宮水学園(塩瀬)「近松門左衛門の生涯」2012年07月20日

 一昨日、宮水学園・塩瀬講座「近松門左衛門の生涯」を受講した。講師は園田学園女子大学近松研究所長の乾安代さんという60前後の女性である。個人的には近松門左衛門という人物との関わりは少ない。わずかに10年前に国立文楽劇場で彼の台本の文楽「曽根崎心中」を鑑賞した位だ。そんなわけで今回初めてこの希代の浄瑠璃・歌舞伎作家の生涯に接した。
 冒頭、「近松門左衛門といえば尼崎市ゆかりの人物として著名だが・・・」と、私の常識にはないコメントが講師から切り出された。「実際には、生まれも育ちも終焉の地も尼崎ではないいんです」と続き、近松の出生が語られる。
 1653年の江戸初期に越前福井で藩士・杉森信義の次男として生まれ信盛と名づけられた。幼児に主君の転封で家族は現在の鯖江市に移住する。10年余りをここで過ごした後、浪人となった父に連れられ京都に移る。京都で近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治賀太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始める。賀太夫のために書いた「てんぐのだいり」がデビュー作と言われる。その後、賀太夫門下の義太夫節の創設者・竹本義太夫と出会い、竹本座の旗揚げ公演用に「世継曽我」を書く。その後の「出世景清」などの代表作で評判をとる。40代に入って上方歌舞伎の名優・坂田藤十郎との出会いから約10年間、歌舞伎作家として名をなす。藤十郎の座元引退とともに大坂に移住し、再び竹本座の専属作家として浄瑠璃の世界に戻る。「時代物(歴史話)」に対し「世話物」と言われるワイドショー的世間話を題材にした作品を初めて手掛ける。その代表作「曽根崎心中」が大ヒットする。晩年には17カ月のロングランとなった「国姓爺合戦」や「心中天の網島」「女殺油地獄」などのヒット作を次々に生み出す。享保9年(1724)、72歳で没す。
 近松と尼崎との関わりもあらためて語られた。大阪に移り住んだ近松は、船問屋・尼崎屋吉右衛門宅に逗留していた。船問屋・尼崎屋は尼崎久々知の広済寺を再興した日昌上人の実家である。 日昌上人と親しく交際していたことから、近松は広済寺の再興に大きく貢献する。没後は広済寺の墓所に眠り、今も近松の墓が残されている。
 1時間半の講座を受講して、文楽の観劇を通して垣間見た近松門左衛門という人物の実像に触れた。ブログを書くにあたってネットであらためて近松の情報も収集した。宮水学園という市のリタイヤ向け講座がセカンドライフの知的な部分を運んでくれる。