南部・有馬郡各村はどの藩に属していたか2012年07月17日

 五日前の山口公民館講座では同じ講師から「山口の歴史(近世編)」を聴いた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/12/6508338 また三日前には名来老人クラブ・おしゃべり会で橋本芳次さんの「お話し」を聴いた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/14/6510973 その時に橋本さん作成の「有馬郡南部領有状況(幕末)」の図解資料(左画像)を入手した。江戸幕末期の有馬郡南部の各村をどの藩が領有していたかを地図上で明示した貴重な資料だった。何とかこの資料をビジュアルに分かりやすく編集したいと思った。昨日、ソフトで掲載の画像データを作成した(右画像)。このデータを作成しながら幾つかのことが分かった。
 かつての有馬郡は、現在は北部の三田市、南部西側の神戸市北区、南部東側の西宮市に三分割されている。神戸市北区には道場、長尾、大沢、八多、有野、有馬の各町が、西宮市には山口、塩瀬の各町がある。
 ところが、江戸幕末期には道場町は生野、塩田、道場川原、日下部、平田の各村に、長尾町は下宅原、上宅原、上津下、上津上、岩谷の各村に、大沢町は市原、簾、日西原、中大沢、上大沢の各村に、ハ多町は中村、下小名田、上小名田、吉尾、柳谷、附物、深谷、屏風の各村に、有野町は、二郎、田尾寺、結場、馬場、岡場、切畑、西尾、堀越、唐櫃の各村に、山口町は名来、下山口、上山口、中野、船坂の各村に、塩瀬町は名塩、生瀬の各村に別れ、有馬町は湯ノ山村と呼ばれていた。郡という小さな行政単位のその半分のエリアに40カ村もの村があった。
 有馬郡北部各村の幕末期の領有がどうであったかを把握する資料は手元にない。そのほとんどの村々がおそらく三田藩に包含されていたのではないかと思われる。ただ有馬温泉に近い南部は事情が違った。秀吉が愛した有馬温泉は豊臣家の直轄地だった。豊臣政権を倒した徳川幕府はここを幕府直轄地として継承した。有馬郡南部の各村もまたその多くは有馬温泉の付属村的な役割から幕府領になった。
 その後、飯野藩領や岡部藩領に見られるように大坂城代に就任した幕閣の知行地として有馬郡南部各村が割当てられたり、徳川御三卿のひとつ田安家領となったりするケースもみられた。その結果、作成した画像データに見られるように、南部各村の帰属は見事なパッチワーク模様を描いている。
 有馬郡北部の一体性に比べ、南部のバラつきの背景が理解できた気がする。南部各村が有馬温泉の付属的役割から幕府領とされたことに起因する。幕府領故に、特に湯山から比較的離れた村々は幕府の事情で柔軟に配置換えが可能だった。こうした視点を橋本さんの「お話し」から学んだ。