銀杏の実拾い2010年11月11日

 散歩道の有馬川南行きコースに下山口会館横の遊歩道がある。会館西側の遊歩道に沿って二本に幹が分かれた大イチョウが立っている。晩秋ともなると黄色に染まった葉っぱの絨毯に混じって銀杏の実が強烈な臭いを放ちながら転がっている。
 今日、外出から帰ると我が家にその強烈な臭いが漂っていた。すぐそばのフィットネス・クラブに通っている家内が友人たちと銀杏の実を拾ってきたという。早速皮を剝いで天日干しにしている。半乾きの銀杏の実がざるに盛られて乾燥されている。晩秋の「銀杏の実拾い」の歳時記を記しておこう。

公民館講座の講師アンケート2010年11月12日

 明日、4回シリーズで開講してきた山口公民館講座「山口風土記」が最終回を迎える。過去3回は公民館会議室でのプロジェクターによる室内講座だった。明日はその総集編ともいうべき屋外散策である。山口は古来より日本最古の湯山(有馬温泉)のすぐ近くの街道筋の街として発展した。散策はその街道の街・山口の旧街道を訪ねる。最終回の講座では受講者に講師からのアンケートをお願いしようと思った。
 過去三回の主催者による講座アンケートで、この講座の受講者の大多数の方が、私と同じ新興住宅街在住のリタイヤ世代であることを知った。終の棲家として山口の新興住宅街に移り住んで多くの年月を刻んだ。気がつけばリタイヤを迎え、あらためてこの町のことが目につき気になりだした。リタイヤ後のこの町での過ごし方を考える時期でもある。そんな時に、今のニーズに適ったこの町の自然、歴史、風物をガイドする公民館講座を知った。一度顔を出してみるか・・・。受講者の多くが、そんな気分だったに違いない。
 5月に発行された市の広報誌「宮っ子・山口版」でHP「山口風土記」の発信者として紹介された。その際、無謀にも「山口ボランティア・ガイドのサークル誕生が夢」と語ってしまった。関心の深い得意な分野で地域に貢献することが老後の私のライフワークである。HP山口風土記から公民館講座開講に進んだ先に、仲間の皆さんとボランティア・ガイドを立ちあげるというのは必然的でもあった。
 『知って、歩いて、好きになる山口』をキャッチコピーに講座を開講した。この趣旨にどこまで賛同頂けたかは知る由もないが、受講者の皆さんにこの町のボランティア・ガイドへの関心がどこまであるかを訊ねてみたい。それが講師アンケートの本意である。ボランティア・ガイド立上げのきっかけになるだろうか。内心ビクビクもののアンケートではある。

第4回公民館講座「山口の旧街道を歩く」2010年11月13日

 1時半から2時間かけて約30人の皆さんが山口旧街道を散策した。公民館講座「山口風土記」の第4回屋外散策講座だった。一般受講者24名を私と7名の公民館活動推進員の皆さんが4班に分かれて手分けしてガイドした。参加された皆さんには、事前に作成した「散策マップ」と「見所ポイント」を整理した資料(画像)を配布した。
 散策コースは、金仙寺口バス停南の十王堂橋を起点に、山口を南北に走る旧街道を名来の正明寺まで歩く約6kmの道のりだ。十王堂橋の道標、永蓮寺山、上山口のクス、古民家の街並み、細木邸、明徳寺、旧有馬鉄道架橋跡、竹本加治太夫碑、銭塚地蔵、下山口墓地の石碑、明治橋、山口村道路元票、土祖神、御旅所、宮前通り、公智神社、駅前橋、旧播磨街道、光明寺、桜トンネル、下山口公園桜並木、今西邸、正明寺等々・・・山口の見所が集中しているコースである。
 ゴール地点の正明寺境内で、アンケート記入をお願いした後、簡単なミーティングがあった。講師としての締めくくりの挨拶を求められ、次のような話しをさせて頂いた。
 「ご覧頂いたように山口には数多くの史跡や寺社や銘木や古民家などが残されている。これらの貴重な風物は山口に今尚残る農耕文化と密接に関わりながら継承されてきた。それらは秋祭りや八朔大祭やどんと焼きなどの農耕社会の伝統行事の舞台でもある。古民家の風情は住む人の不便さの上に維持されている。今日見聞した風物の多くが山口の昔からの在住者の大変な苦労と負担の上に築かれていることを理解してほしい。今日の参加者の大多数を占める新興住宅街の住民のそうした理解を前提にして初めて、この講座が新旧住民のかけはしになると信じている」。

講師アンケートの集計結果2010年11月14日

 今朝、公民館講座「山口風土記」の担当推進員のFさんが来られた。昨日の第4回講座のアンケートを持参して頂いたのだ。後日回答したいとされた方を除く21名から回答を頂いた。早速、集計した。
 最も気になっていたのが講師アンケートのボランティア・ガイドについての受講者の関心度だった。「今回の山口旧街道散策などのコースで地域住民によるボランティア・ガイドが検討された場合、あなたは関心がありますか」という設問に「1、特に関心はない 2、関心があり参加を検討したい 3、ぜひ参加したい 4、ボランティア・ガイド創設に賛同し協力したい」という選択肢の回答を用意した。その上で2~4を回答頂いた方で今後の連絡をさせてもらってもよい方には、氏名、年齢、性別、住所、電話番号の記入をお願いした。
 集計結果は予想を上回る嬉しい内容だった。なんと16名もの方が関心を寄せられた。「関心があり参加を検討したい」が10名、「ぜひ参加したい」が2名、「創設に賛同し協力したい」が4名という内訳だった。14名の方からは具体的連絡先も記載して頂いた。
 11月10日発行の西宮市政ニュースの一面トップには、西宮神社をバックにしたボランティア・ガイドの背景写真の上に「ボランティア活動 始めてみよう」の見出しが踊っていた。市政でもボランティア活動やボランティア・ガイドが重要な課題となっているようだ。
 ボランティア・ガイド立上げというテーマに向けてひとまず幸先のいい情報が得られたと言える。

ヘルシンキからバルセロナへ(スペインの旅初日)2010年11月15日

 スペインの旅の出発の日である。朝7時過ぎにマイカーで自宅を出て関空に向った。ナビ推奨ルートの中国道から阪神高速の池田線、湾岸線を抜けて関空に着いたのは9時過ぎだった。旅客ターミナルの駐車サービス会社指定のスペースでマイカーを預ける。事前ネット予約で何日預けても一律5千円という低料金システムだ。4階出発ロビーのトラピックス看板前で添乗員からチケットを受取る。1ユーロ117円の円高レートで両替をし、出国手続きを済ませて搭乗ゲートに向う。
 今回のツアーの楽しみのひとつはヘルシンキまでの往復のビジネスクラス利用という点である。早速その恩典に浴すべく搭乗ゲート最寄りのラウンジ飛鳥に入る。ゆったりした寛ぎスペースでフリードリンクやスナック類のサービスが提供される。セルフサーバーで本日最初のビールを味わう。11時50分発のフィンランド航空便の搭乗時間となった。ビジネスクラスの乗客には真っ先に搭乗案内がある。機内最前列ゾーンの30席ばかりのビジネスクラスの最前列の席だった。幅広のアームレストのついたコックピットユニットに多様に機能するスライドシートが納まっている。着席してアームレストに埋め込まれたモニターを出しリモコン操作で映像をチェックしながら何となくガンダムの操縦席を連想した。離陸後しばらくすると最初の機内食が運ばれる。何しろワンランク上の機内食の筈である。期待は大きい。和風総菜盛合わせ、和蕎麦、オニオンスープ、野菜サラダ、牛フィレグリル、アイスと果物といったメニューだった。エコノミーとの違いは感じられるものの期待の大きさには及ばない。その6時間後にも提供された軽食も同様の感想だった。
 関空離陸後10時間30分ほどで乗り継ぎ空港のヘルシンキに着いた。入国審査前で初めて今回のツアー仲間の顔合わせとなる。8組16名のリタイヤ前後のご夫婦ばかりである。その後空港内を1時間ばかり散策後、現地時間17時25分発のフィンランド航空機でバルセロナに向う。ここからはいつものエコノミーシートである。狭い隣席の現地ご婦人の強烈な香水の臭いが鼻につく。夕食は紙容器に入ったポテトサラダとパンという軽食機内食だった。約4時間のフライトで現地時間20時20分にバルセロナ空港に到着。関空離陸後17時間の旅だった。
 迎えの大型バスに乗車すること約1時間、現地時間の22時20分頃宿泊先の「ホテル・フロント マリティム」に到着。悲劇はチェックインを済ませ部屋でシャワーを浴びてホッと一息した時に起こった。変圧器不要の100~240V対応のデジカメ充電を終え、携帯電話の充電機を持参の変圧器と変換プラグでコンセントに差し込んだ。途端にバチッという音とともに青い火花が散って部屋中の電気が消え暗闇の世界となった。シャワーを浴びようとしていた家内の叫び声が聞こえる。入口の電源入力口のカードキーを再挿入するが変化なし。添乗員に連絡しようとルームナンバーメモを探すが暗闇で見当たらない。やむなくフロントに行き、ブロークンイングリッシュで助けを求める。バッテリー、コンセント、インサート、オールライト、ダウン、パハップス、ブレイカー、シャットダウン・・・とまあ~思いつくままに単語を並べたわけだ。ようやく二人のフロンとマンが部屋に同行しいくつかチェックして帰って行った。しばらくしてキーカードを電源入力口に再挿入するとようやく灯りが戻った。部屋のおちたブレーカーをフロントで入れ直してくれたに違いない。かくしてツアー初日の思わぬハプニングを乗り越え日付の変わった頃に眠りについた。ツアー中二度と変圧器使用を試みなかったことは言うまでもない。

ガウディーのバルセロナ(スペインの旅二日目)2010年11月16日

 スペインツアー二日目の朝をバルセロナのホテルで迎えた。バルセロナはイベリア半島の西の端に位置し地中海に面したスペイン第二の都市である。ホテル前には地中海が広がっている。朝食前に家内とホテル周辺の散策に出かけた。ヤシの並木の向うの日の出前の地中海の海岸線と水平線が美しい。
 8時半、バルセロナ観光に向けて52人乗り大型バスが出発する。添乗員、現地ガイドを含めて総勢18名である。ほとんどのご夫婦が2列席にひとりで席を占め旅先のかすかな孤独を確保する。ツアー最初のスポットはあの余りにも有名なアントニオ・ガウディーのサグラダ・ファミリア聖堂だった。下車したバスの目の前にその迫力のある威容が聳えていた。今尚建造中の建物周辺には幾本もの高いクレーンが取り付いている。命綱をつけて壁に張り付いた職人たちの姿すら遠望できる。四年前にひとり旅した娘は塔の上方まで階段を上ったと言っていた。ところがガイド情報では「強風で今日はエレベーターが休止中で昇れない」とのこと。還暦過ぎのツアーグループに階段利用の選択肢は用意されなかったようだ。開場直後のまばらな人影の堂内に足を踏み入れた。そこは予想を越えた巨大で厳かな白亜の空間だった。いくつもの長大なアーチが鮮やかなステンドグラスの窓を要して空間を形づくっている。おりしも地下聖堂では地域の信徒たちを前に朝のミサが営まれていた。地下展示場にはガウディーの肖像をはじめ聖堂の設計図や完成後の石膏模型が陳列されていた。
 続いてガウディの手になるグエル公園を訪ねた。独特のカーブで縁取られた中央広場を降りると、広場が多くの列柱で支えられていることに驚かされる。列柱が支える天上のモザイク画が美しい。公園のあちこちで大道芸人たちがパフォーマンスを演じている。ガウディー作品が市民に溶け込んで息づいていた。車窓からカサ・ミラやカサ・バトリョなどのガウディー建築を眺めた後、コンサートホールとして今尚現役の建築物であるカタルーニャ音楽堂の巨大で壮麗な外観を観た。
 昼食はヨットハーバーに隣接したシーサイドレストランのシーフード・パエリアだった。サングリア(赤ワインのオレンジジュース割)、カヴァ(シャンペン)の飲物に野菜サラダの前菜の後、パエリアが運ばれる。イカやホタテが混ぜ込まれたパエリアに大海老やムール貝が載せられている。昼食を終えてバルセロナを後にした。バルセロナ観光を終えて感じたのは1852年生まれのガウディーというひとりの偉大な建築家の存在感である。未完のその作品は今尚後継者たちに引継がれ、その業績は世界中から観光客を集めている。
 バルセロナから地中海沿いに南西100kmほどの所に古都タラゴナがあった。高速道路を走るバス車窓からローマ時代の水道橋が見えたと思ったらすぐに町に入った。町の南端の岬で下車した先に「地中海のバルコニー」と呼ばれる展望広場があった。まさしく絶景だった。東側の眼下にはローマ時代の円形競技場があり、南にはコバルトブルーの地中海と真っ青に澄み切った空が地平線で区切られていた。
 再び高速道路を駆って長距離移動となる。地中海沿いを南西に3時間半ほどで二日目の宿泊地バレンシアに到着。ホテルはベストウェスタン・アルブフェラというバレンシア郊外の広大なショッピングゾーンの一角にあった。チェックイン後、周辺を散策しカルフールの巨大店舗に入り込んだ。売り場から出ようにもレジで遮断され買物客以外ははるか向うの入口まで戻らねばならない。やむなくお土産チョコを少し買ってレジに並んで驚いた。前の二三人の客のショッピングカートには山のような買物が積まれていた。時間を気にしながらようやくカルフールから脱出した。ホテルの夕食を済ませ9時半頃に自室に戻った。二日目の夜は何事もなく無事安らかな眠りを獲得した。

バレンシアからドン・キホーテの舞台へ(スペインの旅三日目)2010年11月17日

 スペインツアー三日目の朝をバレンシア郊外の巨大ショッピングゾーンの一角にあるホテルで迎えた。部屋の窓から見える光景は現役時代に訪ねたアメリカのショッピングモールと見まがうものだった。
 昨日同様のアメリカンブレックファーストを済ませ、朝8時にホテルを出発しバレンシア中心部に向う。バレンシアは人口80万人を擁するスペイン第3の都市だ。車窓からは未来都市を思わせる近代建築群が現れては消える。中心部のローマ建築風の橋の手前で下車し橋の袂のセラーノスの塔の門をくぐって旧市街に入る。中世を偲ばせる街並みをしばらく歩いた先に周囲を中世風の建築に囲まれた趣きのある広場があった。その一角のカテドラル(大聖堂)では朝のミサが行われていた。カテドラルの裏手にはゴシック様式の美しいミゲレテの塔が聳え立っていた。現地ガイドが先導する入り組んだ路地の先にラ・ロンハ(旧商品取引所)があった。開場前の時間帯で館内入場は叶わなかったが、イスラムの古城跡にたてられたという建物は壮大で優美な外観を有していた。ラ・ロンハの斜め向かいに中央市場があった。ここで30分ばかりの自由時間が設けられ各自で市場内を散策した。バレンシア市民の台所ともいうべき中央市場は幾筋もの通路が設けられた広大な建物だった。各店舗には生鮮食品を中心に豊富な品物で埋められていた。
 バレンシアを後に西に向ってドン・キホーテゆかりの地であるラ・マンチャ地方を目指した。アラビア語の「乾いた大地」を意味するラ・マンチャ地方に入ると、車窓の光景は見渡す限り延々と続く赤茶けた荒野に一変する。途中トイレ休憩を挟み3時間半の道のりだった。途中から窓に雨粒が流れ出す悪天候に変わってきた。1時頃に風車の立ち並ぶ村「カンポ・デ・クリプターナ」に到着した。丘の上の駐車場からぬかるみと雨脚を避けながら風車群をめざす。鉛色の空の下ながら白い10基の風車群はさすがに風情ある眺めだ。一基の風車では内部を公開しており二階の部屋には羽根に直結した軸を巨大な木の滑車で回転させ轢いた粉を1階に落とすという仕組みが見て取れた。
 村から1時間ばかりの所で昼食をとる。荒野の中に塀に囲まれてポツンと佇むレストランだった。料理は「ドン・キホーテの結婚式メニュー」と謳われた鶏肉団子のシチューをメインとしたものだ。塀の外でロバ、豚、七面鳥、鶏などの家畜が放し飼いされているのどかな光景を目にした。今日の宿泊地グラナダを目指して再び長距離移動が始まる。まっすぐ南に向けて途中二つの山越えのあるルートである。夜7時半頃にようやくグラナダの宿泊ホテル「アリサレス」に辿り着いた。ホテル・レストランの夕食中に黒い民族服で身を固めた4人の太っちょ男性グループによるギターと歌唱の演奏が始まった。同席のイタリア人高齢者グループの陽気なリアクションがひと際激しくなった。狭いスペースを見つけては踊りだす。海外ツアーでしばしば感じる民俗性の違いである。夕食後に予定されていたオプショナルツアーのアルハンブラ宮殿夜景観賞はパスして部屋に戻り早目の就寝についた。

アルハンブラ宮殿と白い村ミハス(スペインの旅四日目)2010年11月18日

 昨夜の早目の就寝が今朝の早朝の目覚めとなった。7時の朝食までホテル周辺の夜明け前の静かな林の中を散策をした。8時20分、現地ガイドの日本人女性まちこさんの案内で徒歩で世界遺産・アルハンブラ宮殿観光に出発した。ホテルはアルハンブラ宮殿の建つ丘陵地の南東の端に位置していた。ほどなく城壁が現れ、いよいよスペイン・イスラム文明の至宝・アルハンブラ宮殿が姿を見せ始めた。
 アルハンブラ宮殿はイベリア半島最後のイスラム王国でグラナダを首都としたナスル朝初代王によって城塞都市アルハンブラの城内に13世紀中頃に着工された。それはキリスト教徒によるイベリア半島のイスラム勢力一掃の闘い(レコンキスタ=再征服活動)が頂点を迎え、イスラム勢力の本拠地であるゴルドバ、セビーリャが相次いで陥落した時期でもあった。そうした中でもナスル朝の歴代王は賢明な治世と巧みな外交で生き残り、王宮建設は継承され13世紀中頃にイスラム芸術の結晶ともいうべき宮殿を完成をさせた。ところがその栄華も15世紀末に終焉を迎える。1492年、レコンキスタの勢いに抗しがたいと判断した最後の王によってカトリックの女王イサベルの前にアルハンブラ城が無血開城され、ここにレコンキスタが完遂された。
 現地ガイドまちこさんのこんな背景説明もおりまぜたガイドを聞きながら城塞から宮殿へと進む。宮殿入口からメスアールの間、メスアールの中庭と進み中心部のコマレス宮に至る。大きな長方形の池に満面の水を湛えたその中庭は宮殿の代表的スポットとして余りにも有名である。ライオン宮の修復中の中庭から12頭のライオン像が宮殿内に移され間近に眺められた。二姉妹の間の天井の鍾乳石飾りも見事なものだった。宮殿を出て長い散策路を歩き城外の離宮フェネラリフェに向った。細長い池を挟んで左右に花々が咲き乱れる美しい中庭があった。出口に向う途上では観賞してきたばかりの宮殿の優雅な全貌を背景にツアー仲間たちと集合写真に興じた。
 寄木細工の店に立ち寄った後グラナダから西にミハスに向った。地中海を見下ろす山の中腹に開かれた白い街並みの小さな村に着いたのは1時頃だった。何はともあれ昼食だ。添乗員さん紹介の展望とおいしさ兼備のレストランを訪ねた。確かに南に大きく開かれた窓からは白い街並みと青い地中海が果てしなく広がっていた。料理はホタルイカ、イカ、エビ、白身魚などの海鮮のカラアゲだった。できたての熱々の料理に納得。昼食後は30分ばかりの自由散策となる。目抜き通り突き当たりの広場の小さな闘牛場、教会、展望台を巡った後、人気スポットのサン・セバスチャン通りを歩いた。石畳の坂道の両側に飲食の店や民家の白い家並みが美しい風情を作っていた。通りの先を左右に横切る路地があった。人通りのない静かなまっ白な路地の美しさに息を呑んだ。
 ミハスからは天気に恵まれれば地中海対岸の北アフリカが望めるという。地図で確認するとミハスの南西100kmの岬の町アルヘシラスから14km先にはジブラルタル海峡を隔ててアフリカ大陸が広がる。スペイン史を語る上でのキーワードのひとつがレコンキスタである。イスラム教徒とキリスト教徒との壮絶な闘いの歴史である。ヨーロッパの西の端の国スペインでのイスラムとの攻防に違和感があった。違和感を解きほぐす鍵をこのミハスの地で見つけた。ジブラルタル海峡の存在だった。中世以降の海洋技術はこの狭い海峡を容易に越えさせた。北アフリカ一帯を勢力下に治めていたイスラム国家が8世紀初頭以降、大挙してジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に押し寄せたのだ。レコンキスタ完遂後は逆にスペインがジブラルタル海峡対岸の町セウタを支配しスペイン領として現在に至っている。スペインを訪ねミハスに遊んで初めて実感した知識というほかない。
 ミハスを後にし宿泊地コルドバに向った。内陸部に向って北上しバス2時間半の道のりだった。「アイレ ホテル コルドバ」は旧市街郊外の北に位置する閑静な住宅街にあった。プールやテニスコートを備えた広大な庭園の中に建つリゾートタイプの高級ホテルのようだ。バイキング形式のホテルでの夕食を終え、早々にベッドについた。

メスキータとフラメンコショー(スペインの旅五日目)2010年11月19日

 コルドバ郊外のリゾートホテルの朝だった。朝食前の周辺散策は閑静な高級住宅街の佇まいを目にしながらの町歩きとホテル敷地内の庭園散策だった。朝食を済ませバスで世界遺産コルドバ歴史地区に向う。
 旧市街南側のローマ橋たもとで下車し歴史地区観光が始まる。石造りの風情あるローマ橋を渡ると目の前に中世の街並みが広がっている。両側を巨大な建物が連なる緩やかな坂道をのぼった先にメスキータの入口があった。スペイン人女性の現地ガイドに先導され堂内に入る。メスキータとはスペイン語でモスクを意味する。キリスト教の大聖堂(カテドラル)とイスラム教モスクが同居する不思議な建造物である。ともに排他的な一神教でありながら最終的に勝利したキリスト教が、建物を破壊することなくイスラム様式の建物を活用しその中に聖堂を組み入れたことの寛容さの不思議を思った。破壊しがたい優美さと巨大さがメスキータを存続させ世界遺産たらしめたのだろう。堂内の広大さと850本もの円柱が織りなす空間の迫力は圧倒的である。天井にはくさび型の白い大理石と赤レンガが交互に組まれたアーチが限りなく広がっている様はまさしくイスラム特有の美しさだ。4度にわたる拡張工事の果てに実現された建物にはその都度の文化の違いをもたらしている。他方でこの建物はカトリックの大司教が今尚在住する大聖堂でもある。堂内の中央祭壇はそれにふさわしい格式ある荘厳さを漂わせていた。メスキータこそはスペインにおけるイスラム教徒とキリスト教徒との長い攻防の果ての到達点を象徴するものではないかと痛感した。
 メスキータ北側のユダヤ人街の迷路のような「花の小道」を歩いた。かってイスラム帝国の経済を支えたユダヤ人たちはレコンキスタ後は追放令によりこの町から姿を消した。小道ごとの家並みの白壁には色とりどりの花の子鉢が飾られ、路地のあちこちにはパティオ(中庭)が設けられている。路地の先の空間にはメスキータの尖塔が見えかくれする。旧市街の一角の洞窟のような構えの店で昼食をとった。ソパ・デ・アホ(ニンニクスープ)と鶏肉料理だった。1時頃、ローマ橋たもとで待つバスに乗車し最後の訪問地マドリッドに向った。
 コルドバから首都マドリッドまでは400kmに及ぶ長距離移動だ。二回のトイレ休憩を挟み約6時間の道のりだった。二度目のラ・マンチャ地方での休憩はローカル色豊かな小さな村のレストランと土産物を扱う店だった。背後の丘には風車が建ち並び、村の小さな教会そばの入口にはドン・キホーテのモニュメントが建っている。マドリッドのホテルは今回のツアーの売りのひとつである5つ星のデラックスクラスの「ミラシェラスイートホテル」だ。チェックインした部屋も寝室、リビング、浴室、洗面所がそれぞれ独立した広いスイートルームだった。
 8時過ぎにオプショナルツアーのフラメンコディナーショーに出かけた。案内されたのは中央壁側にフローリング舞台のあるショーパブ風のレストランだった。壁の全面がアラブ風のモザイク模様で覆われている。タパス料理(小分けされたおつまみ料理)のディナーが始まった。生ハム・サラミ・チーズ盛り、イカリング、じゃがいものスペインオムレツ、鰯の揚げ物などが次々出てくる。さすがにこの頃になるとオリーブオイルベースのスペイン料理の同じような味付けが鼻についてくる。1時間ほどのディナー終盤からフラメンコショーが始まった。フラメンコは歌とギターと踊りが三位一体となった民俗芸術だ。最初のグループは二人ずつの男性の歌い手とギタリストに5人の女性ダンサーだった。ダンサーがソロやグループで舞台狭しと全身を使って情熱的なリズムを刻む。なかでもメインダンサーの均整のとれたボディーを駆使した激しいタップは圧倒的な迫力で観客に迫った。オーレッの掛け声を観客の誰もが惜しみなく贈っていた。続いて男性ダンサーのソロ、最後に真打ちとおぼしきベテラン女性ダンサーで締めくくられ11時頃にショーが終わった。
 日付が変わる頃、マドリッドの最初の夜を豪華なスイートで眠りに落ちた。

プラド美術館と古都トレド(スペインの旅六日目)2010年11月20日

 スペインの首都マドリッドでの初めての朝だった。スイートルームの目覚めはすこぶる快適だった。早朝散策を済ませ豪華ホテルの楽しみな朝食に向った。レストランの環境こそ優雅だったが食事内容にそれほどの差があるわけではないと知らされた。どのホテルにも共通するハムソーセージ、スクランブルエッグ、サラダ、フルーツ、パン、飲物がメインのアメリカンブレックファーストである。
 9時に大型バスでマドリッド観光に出発する。バスには今日一日の現地ガイドの「ようこさん」という50代後半の日本人女性が同乗した。最初に訪ねたのはスペイン王家のコレクションを中心に展示する世界有数の美術館であるプラダ美術館だった。膨大な数の展示品を限られた時間で観賞するのは至難の業だ。そこで現地ガイドのレベルとノウハウが問われる。その点我がようこさんのガイダンスは見事だった。プラド美術館が誇る三大画家であるグレコ、ベラスケス、ゴヤの作品に絞り込んで年代順にガイドした。グレコの「聖三位一体」「羊飼いの礼拝」「胸に手を置く騎士」の三作品を前にして、それらが描かれた当時の時代状況やグレコの境遇などを織り交ぜながら語られる。同時に個々の作品の構図や色調などにも触れどこに注目すべきかも教えられる。同様のガイダンスでベラスケスの「槍(ブレダ開城)」「ラス・メニーナス」「織女たち」を観賞し、ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」「カルロス4世の家族」「1808年5月3日の銃殺」を観賞した。個人的に最も興味深かったのはベラスケスの「ラス・メニーナス」だった。キャンパスの中の皇女マルガリータを中心に11人の人物の多彩な描き方を通してひとつの奥行きのある小宇宙を提示している。それぞれの人物はこの作品を観る者を逆に見つめ意識している様がありありと見て取れる。絵画の表現力の凄みをあらためて教えられ観賞の視点を学んだ。
 美術館前のブランド物の服飾雑貨の店に立ち寄った。家内はここで先頃スペイン旅行から帰国したばかりの近所の知人お勧めのスチームケースLekueを買い込んでいた。その後市内観光となる。スペイン広場を訪ねた。ドン・キホーテの作者で16世紀スペインが生んだ大作家セルバンテスの没後300年を記念してつくられた広場である。中央モニュメント前にセルバンテスの石像がドン・キホーテとサンチョ・パンサの銅像を見下ろすように建てられている。続いて王宮に行く。広大な白亜の宮殿はマドリッドの高台の西の端に18世紀中頃に建てられた。2700もの部屋があり現在も公式行事に使われている。正面の広場には王宮玄関を背にするようにベラスケスの絵画をモチーフにした見事な騎馬像が立っていた。巨大な像を後足二本だけで台座に固定する技術は当時としては希少なものだったようだ。
 午後は自由散策組とオプショナルツアー組に分かれた。二組を除く14名がオプショナルツアーの古都トレド観光に出発した。マドリッドの南約70kmのトレドまで約1時間の道のりだった。三方をタホ川に囲まれた旧市街は、16世紀中頃にマドリッドが首都とされるまで歴史的にもイベリア半島の政治、文化、経済の拠点であった。それもあってか旧市街全体が世界遺産に指定されている。はじめにタホ側南の展望地で下車し中世にタイムスリップしたかのような旧市街全体の絶景を望んだ。旧市街に入り昼食をとった後、散策観光となる。まず旧市街の中心にデンと位置するフランス・ゴシック建築のカテヂラル(大聖堂)を見学。一歩堂内に入ると丸いステンドグラスや高い円柱に支えられたアーチ型の天井が幾重にも重なる厳粛な空間となる。堂内一角の宝物室の聖体顕示台や中央の聖歌隊席がこの聖堂の司教座聖堂という格式の高さをうかがわせている。続いてグレコの傑作「オルガス伯爵の埋葬」を展示するサント・トメ教会を訪問。ギリシャクレタ島生まれのグレコは後半生をこのトレドで送った。観光の後、トレド伝統工芸の象嵌細工の製造販売の店に立ち寄った。
 バスでマドリッドへの帰路についた。夕食会場はマドリッド繁華街にある生ハムで有名なレストランだった。生ハム、シーフードパエリア、メルルーサの煮込みなどが出てくる。ツアー初日だったら感動的なメニューだったに違いないが現実は6日目のスペイン料理にヘキヘキしていた残念な時期の料理だった。9時頃ホテルに戻り、スペインでの最後の眠りについた。