々物足らなかったというところか。
 笑福亭喬介、笑福亭瓶生、笑福亭純瓶、笑福亭三喬と続いて、中入り後に笑福亭恭瓶、大トリを露の団四朗がつとめた。三喬、団四朗の実力派二人を除いた若手四人の力不足は否めない。夏バテ気味の寝不足に居眠りを誘われてしまった。
 問題は実力派二人高座だった。三喬は4年前の高座の出し物「ぜんざい公社」で大いに笑わせられその力量に一目置いていた噺家だった。今回の出し物「家見舞い」はネタそのもののつまらなさもさることながら、三喬の噺しぶりにも持ち味のとぼけた味が伝わらない。
 大トリの団四郎もゑびす寄席や神戸セミナーハウス寄席でもお馴染みの噺家だ。軽妙な語り口と絶妙の間の取り方、豊かな表情、体全体での表現力など好きな噺家のひとりだ。今回の出し物「皿屋敷」は講談風の噺しで笑いの中に怖さを演じる力量が問われる。その話しぶりはさすがと思わせるものが随所にあるが、落語本来の笑いには馴染まない展開という気がしないでもなかった。
 総じて今回のゑびす寄席は、出し物の不満もあって消化不良のまま終了した感が強かった。

復刻版日記24「土砂降りの蝉の声」2011年08月02日

 猛暑の早朝散歩道でかしましいクマゼミの鳴き声を耳にした。その騒がしさに数年前の現役時代の通勤途上の光景を思い出した。その印象的な光景をHP日記で綴ったものだ。

 『ウォーキング通勤の効用のひとつに、季節の移ろいを肌で感じられる楽しさがある。8月はじめの夏真っ只中の通勤途上でのひとコマである。通勤経路の商店街の路地を入った所に200坪足らずの児童公園がある。狭い公園の周囲を、広葉樹の緑の葉っぱが覆っている。早朝7時頃だった。その公園にさしかかった途端、私の耳に土砂降りの蝉の声が一斉に降り注がれた。何しろ周辺は下町の人口密集地域である。この公園以外に付近に緑地はない。近辺に生息するあらゆる蝉がこぞってこの公園の合唱コンクールに参加したとしても不思議でない。
 それにしてもなんという騒々しさだろう。「ミーンミーン」というアブラ蝉の合唱が醸し出す「蝉しぐれ」の情緒には程遠い凄まじさである。クマ蝉の「シャーシャーシャーシャー」というバケツをひっくり返したような騒がしさである。とはいえこの真夏の風物詩がもたらす自然騒音に、ある種の心地よさを感じていたのも否定できない。
 公園沿いの通路脇の樹に、甲高い鳴き声を発しながら取り付いている一匹のクマ蝉が目に入った。手を伸ばせば届く位置である。私の足音は聞こえている筈のくだんの蝉は、大胆にも鳴き声を止める気配はない。子供の頃の光景が蘇えった。我が物顔に羽を震わせている蝉の背後から、足音を忍ばせ網を近づけた。網が蝉のバリヤーに踏み込んだ途端、必ず鳴き声がピタッと止んだ。狼狽して一気にかぶせた網を、苦もなくかい潜った蝉は、愚かなハンターをあざ笑うように空高く消え去った。時に蝉の小便と称する水滴を散らしながら・・・。
 ところで目の前の蝉である。思わず立ち止まって見つめる私の視線を浴びながら依然として雄叫びを上げ続けているのだ。「何を小癪な!」。いたずら心を抑え切れなくなった50年後のハンターがそっと手を伸ばす。右手の親指と人差し指が、獲物の胴体の左右の空間で静止する。鳴き続ける蝉。「まさか」。二本の指がゆっくり閉じられた。「ウッソーッ!」。彼の蝉は、私の指の間で固まっていた。
 私が幼かった頃、あれほど不敵で、そしてすばしこかった蝉はどこにいったのか。蝉の側だけに問題があったのではない。蝉を取り巻く環境が大きく変化したのだ。都会の子供たちの遊びから「蝉取り」が消えてどれ位になるのだろうか。かって蝉取りに熱中した子供たちは、今や「ムシキング」のモニターにかじりついて一顧だにしない。都会の蝉たちは、自身が捕獲されるという恐怖の体験を味わうことがなくなって久しい。かって蝉の体内に埋め込まれていた危険を敏感にキャッチするセンサー遺伝子は、稼動することなく数十年を経た。そして今、センサー機能を退化させた無力な蝉が私の指先に摘まれている。
 指先の蝉についてのこの解釈は一方的な仮説なのかもしれない。この蝉は、不幸にも短い命の最終章で私の目に留まってしまっただけなのだ。危険を察知しても、飛び立つだけの余力はなかったのだ。ふとそんな気がして、指先をそっと開いてみた。蝉は、あっという間に真っ青な空に吸い込まれるように飛び去った。見事なはばたきの残像が目に焼きついた。
 残されたわずかな命に向って精一杯羽ばたいていったけなげな蝉との束の間の楽しい触れ合いだった。その余韻を愉しみながらウォーキングを再開した。

藤沢周平著「麦屋町昼下がり」2011年08月03日

藤沢周平の短編集「麦屋町昼下がり」を読んだ。表題作のほかに「三ノ丸広場下城どき」「山姥橋夜五ツ」「榎屋敷宵の春月」の三編がおさめられている。「場所と時刻」の組合せのタイトルで表現されているように、四編は一種の連作とも言える。タイトルで示された場所と時刻にそれぞれの作品のクライマックスが訪れるという仕掛けである。
 四編それぞれに巧みな人物配置と物語性で一気に読ませてしまう味わい深い作品だった。どれをとっても映画化されても不思議でない佳作である。安らぎを覚えながら安心して読ませる作品を提供してくれた藤沢周平という作家がもういないということがつくづく悔やまれた。

映画評「デンデラ」2011年08月04日

 午後の労働委員会の会議を前に、午前中に映画を観ることにした。観たかった作品のひとつ「デンデラ」が朝一番で梅田ブルクで上映されていた。6月下旬の公開でどちらかといえばマイナーなイメージの作品である。予想通り20人ばかりの観客が広い館内の席ををまばらに埋めているばかりだ。
 ネットで見たこの作品のガイダンスはインパクトのあるものだった。「姥捨山には続きがあった」というキャッチコピーもさることながら、群れをなす老婆たちの集団のイメージ画像も衝撃的だった。しかもその先頭を我々世代のマドンナ・浅丘ルリ子が睨みつけるように進んでいる。御歳70歳の浅丘ルリ子の文字通り70歳の体当たりの役柄である。
 2時間の作品を評すれば「異色作」「意欲作」ということにつきる。登場人物のほとんどが老婆ばかりなら出演者も60代、70代のベテラン実力派女優たちが競い合うという異色ぶりである。捨てられた筈の老婆たちが原始共同体のような集落・デンデラで生き延びていたという物語性も意欲的だ。
 この作品のテーマをどう考えるかは観客ひとりひとりに委ねられている。デンデラで生き延びた老婆たちが、自分たちを捨てた村を襲って復讐するため出発する。その老婆たちを巨大なヒグマが襲い大雪崩が襲う。ラストではヒロイン・カユ(浅丘ルリ子)に導かれたヒグマが村を襲う。こうした物語のテーマをどのように受けとめるか。解は示されていない。
 人間社会の歪んだ掟が姥捨てを産みだした。どっこい捨てられた老婆たちはデンデラで生き延び自由を獲得する。そんな老婆たちが村への復讐という驕りを企図した時、大自然のメタファにみえるヒグマに襲われる。ヒグマとの闘いを道連れにして村に逃げ込むヒロイン。ヒグマに襲われる村を見つめながらカユが暗示的に呟く。「負けたのは誰?」。
 3.11の未曽有の衝撃が重なってしまった。「姥捨ての犠牲」の上に成り立った村社会は「原発のリスク」の上に成立する近代社会に連なる。ヒグマや雪崩の鉄槌を受けたデンデラの驕りのように、原発の便利さは大震災と津波の前で吹っ飛んだ。デンデラの一員カユが闘いながらヒグマを村に導いたように見えた。それはカユ自身のヒグマと村に対する闘いでもあった。大自然は原発も人間社会ももろともに襲いかかる。大自然の中に原発という破壊因子を植え付けた人類社会の在り方が問われている。負けたのはデンデラであり村社会だったように、負けたのは大自然との調和を忘れた人類そのものだ。

映画評「小川の辺」2011年08月05日

 異業種交流会に久々に出席することにした。夜6時半からの会合だけに大阪まで出かけるにはもったいない。午後の映画を愉しもうとネット検索して、大阪ステーションシティーシネマで上映中の「小川の辺」を予約した。開館間もない真新しい劇場のゆったりした席で二日連続の映画を愉しんだ。
 藤沢周平の同名小説で新潮文庫の「闇の穴」に所蔵された原作を読んでいた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2011/07/11/5950730 原作自体は物語の奥行きが感じられず不満が残った。ただ映像化にはもってこいの作品という印象があった。
 原作の不満やネットレビューのマイナー評価などから、それほど期待していたわけではない。しかし観終えた感想は納得だった。原作を読んでいるだけにストーリーを追う必要はなくその分じっくり映像や音響を味わえる。山形地方と思われる日本の自然の美しさが余すところなく展開される。風景映像のBGMも心地良く耳に入る。ラストシーンの決闘の舞台の「小川の辺」の隠れ家も原作でイメージしていた風景にピッタリの映像だった。
 キャスティングでは主人公・戌井朔之助役の東山紀之の抑制の効いた演技が実に良い。母役の松原千恵子、妻役の尾野真千子(初めて知った女優だった)の二人の女優陣もしっかり役柄をこなしている。問題はヒロイン田鶴役の菊地凛子だった。役柄の激しさを割り引いてもその現代風の風貌や振る舞いは、時代劇のヒロインには似合わない。父親役の藤竜也も時代劇の舞台では浮いている印象が拭えない。
 演出にも最後の最後で不満が残った。朔之助が家士・新蔵に妹・田鶴を託し別れを告げるシーンだ。夫を討った兄に闘いを挑んで退けられた田鶴が新蔵とともに兄を見つめる。その憎悪の瞳が別れの瞬間に感謝の風貌に変わると思った。が最後までその演出はない。原作はその点は触れていない。読後の余韻がそう期待させたのだが…。原作に表現されない点の映像化こそが映像作家の領分だという期待は見事に裏切られた。

竜馬が頻繁に訪れた大阪2011年08月06日

 昨晩、7カ月ぶりに異業種交流会の例会に出席した。今回の講師は「大阪龍馬会」の幹事・長谷(おさたに)吉治さんだった。例会では自身の著作「大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~」をベースに龍馬が残した大阪の史跡の紹介と解説をして頂いた。
 ホームページによると「大阪竜馬会」は1985年に高知、東京についで全国3番目に結成された龍馬会ということだ。現在100名の会員を擁し年4回の機関紙発行や年数回の史跡探訪や親睦会などのイベントを開催しているという。
 講師のスピーチの骨子は「龍馬の最も訪問回数が多いのが大坂だった」という点である。その訪問先の場所として北鍋屋町(現在の淡路町)の「浄土真宗・専稱寺」と東横堀川思案橋西詰の船宿「河内屋与次兵衛」があげられた。
 専稱寺は幕府の軍艦奉行並に就任した勝海舟の大坂での寓居先であり私塾の海軍塾を開いた場所でもある。当時、海舟の門弟でもあり海軍塾の幹部でもあった龍馬が頻繁に出入りしたことは想像に難くない。
 もう一方の船宿船宿・河内屋与次兵衛は京都・大坂を結ぶ淀川の三十石船の大坂の船宿のひとつである。龍馬の伏見の滞在先が船宿・日野屋孫兵衛であることは姉・乙女に宛てた手紙で明らかだが、その大坂側の提携先の船宿が河内屋与次兵衛である。実際、この宿から大坂海軍塾・専稱寺まではわずか400m程の距離であった。
 スピーチ終了後には参加者からの質問が相次いだ。ユニークだったのは「龍馬ブームがこれほどまでに根強いのは何故だと思いますか」という質問に、講師は「司馬遼太郎の『「竜馬がゆく』の影響が極めて大きいと思います」と返された。簡潔明瞭で説得力のある回答だった。
 講演後に、持参頂いた著作「大坂の史跡探訪~龍馬の足跡~」を購入した。龍馬の大坂での足跡が写真、絵図、地図などをふんだんに織り交ぜて解説されている。労働委員会事務局のある天満橋周辺の史跡も多い。時間を見つけたての街歩きの楽しみを手にした。

真夏の伊吹山の涼しいお花畑散策2011年08月07日

 大手旅行社主催の伊吹山の日帰りバスツアーに出かけた。同行者は6月の「中山道・木曽路ツアー」と同じご近所7人のメンバーだった。朝7時に三田駅前を出発したバスは、阪急宝塚駅前、西宮北口駅、阪神甲子園駅と参加者を拾い、最初の訪問地・琵琶湖畔の烏丸半島に9時45分頃に到着した。
 琵琶湖に突き出た半島の一辺に広大な蓮の群生地があった。8月上旬の開花時期の真っ只中で、濃い緑の大きな葉っぱのあちこちにピンクの蓮の花が咲き誇っていた。すぐ近くには「くさつ夢風車」と名づけられた地上60mの国内最大級の風力発電機が聳えていた。
 そこから1時間ほどで次の目的地・関ヶ原の「胡麻の里」に到着。ごまにまつわるテーマ館とごまを材料とした食品のショピングコーナーがある。その後すぐ近くのドライブイン「レスト関ヶ原」で昼食となる。ツアーの目玉のひとつでもある昼食は「飛騨牛すき焼きと飛騨牛あぶり寿司食べ放題」のいかにもそそられるメニューだった。広大な大広間の一角に準備された席に料理が並んでいた。ミニコンロに置かれた鉄鍋には赤身の牛肉が覆われ、寿司皿には3貫のあぶり牛寿司が並んでいる。この寿司は広間一角のコーナーからいくらでも持ってこられる。このほか冷やしよもぎうどんや淡雪のお造りも並んでいる。300円という良心価格のアサヒスーパードライの缶ビールを片手に美味しいすき焼きを味わった。食べ放題のあぶり寿司は6貫がせいいっぱい。
 昼食後はいよいよメインの息吹山ドライブである。先月の台風の土砂崩れで不通だったドライブウェーは5日にう開通したばかりである。標高1260mの山頂駐車場までの全長17kmの道のりを45分ほどかけて登っていく。登るほどに雄大な光景が広がる快適なドライブだった。
 山頂駐車場から標高1377mの山頂を目指して標高差117mのハイキングとなる。90分間の散策時間が与えられ各自で自由に散策する。コースは西、東、中央の三つの遊歩道から選ぶ。同行の7人組は琵琶湖が望める西遊歩道を選択した。西コースのスタート地点に観音像がある。そこから琵琶湖を望むと彼方に竹生島が見えた。1時45分に出発した。ガイドブックには山頂まで約40分とある。コースの先を大勢のハイカーが列をなして進んでいる。歩道の左右はシーズン真っ盛りのお花畑が色とりどりの花びらを競っている。時おり流れる爽やかな風が身体を吹き抜ける。麓との約10度の温度差が汗ばんだ身体を心地良く包んでくれる。しかも添乗員さんをしてこれほど晴れ渡った日は余り記憶にないと言わしめた絶好の快晴である。時おり眼下の絶景を眺めながらゆるやかな登り道を進んだ。
 山頂には思いのほか早く約20分で到着した。にぎやかに記念写真を撮りあいながら山登りの達成感を愉しんだ。下山は短時間コースの中央遊歩道を考えていたがたっぷり時間がある。ガイドブックで60分の景色の良さそうな東遊歩道を選択した。下り専用コースで途中の歩きにくさを耐えながら40分ほどで駐車場に到着した。絶好の天気がもたらした絶景ととシーズン最盛期のお花畑を愉しんだ最高のハイキングだった。
 最後の目的地の中山道宿場町・醒ヶ井宿に着いたのは4時半頃だった。JR醒井駅前でバスを降り、古い街並みの残る旧街道を歩いた。街道沿いに地蔵川の清流が流れている。この清流に白い小さな梅の花のような水中花「梅花藻(バイカモ)」が咲いている。このバイカモこそが絶滅危惧種の淡水魚「ハリヨ」の産卵場所である。ハリヨの姿を求めて澄み切った川面を見つめた。二匹の小鮒のような魚を見つけてデジカメに納めた。ハリヨなのかどうかは知らないが、ハリヨだと信じるばかりだ。
 5時15分に醒井を発って帰路に着いた。日曜夕方の名神高速下り線の渋滞に巻き込まれ、往路と逆の各地の下車ポイントを通過しながら9時半頃に出発地点の三田駅前にようやく到着した。自宅に帰りついたのは10時前だった。長かった一日が終わった。

郷土資料館特別展示「西宮の講」2011年08月08日

 先週の6日の土曜日は、西宮市郷土資料館の歴史調査団の定例会だった。連絡事項を済ませてすぐに同じ会場の資料館で展示中の「西宮の講―つどいの民俗―」の見学会になった。
 ガイド役は展示案内図録の執筆者でもある研究員の細木さんだった。展示室には市内の「講」に関わる道具、写真、資料や講ごとに展示されている。14の講の展示の中で、我が町・山口の講の多さに驚いた。地蔵講(下山口)、百味講(公智神社)、善光寺講(下山口)、伊勢講(下山口、名来)と四つもある。講の酒食の展示写真には顔見知りの長老たちの姿も見える。
 見学後に展示案内図録(200円)を購入した。図録序文に「『講』とは、宗教上の目的を達成するために、信仰を同じくするものが寄り合って結成している信仰団体のことをいいます。これが相互扶助の講へと変化したものもあります。(略)西宮市に講という『つどう』民俗があった」と記されている。図録の表紙を飾る写真は、下山口地蔵講のご詠歌踊りである。
 山口の旧村の伝統行事を見聞きしながら、その行事の前後に酒食をともにする「つどい」の多さに気づかされた。山口は農耕文化の伝統を色濃く残す町である。道普請や水利事業などの農作業や神事に関わる住民の共同作業が欠かせない。「つどい」の文化は住民相互の「固めの盃」を意味している。「講」もまた農耕社会の絆を固める場だったのだろう。

藤沢周平著「又蔵の火」2011年08月09日

 藤沢周平の短編集の再読が続いている。これはもう蔵書を読みつくすまではおさまるまい。今回は表題作のほかに「帰郷」「賽子(さいころ)無宿」「割れた月」「恐喝」の4編をおさめたものだ。
 おさめられた作品全てに共通するのは、どうしようもない「暗さ」である。「又蔵の火」は暗さに加えて、ラストの場面の叔父・甥の果たし合いの救い難い「凄惨さ」が圧巻である。主人公・又蔵が放蕩者の末に叔父たちに殺害された兄の仇を討つという物語だ。討つ側に正義はない。それでも又蔵は兄の抱えた地獄と闇を引き受けようとする。誰もが非難する兄の行状に潜む苦悩を仇討という形で知らしめようとする。その一点に藤沢作品としては異色の物語のなかで辛うじて作者の持ち味と繋がっている。
 作品としては「帰郷」が良かった。60歳近い老いた徒世人・宇之吉が長い放浪の末に故郷・木曽福島宿に帰ってくる。そこで今は地元を仕切る大親分となったかっての兄貴分・九蔵の行状を目にする。宇之吉のかっての女に産ませた実の娘を助けるために九蔵との勝負を挑むといった物語である。昔テレビで夢中になった「木枯し紋次郎」を彷彿とさせる舞台設定である。勝負に結着をつけ、娘とその男を救った後、帰郷した筈の宇之吉は再び故郷を後にする。そのラストの余韻が何ともいえない味わいがある。

小さい秋見つけた2011年08月10日

 うだるような暑さに目が覚めた。窓の外はまだ暗い。しばらく目を閉じていたが、二度寝が効かない歳である。やむなくベッドから離れた。ルーティンをこなして自宅を出たのは5時過ぎだった。
 日の出前の夜明けの冷気が心地良く身を包む。名来墓地横の農道を旧丹波街道に向って進む。スニーカーが何かをふんづけた。青々とした若い栗のイガだった。見上げると一本の栗の木の濃い緑の葉っぱの間にイガに覆われた栗の実がいっぱい実っていた。
 猛暑が続く毎日である。それでも季節はひそやかに巡っている。いっぱいに実った栗の木に小さい秋を見つけた。