朝ドラ「純と愛」第3弾「ガッカリ」2013年03月30日

 今朝、NHKの朝ドラ「純と愛」が終った。最終回を観終えての感想は「ガッカリ」という一語に尽きる。序盤の展開は、期待感が大きく、2度ほどこのブログでも高評価のコメントを記した。ひとつはNHKらしからぬ「型破りさ」であり、http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/11/08/6627082、今ひとつはスピード感のある「イマドキ」へのこだわりだった。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/11/17/6636213
 ところが物語が進行するにつれ、段々つまらなくなってきた。その最大の要因は、いかにもNHKドラマ風の「不幸物語の波状攻撃」にある。オオサキプラザホテルの乗っ取り、宮古島のオジイのホテルの売却と解体、母のアルツハイマー型認知症の発症、父の溺死、大正区のホテル・里やの火災焼失、宮古島の別荘を改装したホテルの台風被害、最愛の夫・愛の脳腫瘍による昏睡・・・とまあ、これでもかこれでもかという不幸の連続である。もちろん、それは主人公たちの不幸を乗り越えガンバって生きていくという朝ドラ的パターンの連続と表裏一体でもある。最終回がまたひどかった。主人公・純が、海に向かって延々とこれまでのドラマや登場人物を解説風に振り返り、これからの生き方を語り続ける。それはドラマとしてのメッセージ性を放棄した安易なお説教としか受け止め難いものだった。序盤で見せていた「型破りさ」や「イマドキ」のかけらもない陳腐さだけが目についた。
 なぜこんなにもヒドイ展開になってしまったのか。ひとつには朝ドラの持つ構造的な要因がある。朝ドラは連続151回、延38時間に及ぶ長時間ドラマである。半年間26週の各週毎に完結する物語展開が求められる。超・長時間ドラマを細切れ短編ドラマで繋いでいくドラマといえる。脚本家はこの制約のもとで執筆構成を迫られる。不幸物語の連発にも同情の余地はある。今回の「純と愛」を通して実感した朝ドラの構造的な制約を、これまでのシリーズがよくぞクリアしながら創られてきたものだとあらためて感心した。