豊田有恒著「本邦泰西ヌード縁起」「古代史の秘密」2013年07月11日

 北欧旅行中に読み終えた豊田有恒著作の4冊の本の書評第2弾である。前回の2冊の書評は古代の歴史上の人物をテーマとした歴史小説だった。今回の2冊は強いて分類すれば歴史SF短編集である。結論を先に述べれば2作とも個人的には期待外れだったというほかはない。
 1981年著作の「本邦泰西ヌード縁起」は、歴史を題材とした8編の物語である。内、最初と最後は歴史小説の趣きで描かれ、真ん中の6編は歴史素材のSF小説である。いずれの作品も作者の歴史的な造詣を元にした主観に満ちた荒唐無稽な冒険譚の印象が強い。例えば「酷憂鉄道」は、旧国鉄の労働組合の過激な運動を揶揄した物語だが、主観みちた一面的な描き方は作者の知的水準すらも疑わせるものだった。こうした独善はSF小説特有の無責任さすら覚えずにはおれなかった。
 1994年著作の「古代史の秘密」は、23世紀を舞台に主人公の時間観光ガイドが旅行者の要望に沿って古代日本を縦横にタイムトラベルするという設定で文字通りのSF小説である。「古代異域へ潜入」「怨念の対決!崇仏派と排仏派」「大化改新異聞」の3部構成で15の物語が納められている。こちらは作者の日本と半島の古代史の知識と造詣を駆使してSFの衣のもとに独自の見方を展開したものだ。1971年著作の意欲作「倭王の末裔」以降の一連の古代史小説の中で語られた作者の独自の仮説を集大成したかのような作品である。それだけに目新しい内容はなく中途半端で物語性にも欠けた作品という印象が深い。
 2作品を読み終えて豊田有恒という作家に大いに共感していた気分が急速に萎えていった。

その後の平田遺跡発掘現場2013年07月12日

 2年前の11月に、早朝ウォーキング中の隣町の道場町平田で、弥生時代の集落跡の発掘現場を見た。「新名神高速道路」の敷設工事中に発見された埋蔵文化財のである。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2011/12/19/6249099 12月下旬には発掘現場は埋め戻され更地になっていた。その後、現場の近くを通ることもなく1年半ばかり経過した。
 今日、久しぶりに早朝ウォーキングの足を伸ばして現場の様子を確認した。東西に走る新名神高速道路敷設ルートの両側には、工事現場を示す物々しい高い工事塀がそびえていた。かっての田圃のほとんどが更地になって横たわる。工事塀の途切れたところに生活道路が辛うじて利用可能な状態で残されている。ここが埋蔵文化財の発掘現場だったことを示すものはどこにもない。
 帰宅してネットで新名神高速道路のこの区間(高槻第一JCT~神戸JCT)の完成予定年度を調べた。NEXCO西日本のHPでは平成30年度となっている。用地買収はほぼ完了している。5年後には娘夫婦の帰省ルートで利用され時間短縮されるだろう。そんな個人的な利便さとは裏腹に何かかけがえのないものが失われていくような気分が拭えない。

高齢者ボランティアの大先輩と懇談2013年07月13日

 ある住宅街の老人クラブの会長をされている大先輩と初対面ながら2時間ばかり懇談した。NPO法人NALCのエリア拠点の代表者でもある。NALCのHPで近隣の拠点を探し、代表者と連絡を取ってお会いして頂けることになった。高齢者の困り事支援を考える上でNALCの時間預託ボランティアは注目に値する取組みである。このブログでも以前にNALC本部を訪ね高畑会長と懇談した記事を掲載した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/05/18/6813337 今回の懇談でお聞きしたかったのは、NALCの現場での時間預託ボランティアの活動実態である。
 NALCの実際の活動について次のような話を伺った。「登録メンバーは百人近いが日常活動を支える実質的なメンバーは30人くらいだという。本部登録した拠点所属の会員間のクローズドな助け合い活動が基本だという。会員の困り事の依頼を受けてコーディネーターを通じて支援活動を行う。活動後にNALC専用の自己申告用紙に利用者の捺印を得て活動時間を拠点事務局長宛に自己申告する。事務局長が管理する会員の活動ポイントは専門スタッフに依頼してPCデータで集計される。毎月1回会報を発行している。以前はポイントを貯めるばかりの人が多かったが、最近は利用する人が増えてきた。」
 全国の老人クラブ連合会で表彰されたという老人クラブの活動についても示唆に富んだ次のような話しを伺った。「約80人の会員がいる。老人クラブの活動の基本は、介護保険から漏れた困り事をカバーすることだと思っている。通院、買物、役所手続などの車での送迎や庭の選定、お葬式の手伝いなどがある。会費は年1500円だが市の助成金などもあり送迎のガソリン代は老人クラブで負担している。バスツアーやサークル活動は以前ほどには活発でなくなった。会員の長期化・高齢化で旅行先が限られてきたことやサークル活動自体のマンネリ化してきたことが背景にある。むしろ助け合い活動こそが中心になってきた。高齢で活動に参加できなくとも助け合い活動があれば退会する会員も少ない。」
 元気なお年寄りが参加する老人クラブという私の思い込みを断ち切る「目から鱗」の貴重な話だった。活動の原点を踏まえながら長年に渡って高齢者ボランティアを実践されてきた大先輩の淡々とした話しぶりに耳を傾けながらその長年の実践に心から敬意を払った。

滝野町の闘龍灘2013年07月14日

 連休である。世間並みに家内と出かけようということになった。先頃、加東市在住の大学時代の友人から自作の美味しい有機米を送ってもらった。友人宅の近くに闘龍灘がある。一度は見ておきたいと思っていた景勝地探訪もできる。お礼がてらに友人宅を訪ねることにした。
 中国道の滝野社ICを降りて正確無比なナビに案内されて迷うことなく友人宅に到着した。友人はリタイヤ後は郷里に戻り、田圃を購入し一から自作農を始めた。現役時代に環境問題にも関わったこともあり、無農薬の米作りに挑戦している。除草剤を一切使用しない米作りである。近隣の同じ志の先輩農家との交流会にも参加し、その指導を受けながらの新米農家の苦労話を聞いた。草抜きなどの手作業も多い。天候や気候との折り合いにも苦労が多い。それでも手間暇かけた稲作の収穫での確かな手応えは何物にも代えられないという。しばらく懇談した後、近くの闘龍灘に案内してもらった。ジャガイモ、トマト、にんにくなどの有機野菜をいっぱい貰った。
 車で5分ばかりのところに景勝地・闘龍灘があった。加古川の西岸にある「闘龍すくえあ」という公園から、川床に降りることができる。公園からは川床いっぱいに起伏する岩石群の見事な眺望が見渡せる。石段を降りて川床から北方向を眺めた。川の流れが岩石に阻まれて激流となって水飛沫をあげている。川岸に建つ料理旅館のすぐ足元の岩場で鮎釣り人が一人、糸を垂れていた。岩石を伝って川の中央部に出た。割れた岩床が一筋の流れを作っている。足元の岩に「掘割水路」の案内板が嵌め込まれていた。加古川の舟運や筏通行の難所だった闘龍灘を開削して作られた明治6年完成の水路ということだ。
 友人ご夫婦に案内されて近くのお洒落なレストランで昼食をご馳走になって、帰路に着いた。旧交を温め景勝地を訪ねたプチ旅行だった。

呪いの館2013年07月15日

 朝の散歩道のコース途上の国道176号線沿い「呪いの館」がある。これまで何度も開店しては潰れてきたいわくつきの飲食店向け店舗である。5年前に「焼肉・小倉優子」が何代目かにオープンしてそれなりに健闘し4年ばかり持ちこたえた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/06/23/ その「焼肉・小倉優子」の店も、昨年10月についに落城し同じ業界の焼肉チェーンの「肉肉肉肉亭」に身売りした。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/10/10/6598570
  ところが、その「肉肉肉肉亭」の看板がまたもや撤去され、数日前には全国チェーンの居酒屋「魚民」の看板が掲げられた。わずか9カ月であっけなく陥落した「肉肉肉肉亭」の「憎ッ憎ッ憎ッ憎ッ」の恨み節が聞こえてきそうだ。
 それにしてもこの店舗の過去の「血塗られた歴史」を出店者が知らぬ筈はない。それは決して「呪い」などという非科学的な理由でなく、立地条件や競合状況などの何らかの合理的な理由があるに違いない。それでもなお新規出店が相次ぐのはなぜだろう。内装外装の手直しはあっても建物自体の建替えはない。その分格安の出店コストと賃料が魅力なのだろう。それを背景に「我が店だけは生き残ってみせる」という自負があっての出店に違いない。いよいよ登板した大手全国チェーンのお手並みを注目してみよう。

復婚・・・あれから40年2013年07月16日

 亭主がリタイヤして我が家に居つくようになった頃に夫婦は、新婚時代の再来を思わせる事態に直面する。といってもそれは惚気(のろけ)気分とは程遠いものだ。きみまろのセリフではないが「あれから40年」なのである。ラブラブ時代のワクワク感に満ちた夫婦の真剣な「向き合い」が、40年の時を経ておよそ様相を異にした形で再び訪れる。
 この間、夫は仕事に追われ、それなりに重くなる役職をこなし、仕事付き合いに明け暮れて家庭を顧みるゆとりはない。一方妻は、日々の家事をこなしながら、出産、子育て、ご近所付き合い、パートなどに明け暮れてこれまた夫と向き合うゆとりはない。妻の家庭と地域での「かくも永き存在」は、地域に強固な居場所をつくり、家庭に君臨する存在としてリタイヤ亭主の前に立ちはだかる。
 夫の夢見た豊かな筈のリタイヤ生活は、家庭と地域での「かくも永き不在」の見事なしっぺ返しを噛み締めることから始めねばならない。現役時代には容赦されていた数々の「我が家のルール(と妻が称する)」が、リタイヤ亭主に容赦なく襲い掛かる。妻の発する「〇〇をしとかなアカン」「〇〇をしたらアカン」の科白のいかに多いことか。もちろん夫の身を案じての科白も含まれているのは承知している。それでも夫は、妻の過ごした「あれから40年」の等身大の姿にあらためて直面し、狼狽え、身構えてしまう。
 それは、夫婦が初めて真剣に向き合った「新婚」の40年後の再来ともいうべき「復婚(復活婚)」の到来である。(「離婚」「再婚」でないだけまだしも救いがあるのかもしれないが・・・)。アッ!念のため付け加えておこう。この記事は決して「我が家」カテゴリーの記事ではない。あくまで一般論としての「老後スタイル」カテゴリーの記事である。

続「復婚・・・あれから40年」2013年07月17日

 昨日のブログ記事「復婚・・・あれから40年」を読み返して思った。いかにも中途半端である。単なるボヤキではないか。負け犬の遠吠えの印象すら漂っている。これは我がブログの「前向き」コンセプトに適っていない。というわけで続編に挑むことにした。
 言うまでもなく「復婚」のスタイルは夫婦さまざまである。ご近所にも続々と生まれている復婚族ご夫婦のそれぞれの形が、家内のとどまることにない食卓でのトークを通じて漏れ伝わる。成功事例や失敗事例、中には悲惨な結果を招いた事例すらある。結局のところ復婚スタイルを決定するキーワードは「距離感」ではないかと思う。
 復婚とは、夫のリタイヤ後に訪れた夫婦が四六時中自宅で鼻突き合わせる事態のことである。「永年連れ添った夫婦は空気みたいなもの」という説は復婚夫婦には通じない。あれから40年である。夫婦の「向き合わなかった40年」の後に突如として訪れた「ご対面」である。ぎこちなさやギクシャク感はあって当然と心得よう。うっとおしさや煙たさはお互い様である。今まで気づかなかった互いの実像が霧が晴れたかのように迫ってくる。性格の突っ込んだ部分での良さ悪さや、立ち居振る舞いの我慢のならないクセなども見えてくる。
 良好な復婚スタイル確立の第一歩は、こうした現実をありのままに受け入れることから始まる。とりわけ夫の感情的で刹那的な対応には、妻の夫以上に感情的で刹那的な反撃が繰り出されることを覚悟しておくことだ。この場合、家庭と地域で強固な基盤を確立している妻が圧倒的に有利な戦いを展開できることは明らかだ。
 夫の頼みとすべき武器は、永年の企業社会という戦場で鍛えられた分析力、企画力、交渉力といった問題解決のための冷静な手法である。事態を冷静に受け止め、問題の所在を把握し、解決のための選択肢を準備し実行に着手する。こうした一歩離れた「距離感」は、限られた人間関係の枠内の仲間内しか通用しない共通言語で過ごしてきた妻族の最も苦手とする点である。それだけにこの手法をもって新たな復婚スタイルを共有化するのはかなりホネである。
 それでもやらねばならない。つまるところ良好な復婚スタイルの確立とは、夫婦間の「適度な距離感」を確立することに尽きるからである。それこそが双方にとっての豊かな老後生活を約束するものである。あらためて噛み締めたいキャッチコピーがある。「夫婦はひとり、時々ふたり」。(やっぱりオチがない。続きを考えるとしよう)

続々「復婚・・・あれから40年」2013年07月18日

 復婚(夫のリタイヤ後に訪れた夫婦が四六時中自宅で鼻突き合わせる事態)を迎えて、リタイヤ亭主とその妻の狼狽と緊張関係を描いてみた。その上で「良好な復婚スタイル」確立の鍵が「適度な距離感」にあると断じた。
 ところで「適度な距離感」と一口に言うが、これまた実に厄介なシロモノである。夫にとっての妻との「距離感」とは、自分自身の居場所の確保を抜きにはありえない。
 企業社会という戦場からの帰還兵たちは、帰還後遠からずして永年住み慣れた筈の地域と家庭にいかに自分の居場所がないかを思い知らされる。しばらくは妻のねぎらい気分も手伝って、テレビとごろ寝で過ごせるだろう。ところがアフター・リタイヤの備えのない夫の場合、テレビとごろ寝が日常生活として定着し、下手をすればそのまま「引き篭もり」という事態にもなりかねない。
 妻にとっては、この事態は最悪である。永年君臨してきた居心地の良い我が家に、突如として夫と称する嵩高い異物が日がな一日占拠し始めるのだ。これまでご近所の仲良しさんたちと行き来してお茶していた食卓のすぐそばに、デンと居座る夫の姿がいやでも目に入る。もうお友達を呼べないし、訪ねることも控えなければならない。・・・と、妻が現在の日常の貴重なひと時を奪われるという恐怖感に駆られても不思議でない。そんな妻にとっての一縷の望みは、夫が家庭以外に居場所を見つけて出かけてくれることである。
 妻の突き刺さるような冷たい視線と隠そうともしない苛立ちを身に浴びて、リタイヤ亭主はようやく居場所づくりに思い至る。そうしてご近所のリタイヤオヤジたちの過ごし方を眺めてみると、みんな結構色々頑張っている。そんな風景を以前このブログでも綴ってみた。 http://ahidaka.asablo.jp/blog/2013/07/03/6885831 そんなこんなで夫が最低限の居場所を確保してようやく妻との復婚相撲の土俵に上がれるというものである。
 
 今日も結構長くなった。相変わらずオチはないが、ひとまず筆を置くことにしよう。

完結編「復婚・・・あれから40年」2013年07月19日

 書き始めた「復婚・・・あれから40年」の記事がオチのないままズルズルと4回目を迎えた。これはイカン。何とかここらでオチをこじつけてお仕舞いにしよう。
 前回までのお話は、復婚時代の修羅場を迎えた夫が何とか自分なりの居場所を見つけてあらためて妻と向き合う場面までだった。いよいよ互いの「適度な距離感」の折り合いをつけねばならない。ここからは、抽象的な一般論では迫力も説得力もない。いろいろ御託を述べても自分自身はどうなんやという内心の呟きもある。
 リタイヤ後5年を経て私自身の居場所は何とか様になってきた。リタイヤ前の自治会役員選挙で家内が引いた籤で自治会副会長などの役員を2年間引き受けた。その縁で民生委員にも就任し5年目を迎えた。民生委員つながりで地域の三つのボランティア組織の役員も引き受けた。60過ぎで始めた地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」が徐々に地域で注目された。それが山口公民館の「山口風土記探訪講座」の定例講座につながり3年間で8回の講座開講となった。2年前には地元の市民ミュージカル劇団の立上げに関わり、現在は後援会事務局長の立場にある。60半ばを超えた身にはありがたいほどの忙しさである。
 家内はといえば、子育ての手が離れた頃から始めたパート勤務を今尚続ける働き者である。家事全般もそつなくこなし、亭主の面倒見も十分すぎるほどである。無類の買物好きでショッピングセンター巡りに余念がない。ご近所の仲良し奥さんたちとの往来や最近富に増えた食事会がかけがえのない時間になっている。
 というわけで、我が家は夫婦それぞれに居場所がある。四六時中鼻突き合わせる環境にはなく、「適度な距離感」も保たれている。とはいえ問題がないわけではない。夫側の言い分は、妻が夫の振る舞いに過剰に注文をつけ過ぎることである。健康面は言うに及ばず、身だしなみ、家事分担等々。妻側の言い分は、夫はボランティアには熱心でも家のことはからっきしやってくれないということになる。当たっているだけに沈黙で応ずるほかはない。
 娘が嫁入りして以来、夫婦二人の生活も3年目を迎える。互いの不満や言い分はあっても許容限度内としよう。それなりに互いの距離感も固まりつつある。日常のそれぞれの居場所での「放し飼い」が定着してきている。どちらかが病になったりした時や、年1回程度の海外旅行の際には、結構寄り添いながら過ごしている。「夫婦はひとり、時々ふたり」の老後スタイルが今のところうまく機能している。安定した復婚スタイルが星霜を重ねて互いの距離感を意識しなくなる時、連れ合いは空気か水のように通常は意識しない、それでいてかけがえのない存在になるのだろう。
 長文の「復婚・・・あれから40年」を気の利いたオチを思いつかないままダラダラと綴った。結局、我が家のヨカッタヨカッタ物語でオチをつけるしか手がなくなった。この稚拙さを恥じ入りながら筆を置くしかない。

市長との対話集会打ち合わせ会2013年07月20日

 市長と市民との小学校区ごとの対話集会が開催されている。在住の小学校区の集会は7月24日にある。市民側からは校区内の自治会長、民生委員代表、社協・青愛協・老人会・スポーツ21などの諸団体代表、小中学校PTA会長などが出席する。社協分区長が当日所用で出席できないため代理出席することになった。
 先日の夜、その対話集会に向けて、事前の意見調整の会議が山口公民館会議室で開催された。ほとんどの参加者は面識のある人たちだ。今後の町づくりの方向性についての前向きな懇談が集会のテーマのようだ。打合せ会ではその趣旨に沿って参加者がそれぞれ意見を出し合った。
 1時間半ばかりの時間があっという間に過ぎた。さすがにそれぞれの組織を代表する皆さんだ。各組織が抱える問題点が述べられ町づくりに向けた課題が浮かび上がる。山口という町の在り方について初めて率直に語り合った気がした。新旧地区が共存する町である。根底には両地区の歴史や成り立ちの違いからくる埋めようのない溝がある。新旧両地区の共同イベントを通じた交流が訴えられた。新旧両地区共通の山口の町づくりビジョンが必要だ。超高齢化社会を迎えた山口での自助、共助、公助の枠組み整備が求められている。
 市長の思惑はどうあれ、少なくともそうしたテーマについての地域協議のきっかけづくりの意味はあると思われた。