塩野七生著「ローマ人の物語41」2011年11月04日

 1年振りの「ローマ人の物語」である。単行本なら最後の一冊「ローマ世界の終焉」が文庫本では上中下に分かれ、その上巻に当たる第41巻を読了した。私にとっては平成14年発行の文庫本「ローマ人の物語1」以来の9年間に及ぶ愛読書の最終巻の始まりだった。序文ともいうべき見開き頁に次のような印象的な記述があった。「亡国の悲劇とは、人材の欠乏からくるのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇である」。このシリーズを書き終えて痛感した著者の想いであるという。
 前巻では東西合わせた帝国全体を統治したテオドシウス帝が、ミラノ司教アンブロシウスの導くままに皇帝としての権力を行使して帝国のキリスト教国化を成し遂げた経緯が語られた。 この巻の物語は紀元395年のテオドシウス帝の死から幕を開ける。テオドシウスは死を迎えて東西を分担統治する二人の若い息子たちを、有能で忠実な右腕だった35歳の将軍スティリコに託す。ところが分担統治という皇帝の願いは、東方の統治を託された長子アルカディウスの側近たちによって東西分離という流れの現実化の前に裏切られることになる。
 この巻のタイトルの「最後のローマ人」とは西ローマ皇帝ホノリウスに終生忠実だった蛮族出身の悲劇の将軍スティリコのことである。実力者皇帝の死の直後の不安定さを突くように侵攻してきた蛮族がアラリック率いる西ゴート族だった。その西ゴート族の侵攻を、軍総司令官スティリコは幾度も退けて西ローマ帝国の防衛を果たす。とはいえ度重なる蛮族の侵攻に農民たちは耕作地を放棄し、城壁に囲まれた都市に流入する。帝国の国力の衰えは一層の防衛力の低下をもたらす。防衛力が低下したイタリア半島の防衛体制整備のためにスティリコは「毒をもって毒を制す」ことを決意する。即ち帝国北方のガリアを暴れ回る蛮族の制圧に同じゲルマン系の蛮族であるアラリック率いる西ゴート族を向けるという同盟協定の締結だった。
 紀元408年、スティリコは西ゴート族のアラリックとの同盟協定承認を元老院に求めた。元老院は紛糾したものの最終的には承認するが、同時に多くの元老院議員たちが今までと違った眼でスティリコを見るようになる。蛮族出身の軍総司令官に蛮族との共闘しか帝国を救う道はないと説かれ、同意するしかない苦い現実がスティリコへの憎悪に向わせた。
 更に同じ年の東ローマ帝国皇帝アルカディウスの死が西ローマ帝国皇帝ホノリウスとその忠臣スティリコとの亀裂を生む契機となる。東ローマ帝国の首都に行き幼い甥の統治を助けるというホノリウスの意向に、スティリコは今の困難な状況下での皇帝不在は許されないと反対する。これを契機に皇帝と忠臣の仲は一気に冷却化する。この関係を見越したかのように皇帝の側近たちが謀略をめぐらす。皇帝の軍事基地パヴィィア訪問を舞台にスティリコ支持の将軍たちが、皇帝側近たちの意を受けた将兵たちに暗殺されスティリコ派は一掃される。この事態を迎えスティリコは苦悩の末、皇宮のあるラヴェンナに戻った皇帝との会見に向う。もうひとつの軍事基地ボローニャの軍をスティリコ自ら率いれば敵対するパヴィア軍の制圧は確実だった。しかしそれは先帝死後の13年間を幼少の皇帝を守り帝国の防衛に専念してきた自身の生き方を否定し、ローマ帝国を倒すことになる。それはスティリコにとっては「ローマ人」でなく「蛮族」として行動することを意味した。苦悩するスティリコは最終的に自らの運命を皇帝ホノリウスに会うことに賭けた。ただ一人で皇宮を訪れたスティリコに対し皇帝は合おうともせず側近が国家反逆罪で死を宣告する。蛮族と共謀して帝国打倒を謀ったという罪である。ただちに斬首刑が執行され、スティリコは「ローマ人」として死を迎えた。
 スティリコの死後、スティリコ派の将兵たちは集団でローマ軍を去り、西ゴート族のアラリックのところに向った。彼らを迎えて1カ月後にアラリックはイタリア半島に侵攻する。408年から二度に及ぶアラリック軍の首都ローマの包囲の末に、410年8月ローマは陥落した。
 スティリコという稀代の人材を末期の西ローマ帝国は活用しきれなかったばかりか自らの手で抹殺した。その果てのローマ陥落だった。この巻の冒頭に記された著者の「亡国の悲劇とは、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起こる悲劇」の実像である。

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