映画評「デンデラ」2011年08月04日

 午後の労働委員会の会議を前に、午前中に映画を観ることにした。観たかった作品のひとつ「デンデラ」が朝一番で梅田ブルクで上映されていた。6月下旬の公開でどちらかといえばマイナーなイメージの作品である。予想通り20人ばかりの観客が広い館内の席ををまばらに埋めているばかりだ。
 ネットで見たこの作品のガイダンスはインパクトのあるものだった。「姥捨山には続きがあった」というキャッチコピーもさることながら、群れをなす老婆たちの集団のイメージ画像も衝撃的だった。しかもその先頭を我々世代のマドンナ・浅丘ルリ子が睨みつけるように進んでいる。御歳70歳の浅丘ルリ子の文字通り70歳の体当たりの役柄である。
 2時間の作品を評すれば「異色作」「意欲作」ということにつきる。登場人物のほとんどが老婆ばかりなら出演者も60代、70代のベテラン実力派女優たちが競い合うという異色ぶりである。捨てられた筈の老婆たちが原始共同体のような集落・デンデラで生き延びていたという物語性も意欲的だ。
 この作品のテーマをどう考えるかは観客ひとりひとりに委ねられている。デンデラで生き延びた老婆たちが、自分たちを捨てた村を襲って復讐するため出発する。その老婆たちを巨大なヒグマが襲い大雪崩が襲う。ラストではヒロイン・カユ(浅丘ルリ子)に導かれたヒグマが村を襲う。こうした物語のテーマをどのように受けとめるか。解は示されていない。
 人間社会の歪んだ掟が姥捨てを産みだした。どっこい捨てられた老婆たちはデンデラで生き延び自由を獲得する。そんな老婆たちが村への復讐という驕りを企図した時、大自然のメタファにみえるヒグマに襲われる。ヒグマとの闘いを道連れにして村に逃げ込むヒロイン。ヒグマに襲われる村を見つめながらカユが暗示的に呟く。「負けたのは誰?」。
 3.11の未曽有の衝撃が重なってしまった。「姥捨ての犠牲」の上に成り立った村社会は「原発のリスク」の上に成立する近代社会に連なる。ヒグマや雪崩の鉄槌を受けたデンデラの驕りのように、原発の便利さは大震災と津波の前で吹っ飛んだ。デンデラの一員カユが闘いながらヒグマを村に導いたように見えた。それはカユ自身のヒグマと村に対する闘いでもあった。大自然は原発も人間社会ももろともに襲いかかる。大自然の中に原発という破壊因子を植え付けた人類社会の在り方が問われている。負けたのはデンデラであり村社会だったように、負けたのは大自然との調和を忘れた人類そのものだ。

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