大病復帰の自慢の歌声2016年01月21日

 広い宴会場に70代後半のオジサンの「宗右衛門町ブルース」の歌声が響いた。十八番の曲目のリクエストに応えた歌声は、よくとおる喉に乗せられた見事な歌唱力だ。
 地区の老人会恒例の新年会だった。車で20分ほどのホテル・フルーツフラワーの宴会場にご近所のお年寄り20人が参加した。会費1500円で大浴場入浴、懐石風お弁当、3時間のカラオケと会場使用がセットになったプランである。ホテルの送迎バスの送り迎えもついている。積み重ねられた恒例行事がお手軽で参加者のニーズに適ったイベントとして定着している。
 くだんのオジサンは、朝の散歩が日課でマクドナルドでもよく顔を合わせていた。昨年秋頃から姿を見かけなくなった。民生委員の高齢者実態調査で事情を知った。肺に癌が見つかり緊急入院されたという。その後、退院し元気を取り戻されたという噂を耳にしていた。送迎バスの車中で久々に元気な姿を見掛け声を掛け合って再会を喜んだ。
 会場正面でマイクを握るオジサンの姿は、朴訥で愛想のよい好人物というそれまでの印象を覆すものだった。マイクを握ると人が変わると言われるタイプなのかもしれない。大病の後の元気になった日々を心から楽しんでいる風情に溢れている。そんな姿を眺めながら、人は誰もが自分らしさを存分に発揮できる場があることをあらためて教えられた。高齢化という現実がそうした場の選択肢を年々奪っていく。そんな中でカラオケという舞台は限られた選択肢の貴重なシーンなのかもしれない。

北方謙三著「余燼(上)」2016年01月22日

 北方謙三の読み残していた最後の歴史小説「余燼」を読み始めた。そしてその上巻を読み終えて思ったのは、この作品は果たして歴史小説なのか?ということだった。
 確かに作品は江戸中期の老中・田沼意次失脚直後の江戸が舞台である。物語も意次失脚後の政治空白と飢饉にあえぐ庶民の怒りがテーマである。ところが主人公は馬庭念流の遣手・影井誠一郎という架空の人物である。ストーリー展開は次期政権を巡る将軍・家斉の実父・一橋治済と白川藩主・松平定信を押す一派の勢力争いが描かれるものの、あくまで架空の人物たちによって繰り広げられる両派の暗闘の現場が中心である。印象としては歴史小説というより時代小説か剣豪小説に近い。
 個人的には、北方謙三の歴史小説、とりわけ南北朝時代を舞台とした作品に親しんできた。その印象からすれば、江戸庶民の人情を随所に織り込んだこの作品は、藤沢周平作品ほどの情感はないもののそれなりに新鮮で楽しめる。
 大店の米の売り惜しみによる庶民の飢餓感を背景に、江戸中を巻き込んだ壮大な打ちこわし計画が着手される場面で上巻は幕を閉じる。果たしてどんな結末を迎えるのか、ワクワクしながら下巻を手にした。

公園清掃ボランティアの異色の参加者2016年01月23日

 住宅街の五つの公園の清掃活動を数年来続けているグループがある。代表者はちょい呑みオヤジ会のメンバーでもある。オヤジ会のボランティアグループが月2回のこの公園清掃に参加することになった。
 社協分区の対象エリアである隣町にキリスト教系の教会がある。その教会のスタッフたちが地域で奉仕活動をしたいと市役所山口支所に相談したようだ。支所は私もコーディネーターの一員である社協分区のボランティアセンターを紹介した。その紹介を受けてボランティアコーディネーター会議で布教活動は行わないという条件をつけて上述の公園清掃ボランティアを紹介することにした。代表者の了解を得て彼らは公園清掃に参加することになった。今日、彼らが初めて参加する公園清掃があった。
 最寄りの公園にその教会スタッフたちが姿を見せた。日本人1人、アメリカ人2人、オーストラリア人1人という男性の若者4人である。既に清掃活動を始めていたボランティアの皆さんに集まってもらって、経過を説明し彼らから自己紹介をしてもらった。公園清掃の代表者から作業指示を受けた若者たちは、1時間ばかり公園周りの溝の泥土を掻き出すという力仕事をこなしてくれた。作業を終えた全員が異色のボランティアたちも交えて集合写真に納まった。
 公園清掃という地域活動に集まった公園清掃ボランティアグループ、オヤジ会、地区ボランティアセンター、教会奉仕活動グループという多様なメンバーたちの記念すべき画像である。

花ちゃんの 笑顔泣き顔 紙一重2016年01月24日

 家内と娘が「ちょっとだけ出かける」という。車で数分のベビー服の西松屋でお買物だそうだ。思わず「花ちゃんは見とこか?」と口にすると、即座に「そんならお願いするワ」と二人していそいそと出かけた。
 花ちゃんとのふたりぼっちは初めてだ。二ヶ月を越えたばかりの赤ちゃんを古希を迎えた祖父がひとりで孫守りする事態である。多少の不安と緊張感がなくはない。
 はじめのうちは時に覚えたての笑顔を見せながらご機嫌だった。授乳クッションに横たわって、アウアウとかア~ウ~とかウ~とか口にし始めた新語を繰り出しておしゃべりをしてくれる。じいちゃんも一緒になって赤ちゃん言葉で答える。そのご機嫌も長くは続かない。突然、口をすぼめ、眉間を寄せ始めた。ア~ウ~がア~ンッに変わり一気にオンギャ~ッに突き進む。その急変振りに思わず一句。「花ちゃんの 笑顔泣き顔 紙一重」。
 すぐに抱っこして上下動を繰り返すが効きめなし。やむなく必殺技のウォーキングとなる。あ~るけ!あ~るけ!と口ずさみながらひたすら部屋の中を歩き回る。歩数計のカウント稼ぎにはなる。ようやく泣きやんで半目になって眠りに向かいかけた時だ。チャイム音が鳴り響いた。途端にビァ~ッと雄叫びをあげる。なんと間の悪い宅配便の来訪である。泣き叫ぶ花ちゃんを寝かせて玄関に出て対応。
 再びあ~るけ!あ~るけ!を再開し、ひたすら孫守りに励む。花ちゃんがようやく眠りの世界に浸った頃、母親と祖母が帰還した。その時ふと思いついた一句。「花ちゃんと ふたりぼっちの 六十分」。

ふれあい交流会のマンネリ化2016年01月25日

 社協分区の75歳以上のお年寄りを対象とした恒例のふれあい交流会(お食事会)があった。例年1月下旬のこの酷寒の時期である。天気予報は寒波の真っ只中で降雪の懸念もあるということだった。ところが当日朝は寒さこそ厳しかったが雲ひとつない快晴で、主催者の一員としては胸をなでおろした。
 参加者はお世話をする分区のスタッフを含め115名と報告された。これだけの人数を収容できる会場は限定される。車で数分、歩いても行けるところにある結婚式場のホールである。90名ほどのお年寄りが11の円卓に着席し、各テーブルに2名ほどの世話係がついた。開会のセレモニーの後、早速食事を取りながらの懇親となる。会場手配の二段重のお弁当である。
 お弁当を食べ終えた頃を見計らって円卓の6人の参加者に自己紹介を兼ねた近況報告をお願いした。二人ほどの報告を終えたところで司会者からこれも事前にエントリーされた皆さんの恒例のカラオケ大会の開始が告げられた。各テーブルから選ばれた13名の歌自慢の熱唱が終わった頃には閉会の時間が近づいていた。結局、テーブルでの懇談は中途半端な形で終わってしまった。
 この会場での交流会は10年以上に及ぶ。当初はそれなりに懇談や社協への質問、要望などの質疑の時間が設けられたりした。カラオケが導入されると徐々にそちらが主流になりだした。今やカラオケ食事会という印象が強い。各テーブルでの懇談の場の持ち方のバラツキ等が懸念されたのかもしれない。同じテーブルの参加者のひとりから「せっかく年一回の懇談の機会だったのに・・・」という声がもれた。
 100人近い地域のお年寄りが一堂に集う唯一の場である。この交流会でしかできないことがある筈だ。年に一度の邂逅を確かめ合い、近況を語り合うことこそ必要ではないか。マンネリ化した交流会の工夫の余地があるように思えた。

よもやま話(世代間の葛藤)2016年01月26日

 ボランティアセンターの当番の日だった。相方の年上の主婦と雑談した。「ご近所の仲良しさんのお宅のご主人が亡くなられた。息子さん家族と同居されていたんだけど。以来、姑さんの居心地が微妙に悪くなってきたようだ。どうしても息子さん夫婦に遠慮が出てきた。一家の長だった人の存在の大きさをあらためて実感させられたようだ。実際、ご主人が生きておられれば年金も二人分だけど亡くなられたら遺族年金しか貰えない。それだけでも影響は大きい」。相方の家には最近、息子さん家族が同居することになったという。ご主人は80代で健康面も懸念される歳である。身につまされる話題がつい出てしまったようだ。 
 最近奥さんを亡くされた80代のおじいさんがいらっしゃる。その方とおしゃべりした。以前から共稼ぎの息子さん一家と同居されている。それまですべて奥さん任せだった日常生活だったようだ。途端に日中のこまごました家事が委ねられるようになった。自分なりに一生懸命やっているつもりだが中々うまくいかず息子夫婦とのズレも出てくる。どうしても気分が内に向かってしまうといった愚痴をお聞きした。
 老後の子どもたち家族との同居生活は、羨ましい面と煩わしい面が同居する。それでも夫婦二人が一緒であればそれなりにうまく回るものだ。ところが片方が亡くなった後の付き合い方は結構厄介だ。反面、夫婦だけの老後生活もそれなりに自由で気兼ねのない暮らしだが、こちらも片方が亡くなればやっぱり色んな問題が生じてくる。結局、何とか夫婦が健康に少しでも長く生活できることが一番というオチである。

ふれあい交流会の前向きな反省2016年01月27日

 社協分区の執行委員会があった。テーマのひとつに前日開催されたふれあい交流会の反省があった。
 カラオケ中心の運営に苦言を呈せねばと思っていたが、各執行委員の想いは共通していたようだ。あちこちから「カラオケが長すぎて参加者との懇談ができなかった」「出演者は楽しいだろうが参加者の中にはカラオケに馴染めない人もいる」「カラオケの音響で気分が悪くなったという声も聞いた」といった意見が相次いだ。
 「カラオケがお年寄りに元気をもたらし積極的に外に出かける動機となっていることは否定できない。ただ90人ものお年寄りが一堂に会する場でそれが中心になるのは問題。ふれあい交流会はあくまで参加者相互の交流が目的。同じテーブルを囲むご近所さんたちとの懇談こそが大切。みんなで自己紹介や近況を語り合う懇談が欠かせない」といった意見を述べた。
 「次回はカラオケなしの交流会を前提に企画を検討する」という分区長のまとめで議論を終えた。さすがに永年地域活動に関わってきた面々である。妥当な議論と結論で締めくくられた。

市民生委員会広報紙の打合せ2016年01月28日

 午前中、山口支所の会議室で市民生委員会広報紙の記事内容を打合せた。委員会担当理事と市所管部署の担当者お二人に山口までお越し頂いた。広報部会で確認した広報紙第2号記事の理事会修正要請の打合せである。
 立場が違えば様々な観点での意見があるものだ。ただ民生委員の一斉改選に向けて「就任をお願いする広報」でなく「民生委員の魅力を訴えて応募してもらう広報」という第2号のコンセプトの修正が求められているわけではないようだ。理事会の妥当な要請には修正を加えることで調整を進めた。
 1時間ほどで打合せを終え、お二人を山口の最も著名な訪問スポットである公智神社に案内し、公民館講座講師の立場であれこれ講釈した。その後、予約しておいた有馬川仁木家でランチをご一緒した。食事中も懇談を交わし、こんな機会でもないと得られない情報を交換させて頂いた。

ソーシャル・インクルージョン2016年01月29日

 最近「ソーシャル・インクルージョン」という言葉を耳にし気になった。きっかけは安倍内閣設置の「1億総活躍国民会議」の民間議員に選ばれたタレント・菊池桃子氏の発言だ。
 権力者側から発せられる「一億総〇〇」というキャッチフレーズに先の大戦末期に旧日本軍が掲げた「一億総玉砕」のスローガンを重ね合わせる高齢者も少なくない。安保法案という危険な法案を閣議決定だけで通過させた安倍政権であれば尚更である。「一億総活躍」が声高に語られるほど活躍したくても活躍できない社会的弱者にはプレッシャーになりはしないか。そのことがひいては弱者排除に繋がりかねない危惧すらある。
 障がいを負った二女を持つ菊池氏はそうした危惧も念頭にあったのか、「1億総活躍」に替わる言葉として提案したのが「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」という言葉である。「社会の中から排除する者をつくらない、全ての人々に活躍の機会があるという言葉です」と述べている。なかなかどうしてたいしたものだ。タレントのお飾り議員などではない。
 地域でもあらためてソーシャルインクルージョンというこの言葉が問われているように思う。自治会などの地域組織への加入者が減少し加入者の負担が増えている。そんな苛立ちから加入者は非加入者を問題視し、ともすれば排除の論理に傾きがちである。その流れは地域コミュニティの溝を増やし深めることにほかならない。排除でなくむしろ「包み込み」こそが地域社会の原点ではないか。そうした風土の上で「加入しない」あるいは「加入できない」事情をひとつひとつ丹念に除去する他はない。

寒梅2016年01月30日

 酷寒の早朝、雨戸を開けた時、庭先の薄桃色の可憐な花びらが目とまった。剥き出しの枝先に身を縮ませるように咲いた寒梅だった。ピンクの蕾がそこかしこにひっそりと息づいていた。
 この季節に我が家にこんな風景があったのか。何気ない日常の中で垣間見た健気な息づかいが小さな感動を運んだ。そのことに気づいた時、齢(よわい)を重ねるという言葉がよぎった。