大災害の一報2011年03月11日

 山口ホールでの3時過ぎからの知人たちとの懇談を夕刻に終えた。大災害の一報を知ったのは、その直後だった。知人のひとりが共通の知人に連絡を取った。この後の懇親への合流の誘いだった。
 電話中の知人の会話内容が異常事態を思わせるものに変わった。通話を終えた知人が「大震災の発生」を告げた。すぐに山口支所のカウンター前のテレビを見に行った。マグニチュード8.8ものかってない大震災だった。海岸近くの多数の船が漂流し、ぶつかり合っている。すでに何隻かは転覆している。映画やドラマの光景ではない。現実に発生している悲惨な光景が目前にあった。
 阪神に在住する者にとっては、忘れがたい悪夢の光景だった。

大地震翌日の歴史調査団報告会2011年03月12日

 今朝未明の3時半頃に一度目覚めた。昨晩の大震災の報道が潜在意識にあったののだろうか。眠れぬままに寝室のテレビを映した。4時前だった。アナウンサーの叫びに近い声が襲った。新潟、長野方面の震度6を越える大地震の速報だった。日本列島は地震列島だったと思い知らされながらいつの間にか眠っていた。
 一夜明けた朝、すぐにテレビをつけ、新聞に目を通した。目に入り耳に伝わる情報は全て「東日本巨大地震」と名付けられた大災害の被害の実態を告げていた。目を覆うばかりの惨状である。東北地方の太平洋岸の各都市が壊滅的な被害を受けている。津波被害が凄まじさが犠牲者と被害の巨大さを物語っていた。建物の倒壊延焼による犠牲者と被害が大きかった阪神大震災との顕著な違いである。
 刻々と告げられる情報を前に自身は、温かい屋内でぬくぬくと過ごしていることの後ろめたさを覚えずにはおれなかった。
 
 そんな気持ちを押して自宅を出た。西宮市郷土資料館で開催される「西宮歴史調査団 活動報告会&会員登録会」に出席するためだ。さくらやまなみバスをJRさくら夙川駅で下車し、9時前に会場に着いた。9時からプロジェクターによる4班の平成22年度活動報告があった。「街道」「地蔵」「石造物」「橋梁」の4班である。歴史調査団の実際の活動状況が良く分かった。あわせて調査団の「文化財調査ボランティア」という性格の実態も把握できたように思った
 休憩中に過去3年分の年度毎の調査結果をまとめた「年報」を戴いた。11時から平成23年度の会員登録会に切り替えられた。冒頭、この活動の資料館側の責任者とおぼしき学芸員から活動の考え方等の話しがあった。「調査団が目指すものは『市民が書く市民の歴史』である。対象物の悉皆調査を通じて歴史が浮かび上がる。それこそが市民が書く歴史の成果だ」といった興味深い話だった。また登録文化財という制度の紹介があった。50年以上を経た歴史的、文化的、芸術的対象物の登録によるゆるやかな保護・保存の形態のようだ。調査団の調査対象物そのものだ。
 今年度は「石造物」と「橋梁」の2班について登録募集があった。20名ほどの応募者の内、4名だけが橋梁班を残りは石造物班に応募した。毎月第2土曜日に同じ会場で月例会が開催され、4月9日からいよいよ活動開始となる。当日は山口「さくらまつり」の日で出席は叶わないものの、石像班の一員としてまた唯一の北部在住者の調査員として1年間を頑張ってみよう。

未曽有の大災害で何ができるか2011年03月13日

 東日本巨大地震の実態と被害状況が刻々と明らかになりつつある。人災規模も、最終的には阪神大震災を上回るものになる懸念も想定されかねない。南三陸町の1万人の不明者情報に身震いするばかりの悲しさを覚えてしまう。
 今回の震災被害の特徴として津波被害に加えて原発被害の深刻さがクローズアップしてきた。大量の冷却水の確保が可能という事情から原発の多くの立地は海岸線に位置する。そう考えれば津波被害と原発被害はオーバーラップする。原発の在り方とともにその立地についても今後論議を呼びそうだ。
 反面でマグニチュード9と上方修正されたこの未曽有の大震災に、いち早く50数カ国の支援表明が相次いだ。アメリカや韓国などは既に支援活動に参加している。IAEAの事務局長も原発被害の深刻さを受けて専門的な立場からの支援の用意を表明した。こうした大規模災害に際して、立場や利害を越えた国際社会の支援の広がりに感謝するとともに、人類の叡智も捨てたものではないと思った。
 この大災害は、日本にかってない深刻な危機をもたらしている。この危機に際して政治の舞台でも、いち早く与野党党首会談が開かれ、政府の地震対策に全面協力することが確認された。首相と政府の強いリーダーシップで当面の危機的状況を乗り切ってほしい。中国の新聞の「地震発生後の日本人の秩序ある行動に敬服」との報道に励まされるものがある。被災地支援に向けた国民ひとりひとりの冷静でクレバーな対応が求められてる。危機に臨んでの一枚岩の力の発揮が日本人の美徳であると信じたい。当面できることは節電である。被災地を中心とした電力不足に向けての現実的な支援である。

司馬遼太郎著「この国のかたち 六」2011年03月14日

 司馬遼太郎著「この国のかたち 」の最終巻を読んだ。10年に亘って書き継がれた文芸春秋の巻頭随筆「この国のかたち」は、1996年2月12日の著者の死をもって未完の著作として終了した。絶筆の巻頭随筆「歴史のなかの海軍」の5回分と日本語の成り立ちについての考察「言語についての感想」などの随筆がおさめられている。
 「歴史のなかの海軍」は、作者の代表作でもある「竜馬がゆく」「坂の上の雲」の執筆に当たって取材し得られただろう知識をベースにした考察と思われる。幕末日本の唯一の海軍を率いた勝海舟と坂本龍馬の役割が鮮やかに述べられている。更に海舟は明治期の海軍建設の大功労者であった山本権兵衛に「海軍」を伝授した師匠でもあった。その後、日露戦争に至るまでの日本海軍はほとんど山本権兵衛一人の頭脳と腕力で建設されたとまで述べられている。列強の植民地支配の渦の中で、近代国家建設に乗り出したばかりの日本の「この国のかたち」をつくる上で日本海軍が果たした役割は大きい。
 「声明と木遣と演歌」も興味深かった。日本の声楽の始まりは、平安初期に空海や円任が唐からもたらした仏教僧が唱える「声明」である。平安期の声楽家である声明師が多くの弟子を育てその種子が各地で根づき、さまざまな形になって芸能化した。平家琵琶、謡曲、木遣りなどである。明治後の小学唱歌の普及が、声明式の神楽のうたを過去のものにした。かろうじて戦後の流行歌の演歌の中に声明の粘液のようなものをかすかに伝承している。
 この巻の最大の紙数を占める「言語についての感想」も力作だった。言語のもつ本質的な成り立ちの洞察に驚かされる。「文章というものは、社会的には共通性への指向をもつ。一つの社会が成熟するとともに、文章は社会に共有されるようになって、互いに似かよう」。そうした観点から福沢諭吉や夏目漱石の文章が、文章日本語の成熟のために果たした影響力が述べられている。
 
 「この国のかたち」全6巻を読了して、司馬遼太郎の巨大さを思い知らされた。あれほどの膨大で優れた作品を残しながら、尚日本の思想史の偉大な橋頭保を築いている。学生時代に丸山真男の「現代政治の思想と行動」を読んだ。「思想」というものに初めて向き合った著作だった。「この国のかたち」は、「日本の思想」を極めて分かりやすく、説得力ある形で述べた労作である。その点では丸山真男の業績に勝るとも劣らない作品といえよう。

災害支援活動の場2011年03月15日

 東日本大震災の影響がジワリと身近に及んできた。
 労働委員会事務局から連絡が入った。明後日に開催予定だった労働委員会のある事件の調査会議の中止連絡だった。東京在住の使用者代理人の弁護士が緊急の災害対応で来坂できなくなったとのことだ。
 次に「お気に入り」登録していた地元知人のブログで、4月9日予定の山口さくらまつりの中止を知った。震災被災者救援事業に切り替えるとのことだ。どんな事業内容になるか未定のようだが、少なくとも予定していたさくらまつりの巡回補導は必要なくなった。通常の日程での定例補導活動に切り替える旨5人の補導委員にメールした。
 さくらまつりは、私も所属する社会福祉協議会の山口支部の主催である。その前身は「山口フリマ」であり、そのフリマを生んだのは、阪神淡路大震災復興支援バザーだった。今回の未曽有の大災害を前に原点ともいうべき事業に今回は立ち戻ろうということのようだ。いち早いタイムリーな意思決定だと思った。同時に、自分自身の災害支援活動の場を見出した。大災害を前にどのような場でどんな形で関われるか迷いがあった。自分自身が関わる組織の支援活動にまさる事業主体はない。積極的に参加したいと思う。

安全地帯の日常の営み2011年03月16日

 朝11時過ぎに山口支所を訪ねた。娘に頼まれていた戸籍謄本と住民票取得のためだ。婚姻届や新居の不動産賃貸に要する書類だった。何でもない日常生活のひとこまである。・・・が、内心のざらついた気分は抑えがたい。「永年一緒に暮らしてきた娘がいよいよ巣立っていく。オヤジは今その片棒を担いでいる」、なんぞというなんとも愚かしい感情である。大災害の悲惨さや被災地の苦悩の前になんとちっぽけな感情だろう。
 その足でセンター前のバス停からさくらやまなみバスに乗車した。しばらくすると不気味な灰色の空から猛烈な粉雪が舞ってきた。三月中旬の何という寒さだろう。天気予報は東北地方の一段の冷え込みを告げていた。未曽有の大災害の被災者たちに降りかかる無慈悲な寒さを呪った。
 1時半から市の補導委員代表者会に出席した。会議の冒頭で東日本大震災の犠牲者を偲んで黙祷した。その後、たんたんと議事は進む。とはいえ阪神大震災では被災地のど真ん中の街の会議である。開会、閉会の挨拶ではそれぞれに被災地を思い遣る言葉がついて出る。出席者の想いを代弁する言葉である。
 被災地の惨状に想いを馳せても、遠く離れた安全地帯に住む私には平穏な日常の営みがたんたんと続いている。

残雪の風景2011年03月17日

 早朝ウォーキングは平穏に続いている。道すがらに昨日の春の嵐にも似た吹雪の名残りを目にした。今日もまた冷え込みが続いている。
 有馬川を名来橋で渡り、名来の集落の旧街道に入った。街道沿いの旧家の庭に鮮やかなピンクの梅が今を盛りと花弁をひろげていた。降り積もった雪の重みがうつむき加減に花弁を咲かせている。よく見ると花弁の上にシャーベットになった残雪があった。通常では見られない梅の盛りの季節の残雪の景色だった。
 その先には市の指定建築物でもある古民家がある。萱葺屋根に残る残雪がなんともいえない心なごむ風情を残していた。被災地を襲った猛吹雪を想いながら、贅沢すぎる平穏さが心に刺さった。

イマドキの卒業証書授与式2011年03月18日

 地元小学校の卒業証書授与式に地域の民生委員・児童委員として出席した。昨今はどこも卒業式とは言わないようだ。開会30分前に来賓控室に入った。私の隣の空席にほどなく着席したのは意外な人物だった。あるボランティア組織の在り方を巡って10ヶ月ほど前に攻防を繰り広げた相手方の中心人物だった。1年近い時の流れがある種の懐かしさをもたらしていた。共通の知人のホットな話題を材料に声を掛けた。しばらく屈託のない雑談を交わした。思いがけなく心の隅の重荷をひとつを降ろせた貴重な機会だった。
 会場の広い体育館にはおりからの冷え込みがそのまま伝わっていた。確か昨年は大型ストーブが焚かれていた気がする。ここ以上に過酷な被災地の人たちへの気遣いなのだろう。開式は列席者全員の黙祷で始まった。国家斉唱、校歌斉唱、来賓紹介とたんたんと進行する。通常あるPTA会長による来賓祝辞はない。メインの卒業証書授与となる。右代表が一人だけ授与される昔の方式は今はない。113名の卒業生ひとりひとりの氏名が呼ばれ、それぞれに校長から授与される。その次の「学校長の言葉」はさすがに少し時間が割かれた。
 あっという間の式の進行で最後の「卒業生の言葉」を迎えた。「こんなに早く終わっていいのかな」という懸念は杞憂だった。舞台前に着席している卒業生たちの数人が起立した。メッセージのワンフレーズずつを立っている生徒が順番に一人ずつ大きな声で口にする。その後巣立ちをテーマにしたような歌を全員が合唱する。メッセージと合唱が数回繰り返され、全卒業生が長い感謝と別れのメッセージを繋ぎ終えた。この間には列席した在校生代表の5年生によるメッセージと合唱も挟まれる。最後の合唱を歌いながら最前列の女の子のひとりが手にしたハンカチで涙を拭った。それはたちまち隣の女の子に伝播する。みるまに数人が泣き出した。30分を要する「卒業生の言葉」だった。そして卒業生退場となる。列を作っての一斉退場ではない。ひとりひとりが間隔をおいて参列者によく見えるようにゆっくりとしたいわば「退場式」なのだ。
 今どきの卒業証書授与式の実態をみた。あくまで卒業生が主役なのだ。しかもひとりひとりが主役なのだ。卒業証書を渡された時、メッセージのワンフレーズを口にした時、大勢の参列者の注視の中を退場する時、卒業するひとりひとりが恐らく初めての人生の主役を演じている。「これではモンスターペアレントに口実を与える隙はないな」などとは思うまい。これはこれであらたな教育の在り方のひとつの形なのだろうと納得した。
 それにしても深刻な原発事故の危機が続いている。場合によっては日本の将来にわたる広範囲な放射能汚染を招きかねない危機である。その真っ只中で巣立っていく子どもたちにどんな未来が待っているのだろうか。

平尻街道を踏破2011年03月19日

 2年前の5月に西国三十三所巡礼街道の一部である平尻街道をひとりで踏破しようとした。北六甲台の北側のかって平尻と呼ばれた茶店のあったところから名来の山中に分け入った。中心点の三叉路の傍らに地蔵型の道標があった。そこから先は木々に覆われ通り抜けが叶わず断念した。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2009/05/28/4326972
 10日ほど前に名来墓地前で「丹波街道」の案内ポールを見つけた(丹波街道は大坂と丹波を結ぶ街道で、平尻街道はその小さな一部を構成している)。ポールの矢印に従って北側から名来の山中に分け入ったところあっけなく道標まで辿り着いた。時間の都合でその日は道標のある三叉路の西側の道を愛宕神社前に抜けて帰路に着いた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2011/03/08/5728011
 そして今日、ようやく暖かい日差しとなり、平尻街道の初めての踏破を目指した。午後2時前に自宅を出て、平尻の茶店跡から山中に入った。山中入口には「丹波街道」の案内ポールが建ち、その先には山道が続いている。二年前にはトタンで仕切られ遮断されていた所だ。
 枯れ葉に覆われたゆるやかな坂道が続く。関西電力のネットフェンスの横を抜けると頂上付近にでる。鉄塔を左手に進むと再び両側をネットフェンスに囲まれた道となる。その先に三叉路があり左手にお地蔵さんの道標があり丹波街道のポールが建っている。
 三叉路を右手にとると再び三叉路となる。右手は確か鎌倉峡に至る道の筈だ。左手に進むと丹波街道のポールの向うに竹藪の美しい風景が見えてくる。竹藪を抜けた辺りからゆるやかな下り坂になる。旧街道整備のための竹の切り株が目につく。小川の名残りのようなぬかるみに10本ほどの丸太の橋が架けられている。左手が崖になった細い道をひたすら進む。ようやく左右の林が切れてきた。その先には田圃や街並みが見えてくる。農作業用のトラクターのワダチのある道に合流する。三叉路の左手に再び案内ポールが見えた。
 ようやく平尻街道を踏破した。この間約30分の道のりだった。名来墓地横の有馬川の東岸の歩道を南に下り、自宅に戻った。出かけてからわずか1時間の散策だった。

娘の新たな家づくりの手順が刻まれる2011年03月20日

 久々に我が家のリビングが大勢の来客で賑わった。娘の挙式まで1カ月余りとなった大安の日曜日である。私と家内のそれぞれの唯一の肉親である弟夫婦と義理の兄家族のお祝いの来訪が重なった。両親と舅姑は既に他界している。今や参列をお願いできる数少ない親族であり、当日の披露宴では席を同じくする花嫁側親族である。日頃は馴染みの少ない二家族の格好の事前の顔合わせの機会ともなった。家内の兄夫婦には娘とその幼子である孫娘も同行してもらった。娘にとってはただ一人の同性の従妹である。
 10時過ぎからしばらくリビングで寛いでもらった後、11時予約の昼食に出かけた。会場は今や我が家の定番となった三田の「山里料理 仁木家」である。1時間半ほどをかけたゆっくりした会食だった。絶好のロケーションのゆったりした個室での一味違った蕎麦会席は、こうした席のもてなしには格好の席として重宝している。
 婚姻という新たな家づくりには多くの手順が刻まれる。近い親族の祝いの来訪とそのもてなしもまた、そうしたセレモニーのひとつなのだろう。