異業種交流会「ウイング・マークへの道」2009年03月11日

 昨晩、異業種交流会の定例会があった。今回の講師は交流会の幹事でもあるM氏である。防衛大学校(航空工学専攻)を卒業後、航空自衛隊でパイロットの訓練を積んだという異色の経歴の持ち主である。案内状によれば、テーマは「ウイング・マークへの道」ということで、自らの体験をもとに航空自衛隊のパイロット教育と防空システムの概要について話してもらえるようだ。ちなみにウイング・マークとは「航空自衛隊において職種がパイロットと判るバッジで制服の左胸に付けるもの」とのことだ。
 会場は、1月例会と同じ地下鉄「南森町」駅最寄りの「地酒居酒屋・松留」である。19時丁度に開会した。幹事の一人である私から、会員講師であるM氏のスピーチに寄せる期待を述べて乾杯をした。料理のおいしさと引換えに多少窮屈な会場には18名ものメンバーが顔を揃えた。
 M氏のスピ-チが始まった。概略以下のような内容だった。
 商売の街・大阪で事業を営む家に生まれ、中学時代には「手形を割る」ということを覚えてしまうような環境で育った。防衛大学のことは高校3年の夏に初めて知った。11月に受験し合格した。他の国立大学も受験したが失敗し、浪人は許されない事情もあり防大に進んだ。初代・槇校長の「自主・自立」の精神のもとなる雰囲気があり、考え方や精神面で縛られることはなかった。2年の時に陸・海・空のいずれのコースかが決まる。航空工学の専攻が叶い、パイロットを志望した。
 パイロットの適性は、まず身体上の欠点がないことが問われる。目、耳、鼻等の五感機能がどれも一定の基準内にあることが必要。性格的にはミスに対するシビアさが問われる。ノーミスが何よりも不可欠な要素となる。
 飛行操縦訓練はプロペラ機、ジェット機、別種のジェット機の3機種の基本的操縦をマスターできるまで2年強かけて行なわれる。これに合格してようやくウイング・マークが得られる。プロペラ機からジェット機への変更時でのらせん状に降りてくる着陸訓練は、ものすごいスピードでほんとに緊張感を強いられた。ちなみに編隊訓練は、二機の翼間は約3mで行なわれる。計器飛行は目の訓練でもある。多数の計器を瞬時に判断する視認速度と忍耐力が技量の優劣を決める。
 現役パイロットだった時、父が脳梗塞で倒れた。父一人でやっていた家業の部品メーカーを最終的に継ぐことを決意した。半年間保留された辞職願いがようやく許可された。
 パイロットも軍人出身者と民間出身者では緊急時の対応に明らかな違いが出る。ニューヨークのハドソン川に着水した飛行機の機長は軍人出身だった。 民間出身者なら空港の滑走路にこだわっていたかもしれない。軍人は第三者を巻き添えにしないように川や海や湖など人家のないところに降りようとする。私の同期も飛行機を浜名湖に突っ込ませてパラシュート脱出時の高度が足らず、結果的に死ぬことになったが・・・。
 別紙の図が日本の防空識別圏だ。この圏内への不審機の領空侵犯が年間2002大件以上ある。ロシアと中国が半々だ。これに対して2機の自衛隊機でスクランブル発進する。1機が相手の顔が見える位まで接近し退去を求める。相手機が機関銃をこちらに向けても、国内法の正当防衛の概念上はこれを撃墜できない。僚友機が撃たれてこれを助けなければならなくなって初めて攻撃できる。僚友機が撃墜されてしまってからも攻撃できない。過剰防衛の概念から復讐のための武力行使は認められていない。航空自衛隊は、こんな状況の最前線で常に国籍不明機との対峙を余儀なくされている。それに伴うストレスやフラストレーションは相当なものだ。

 多様な職種、経験、技能、個性を持ったメンバーが集う交流会である。その中でも戦闘機パイロットというひと際、異彩を放つ職歴のM氏のスピーチだった。経験者ならではの訓練飛行の生々しい体験談に耳をそばだてた。メンバーたちの政治的ポジションはライトウイングからレフトウイングまで幅広いものがある筈である。そうした事情への配慮もあってか、航空自衛隊に籍を置いた者ならではの「想い」を抑制された表現で語ってもらった。スピーチ後にはメンバーからの質問も出され、懇親の場でも個別にM氏と活発な意見交換があったようだ。この交流会が、様々の思想や立場の違いを超えて微妙なテーマについても自由に語り合える場であることをあらためて感じさせられた例会だった。

ブログのアクセスランキングとアクセスカウンター2009年03月12日

 今月初めのことだ。私のブログサイトであるアサブロ(アサヒネットのブログ)管理画面に新たな機能が追加された。入力編集画面のトップサイトに「現在のアクセスランキング:○○○○位」と表示されるようになった。その横には上向きか下向きかの矢印もついている。その下の説明文には「全アサブロ中、何位か表示します。順位の数字の右にある矢印は、前日からの順位の増減を示しています」と記されている。ちなみに私のブログのここ1週間のランキングは、最高で164位、最低で412位である。全体の登録数は分からない。ASAHIネットというメジャーなプロバイダーが提供するブログである。少なくとも1万程度の登録はあると思う。となればそこそこ優秀な順位ではないかと我田引水の勝手解釈をしたりして・・・。
 それにしてもブログ更新の励みになるありがたい機能だった。ただ疑問と要望もあったので技術サポートデスクに次のような問合せメールを送信した。①アサブロの全登録数はいくらくらいなのかを教えてもらえないでしょうか。②自分のブログの累積アクセス数や毎日のアクセス数は把握できないものでしょうか。これに対し、以下のような回答があった。①残念ながらいずれも機能として持ち合わせていません。②アクセス数については、インターネットに公開されているブログパーツをご利用いただければと存じます。早速、ネット検索で「ブログパーツ.com」のサイトから「カウンター」のカテゴリーにアクセスした。気に入ったカウンターツールのhtmlをコピーしてアサブロのHTMLカスタマイズ機能で貼り付ける。これだけの手順で意外と簡単に「明日香亮・残日緑」のトップページにアクセスカウンターが表示された。これで日々のアクセス数が分かり累計アクセス数も把握できる。ブログ更新の新たな楽しみを獲得した。
 
 今日、散歩道途中の民家の庭に同じ木に赤と白の花を咲かせている珍しい梅の木を見つけた。このブログに画像貼付した。

トルコ周遊8日間の旅立ち・・・ブログの中断2009年03月13日

 今日からトルコ旅行に出かける。20日までの8日間の周遊ツアーである。イスタンブール、トロイ、アイワルク、エフェソス、パムッカレ、コンヤ、カッパドギア、アンカラを経てイスタンブールに戻る。アンカラからイスタンブールへはアンカラ・エクスプレスの寝台列車での車中泊が組み込まれている。近所の親しいご夫婦と四人で申し込んだ。
 従ってこのブログの毎日更新もしばらく中断することになる。ただ帰国後に一括して中断した日々のブログを更新をしようと思う。持参する携帯端末PDA(電子手帳)Zaurusという強力なツールが、これを可能にしてくれる。内臓のモバイル・ワードで日々の日記をデジタル情報として入力しておこう。これで帰国後に自宅PCから一括してブログ更新ができる。
 では20日までどなた様もごきげんよう。

トルコツアー初日「タシケント経由イスタンブール行」2009年03月13日

 トルコ周遊8日間のツアー初日である。朝4時に目が覚めてしまった。二度寝が利かない歳である。機内で眠れるよう起きることにした。そそくさと朝食を一人で済ませ、ついでにウォーキングまで済ませた。今日は飛行機移動でほとんど歩く機会がない筈だから・・・。
 9時30分には同行の近所のご夫婦のお宅に行き、我が家のマイカーで一緒に関空に向かった。11時過ぎに関空に着き、予約しておいた駐車サービスに車を預ける。トラピックスのカウンターで担当添乗員谷田さんからガイダンスを受け航空チケットを受取る。搭乗機はウズベキスタン航空機だ。思い切りマイナーな航空会社の利用が、このツアーの破格の料金のネタのひとつに違いない。13時45分に搭乗した。出発時刻になっても機内の乗客は30%程度とまばらである。ほとんどが日本人のツアー客のようだ。14時30分、HY528便が関空を離陸した。
 水平飛行になって映画が映された。パーソナルモニターなど望むべくもない図体ばかりがデカイ旧型機だ。通路上のモニターではモンゴル系の俳優たちが演じている。ウズベキスタン映画のようだ。この便の乗客の誰が見るのだろう。15時過ぎ、待望の飲物サービスだ。ウズベキスタンビールを味わう。続いて昼食となる。関空積込みの機内食はごく一般的な日本の味である。3人掛けの空席を使用して横になったが眠れない。時折、窓からの景色を眺めると荒涼たる砂漠が果てしなく広がっていた。ゴビ砂漠の上辺りなのだろうか。21時頃にはサンドイッチの軽食が出た。23時30分、9時間のフライトを終えてようやくタシケントに着いた。乗り継ぎ以外では降り立つ筈もない空港だ。それだけに物珍しさの好奇心が湧いてくる。
 タシケント空港のトランジット用待合室は、トイレと椅子しかない驚くほどショボい施設だった。イスタンブールを目的地とする日本の二組のツアーグループだけが待合室を埋める。ひたすら出発を待つしかない時間を過ごす。0時30分、イスタンブール行きのHY273便に搭乗する。今度は現地の乗客も搭乗し約半分の乗車率になる。1時10分離陸。2時過ぎには飲物、夕食サービス。イスタンブール到着は6時10分(現地時間23時10分)で5時間のフライトだった。関空から16時間もの長旅だった。
 24時に総勢33名のツアー仲間と空港待機のツアーバスに乗り込みホテルに向かう。現地ガイドのテオさんという41歳の男性が同乗した。今回のツアー全体をカバーしてもらえるとのこと。0時40分、イスタンブール新市街のユーロ・プラザホテルに到着。シャワーを浴びてベッドに就いたのは2時だった。朝4時起床から28時間後の就寝までメッチャ長かった1日が終わった。本日の万歩計カウントは14178歩だった。

トルコツアー二日目「トルコの解説とトロイ遺跡」2009年03月14日

 前日の長いフライト中、ほとんど眠れなかったのだから、モーニングコールまでの4時間をぐっすり眠れる筈だった。眠れない!昨晩、解散前に添乗員さんが言っていた。「明日早いですが、時差の関係で恐らく眠れないでしょう」。添乗員の呪いが利いている。2時間ばかり悶々としていたら、隣の家内もゴソゴソしだした。結局、眠れないまま朝を迎える。6時過ぎにレストランで朝食。アメリカン・ブレックファーストだが、現地チーズだけが豊富で内容はイマイチ。
 7時30分出発。バスは、ガラタ橋を渡り旧市街を抜けマルマラ海沿いに一路西に走る。車中での現地ガイド・テオさんの熱のこもったトルコ紹介が続く。
 「47カ国のイスラム教国の中で唯一の政教分離の国である。トルコ人は元来中央アジアのモンゴル系騎馬民族・突厥人。コーカサスを越えてアナトリア半島に定住し、現地住民との混血を重ね今日の64の民族からなるトルコ人となる。トルコ語はアジア系の膠着語でモンゴル語、朝鮮語、日本語などと同じ文法。1923年共和国となりアタチュルクが初代大統領に就任。オスマン・トルコ時代からのソ連との攻防から親西欧路線を取る。ヨーロッパ大陸に国土の一部を持ちイスラム国では唯一EU加盟を目指している。現在はクロアチアとともに準加盟国。NATOには加盟している。」
 とりわけEU加盟問題では個人的にも積極的支持派らしく端々にその想いが籠もっている。EUの前身・欧州共同体時代からの加盟の意向が、様々な事情で遅らされていることへの苛立ちも垣間見える。トイレ休憩時に個人的に話をした。今日のトルコの基礎を築いたアタチュルクは、オスマン・トルコの士官学校出身だがギリシャのテッサロニキ生まれで早くから親西欧派だったという。トルコの建国の父が、昨年9月に訪れたばかりのテッサロニキ出身と聞き、にわかに親近感を覚えてしまう。
 トルコのヨーロッパ側の半島先端のエジェアバトに到着。ダーダネルス海峡を渡るフェリー乗り場のレストランで昼食となる。メニューは焼きサバランチだった。飲物はビールのロング缶を注文。7トルコリラ(420円)とリーズナブル。予定より1時間早い12時のフェリーに乗船。舳先のベンチの隙間に現地のおじさんが席を空けてくれる。カタコト英語で話しかけるが英語はできないとのこと。それでもヤポン、ターキッシュ、ツーリスト等の単語を並べて会話する。「地球の歩き方」の地図を見せながらなんとか5分ばかり親善を試みた。記念のツーショットも。約30分で対岸のチャナッカレに到着。南下してトロイに向かう。
 1時30分から1時間のトロイ遺跡見学である。遺跡を見晴らせる入口付近でテオさんの説明が始まる。伝説と言われていたトロイ戦争を信じ続けて遂にこの地・ヒサルルクの丘を発見したシュリーマンの発掘物語である。紀元前3000年から紀元前350年位までの9層にも重ねられた世界遺産登録の都市遺跡である。見学順路に沿って遺跡全体を回遊する。入口近くの観光用の「トロイの木馬」前で自由時間となる。ホメロスの叙事詩・イーリヤスに搭乗するギリシャの兵士が身を隠したという木馬である。観光用の真新しい松の木製の木馬の中に入り、窓から顔を出して写真を撮る。旅はいくつになってもミーハーに変身させる。
 自由時間中にテオさんとしばし懇談。塩野七生さんの「コンスタンチノープルの陥落」は共通の読書体験だった。アタチュルクが首都をアンカラに移した理由等も聞いた。イスタンブール集中の弊害や国土の中心に首都を立地する必要性等の回答がよどみなく返ってきた。
 トロイ遺跡の見学を終え、丘陵地帯を南下する。30分ほどでエーゲ海の海岸に出る。正面にはギリシャ領土のレスヴォス島が横たわっている。「同性愛者だったギリシャの女性詩人サフォーの出身地でレスビアンの語源となった島だ」とのガイドがある。エドレミッドでトイレ休憩。産地のオリーブ製品のお土産がテオさんのお勧め。風呂上がり用のビールロング缶(3リラ・180円の安さ)を抜け目なく調達した。
 5時30分にはアイワルクのグランド・テミゼル・ホテルに到着。エーゲ海の海岸ビーチ際に建つお洒落なリゾートホテルである。チェックイン後、お友達夫婦とビーチを散策。エーゲ海の沈みゆく夕陽の美しさに昨年9月のギリシャ・ツアーでのミコノス島の夕陽を思い出す。
 6時45分からのホテルレストランでの夕食はトルコ料理の数々を取り揃えたバイキング・ディナーだった。スープ、前菜、メインディッシュ、サラダ、デザートそれぞれに地元素材をトルコ料理風に調理された品々が豊富に並んでいる。トルコのエフェス・ビール片手に欲張り気味に取り皿に盛った料理を堪能した。食後にお友達夫婦の部屋で昼間買っておいたビールでの二次会となる。睡眠不足は覆い難く8時30分には部屋に戻り、入浴後、早々に床に就いた。
 バス移動中心の本日の万歩計は9224歩を数えるに過ぎなかった。

トルコツアー三日目「エフェソス遺跡とベリーダンス」2009年03月15日

 朝5時、たっぷり9時間の眠りから覚めた。二日分の寝不足を一気に解消する快適な目覚めだった。快晴である。部屋から見える美しいエーゲ海の日の出を撮影。6時過ぎに朝食を済ませ、7時半にホテルを出発。
 車中でのテオさんのガイドが始まる。隣国ギリシャとの関係の解説は聞きたかった話だった。歴史的にも抗争と融和の繰り返しで双方に憎悪と親近感が同居している。人種的にも混在しトルコの初代大統領はギリシャ出身だし、ギリシャの歴代首相にはトルコ出身者が多いといった具合だ。ギリシャもトルコのEU加盟は、隣国の安定という点で歓迎している筈という意見だった。日本との関係も興味深いものだった。トルコ人の親日感は日ロ戦争での日本の勝利に負うところが大きい。オスマン・トルコ時代からのロシアのトルコ侵攻へのトルコ人の反発は根深いものがあった。極東でロシアを撃破した日本に喝采したという。当時、明治政府の意を受けてイスタンブールを来訪した山田寅次郎という人物がいた。長く滞在しトルコとの関係の基礎を築き、士官学校で日本語も教えた。その時の教え子の一人が後に共和国建国の父となったアタチュルクだったという。 
 ベルガモでツアー御用達のトルコ石のお買い物。家内は誕生石であることをしきりにアピールし、意欲満々。バスがAGADという専門店に横づけされてご一行が入店。女性店員の偽物トルコ石の見分け方等を流暢な日本語で解説。その後、放し飼いになった女性客たちが一斉にショーウィンドウに群がる。友達とタッグを組む家内も品選びと値引き交渉に余念がない。時折私も参戦させられる。結局、日本では見られない大胆さでネックレスを購入。45分ばかりの買物タイムが過ぎ、エフェソスに向かう。
 途中、トルコ第3の都市・イズミールを通過する。郊外にはクルド人など東トルコの難民が住みついたスラム街が広がっている。あちこちの大都市に見られる光景で今やトルコの大きな社会問題となっているとのこと。テオさんのすぐ後の席から「トルコではローマ帝国時代をどう評価しているのか」を聞いてみた。共和国以降、教科書でも各時代を冷静公平に評価している。オスマン・トルコ時代の過度のイスラム主義にも距離を置き、ローマ時代の文化や史跡も保存しているという。民族と国家を分離して考えることでアイデンティティを確保しようとする知恵のようだ。民族と国家を共通のものと考えがちな日本人にはない思考の在り方を教えられた。ちなみにトルコのイスラム教は、オスマン・トルコがスンニ派を国教としていたこともあり、ほとんどがスンニ派とのことだ。従って国内では宗教対立はないようだ。
 エフェソス近くのセルチュクという街で昼食をとる。ライス付シシカバブがメインのスープ、ポテトのランチである。できたての美味しい料理に納得。発車直後にセルジューク朝の要塞を目にした。
 すぐ近くにギリシャツアーでも訪問したエフェソス遺跡があった。古代イオニア地方最大の都市国家跡で有数の保存状態を誇る遺跡である。前回はすしずめの観光客に揉まれながらの見学だったが今回はまばらな観光客の中でゆっくり回れた。グレコローマン様式の建造物が順路に沿って広がっている。前回見学できなかった大劇場の最上段の客席から眺める全貌は圧巻だった。これ程の価値ある遺跡がなぜ世界遺産に登録されていないのか。テオさん曰く「トルコ政府が財政上の事情で申請していないのではないか」とのこと。続いてすぐそばのアルテミス神殿の見学だ。こちらは遺跡がほとんど消失し柱一本しか残されていない。ただセルジューク朝時代の要塞を背景にした景色は美しい。
 この後も前回同様「革製品の店」の御買物である。ファッションショーの後、お買い物タイムとなる。買う気のない身では売場での売込みに耐えながら時間を潰すほかない。3時半に出発し約3時間の道のりをパムッカレを目指す。途中のトイレ休憩では菓子類のお土産が豊富とのことで、家内たちはビスタチオ入りロクムのまとめ買いをしている。6時半頃にトルコ有数の温泉保養地であるパムッカレのサーマルホテル・パムに到着。
 本館と温泉プールを囲んでコテージ風の別館客室が並ぶリゾートホテルである。チェックインした部屋も新しくて整った設備で快適だった。浴槽には温泉水の出る蛇口も付いている。7時からの夕食は、今日もトルコ料理のバイキング形式である。質量ともに昨晩を越えている。部屋に戻る途中に温泉プールを一周した。上下2段に別れたプールの最上段の噴水から温泉湯がしぶきを上げて噴き出し湯煙が一面を覆っている。温泉プールに浸かる余裕はない。部屋で慌ただしく入浴を済ませる。9時からのホテルバーでのベリーダンスショーを観るためだ。ショーが始まると、若くて鍛え抜かれた腹筋を持つ魅力的なダンサーが登場した。くびれたウエストと引き締まった全身がリズムに合わせて小刻みに妖しく震え、観客を魅了する。何曲かの踊りの後、観客をステージに呼び込んでの即席ダンス教室が開催される。正面前列の席にいた私が不運にも真っ先に捕まった。観光ガイドに記載されたこうした場合の心得が頭をよぎる。「恥ずかしがらずに積極的に楽しむのがマナーです」。やむなし。他の3人の拉致被害者とともに数十人の観客の前で醜態を晒した。ドリンク代だけのリーズナブルな料金の本場のショーは30分ばかりで終わった。もっともダンサーが最後に客席を回った時、他の客席にならってお腹に挟んだおひねり札の追加があったことも白状しておこう。部屋に戻り10時半にはベッドに就いた。
 本日の万歩計は、広大なエフェソス遺跡の散策が貢献して13204歩をカウントしていた。

トルコツアー四日目「パムッカレの石灰棚とコンヤのメヴラーナ博物館」2009年03月16日

 ツアー四日目の朝は、浴槽の蛇口からの温泉水の噴き出し音で目覚めた。4時半ではないか。温泉の早朝風呂を楽しもうという家内の所業だった。6時からの朝食を済ませ7時30分ホテル出発というのが、このツアーの不動のパターンとなった。
 7時半、バス車中で「ギューナイドン(お早うございます)」の挨拶を交わしホテルを出発。約10分でパムッカレ最高の観光スポットに到着。世界遺産のヒエラポリスと石灰棚だ。ヒエラポリスはアレクサンドロス大王時代の古代遺跡である。円形劇場やアポロ神殿跡等の発掘済みの建造物だけでなく、果てしなく広がる広大な敷地には未発掘の遺跡が眠っている。遊歩道を遺跡を眺めながら散策し、ヒエラポリス博物館横を通り、古代遺跡が沈む温泉を見学する。その後、いよいよメインスポットの石灰棚の見学と足湯体験となる。真っ白な石灰棚と牧歌的なパムッカレの街並み、背景を彩る冠雪の山並みが感動的なビューポイントを演出している。温泉湯の流れる石灰棚に裸足で入り苔のぬめりに滑りそうになりながら足湯体験に興じる。30分ばかりの自由時間を石灰棚を巡る遊歩道散策で過ごす。1時間半の観光を終え次の目的地コンヤを目指す。
 11時過ぎにトイレ休憩。名物の蜂蜜ヨーグルトを味わう。古くからある練り状のヨーグルトに天然の蜂蜜をかけた美味しいデザートだった。ここから1時間半をかけて昼食をとるアクシヒルに向かう。途中は内陸部の山岳地帯や湖水の景色が続き、大理石の産出現場も目にした。温暖なエーゲ海沿いの風景が、雪景色の山岳地帯の風景に一変する様に驚かされる。1時過ぎにサービスエリア到着。短時間休憩の慌ただしい昼食となる。いんげんの前菜、ピデ(トルコ風ピザ)、肉の煮込み料理、デザートと続く。ひき肉を柔らかい生地で包んで焼上たピデは絶品だった。1時40分に今日の最終地コンヤに向かう。徐々に雲が濃くなり、1時間後にはとうとうバスの前方の窓を粉雪が叩き出した。
 コンヤに入り、メヴラーナ博物館に向かう車中でコンヤのガイドがある。政教分離のトルコの中でも有数のイスラム色の強い街のようだ。確かに街中ではスカーフを巻いた女性が多い。かってのセルジューク・トルコの首都でもあり、芸術、科学の中心でもあった。イスラムは、花の文化であるという。チューリップはアッラーの、バラはマホメッドの、カーネーションは天国のシンボルとされる。町中でそれらの花々の飾りが目につくのもコンヤの街だ。4時過ぎに博物館に到着。イスラム神秘主義派・メヴレヴィー教団の創始者・メヴラーナが眠るの霊廟跡である。最初の小部屋にコーランの言葉を引用したアラビア語の多くの額が飾られている。テオさんの解説。「共和国建国後、アタチュルクはトルコ語をアラビア語からローマ字に変えた。83年を経て若い世代を中心に国民の多くがアラビア語を読めなくなった。ここではそうした背景から敢えてアラビア語のコーランを掲示している」。アラブのイスラム諸国の中でトルコは親西欧の独自のスタンスを持ち、EU加盟を目指している。ローマ字化は、政教分離とともに国民の精神風土をそうしたスタンスを確立する上で重要な役割を果たしたに違いない。館内を旋舞(セマー)の神秘的な旋律が流れている。彼を高く評価しているらしいテオさんの熱のこもったガイドが続く。イスラム教の中でも唯一仏教的な教えを取り入れた宗派であるという。5時前には見学を終えてホテルに向かう。コンヤの郊外に建つ真新しい近代的高層建築の高級ホテル・リクソスである。チェックインした部屋も最新設備のハイレベルな仕様だった。
 早目のチェックインのおかげで6時に繰り上がった夕食が、ビュッフェスタイルの食材を一番乗りでありつける幸運をもたらした。高級ホテルにふさわしい料理の数々だった。とりわけ昼食でその美味しさを味わったピデ(トルコ風ピザ)がここでも焼き立てで提供されていたのに満足した。7時半に隣室の友達ご夫婦を訪ね、持参の電気ポットで沸かしたコーヒーを御馳走になりながら懇談した。友達同行のツアー参加のくつろぎの一時である。9時半頃にはベッドについた。
 本日の万歩計は15553歩を数え、広大なヒエラポリス遺跡の散策が奏効した。

トルコツアー五日目「カッパドギアの奇岩と寝台列車」2009年03月17日

 4時半起床。昨晩の早寝が早朝の目覚めをもたらした。テレビでニュース番組を見た。イスタンブールで開催中の世界水フォーラムの様子が映された。判読不能のアラビア語でないローマ字テロップがかすかに内容を教えてくれる。ローマ字導入のアタチュルクさんに感謝。出席の各国首脳に交じって日本の皇太子の顔が見える。ビュッフェスタイルの食べ過ぎる朝食を済ませ、7時半にホテル出発。
 コンヤを抜けると荒涼たる大地の中を一本の舗装路が続く。そこはもうかってのシルクロードだ。1時間余りの地点にあるキャラバンサライ(隊商宿)に立寄った。13世紀にスルタンが建造した宿でよく保存された建物だ。そこから更に45分ほど東に向かっているとにわかに雪景色に包まれた。砂漠の大地の季候の厳しさを知らされた。
 10時30分頃カッパドギア地方の中心地・ネヴシェヒルにつき、絨毯工房を見学。絨毯製造工程を見学した後、商品即売会が開催される。この間、ワイン、トルココーヒー、チャイ等の飲み物が振る舞われ、いやがうえにも購買意欲を促される。大勢の店側スタッフが登場し商談が始まる。最高級シルク絨毯は絵画のような美しさだ。30cm四方でなんと56万円。商談成立の拍手が起こる。催眠商法にも似た心憎いばかりの演出である。
 絨毯工房を出るとすぐに奇岩鑑賞となる。最初は三美女の岩。続いてユルギュップの街からゼルベで降りて赤い谷を見る。発車直後の車窓からはテーブルマウンティンが見える。バザールが並ぶ観光スポット・パシャバーで下車し、高台のビューポイントから展望。
 1時45分、アヴァノスの洞窟レストランで遅い昼食にようやくありつく。洞窟トンネルを抜けて野趣満点の客席に入る。焼き鱒とインゲン豆の煮込み料理がメインのランチだった。2時45分に出発し、すぐそばのギョレメの谷に着いた。ここでは名物トルコアイスを味わった。伸びるアイスの別名の固めの甘さ控え目アイスだった。ウチヒサルの巨大一枚岩の城塞を見る。観光用駱駝がいて2ドルで乗せてくれる。最後は鳩の谷だった。展望台付近に地中海クラブのカヤ・ホテルが世界遺産の中の絶好のロケーションに建っている。
 4時前にカッパドギアの全観光を終えて一路アンカラを目指す。アンカラ近くでは広大なソルトレイク(塩の湖)を真横に見ながら走る。6時30分、高速道路のクルクカレSAで夕食となる。ムサカ(肉入りナスビの煮込み)メインの料理だった。1時間後、アンカラに向けSAを出発した。バス車中でテオさんに明日の自由行動でのトラム(路面電車)の乗り方、ボスポラス海峡連絡船お勧めコース等のガイダンスを聞いた。
 9時に国鉄アンカラ駅に到着。首都アンカラの玄関口にしては迫力に乏しい。バスのネットワークが完備したトルコでは、どの街でもバスターミナルの充実ぶりに比べ鉄道駅が見劣りしているとのこと。22時30分アンカラ発、翌日8時イスタンブールのハイダルパシャ駅(アジア側終着駅)着のアンカラエキスプレス一等寝台に乗車した。10両編成の列車の100人以上が日本人観光客とのこと。6号車5、6番が指定席だった。個室には2段ベッド、洗面台、冷蔵庫、コンセントが付いている。早速デジカメの充電をセットする。誰もが珍しい寝台列車の旅にはしゃぎながら写真撮影に余念がない。発車まもなく車掌さんがベッドメイキングに現れる。事前ガイダンスに従いチップを渡すがなぜか返される。落ち着いたところで隣りの友人ご夫婦の個室でご主人とビールの酒盛りという至福の時を迎える。駅のキオスクで調達した日本円で160円の超お買得のロング缶である。11時半、眠れそうもない2段ベッドの上段に身を横たえた。万歩計カウント14475歩だった。

トルコツアー六日目前半「世界遺産・イスタンブール歴史地区観光」2009年03月18日

 アンカラエキスプレスの2段ベッド上段での4時30分の目覚めだった。目覚めというよりまどろみから戻ったというべきか。ことほどに初体験の寝台列車の寝心地は想像以上の振動に悩まされた。身支度を整え、ベッドを壁際に戻してくつろぐ。真っ暗な車窓の景色を楽しむ術はない。6時前に食堂車に行き朝食を取る。グループ毎に時間帯が決められているようだ。6時半までが私たちのツアーの朝食時間だ。すでに各テーブルにプレートに盛り付けられた朝食がきれいに準備されている。個室に戻り、しばらくすると昨晩の車掌がシーツの片付けにやってきた。片付け後も佇んでいる。ここでチップを渡すことにようやく合点した。食後の用便は各号車に2ケ所のトイレで行う。ひとつは日本の和式トイレに近い構造のトルコ式である。試しにこちらで用を足した。洋風に慣れた身には辛いものがある。直系10cm程の穴に命中しなければ自分で桶に水を入れて後始末する羽目になる。
 列車が定刻どおりにイスタンブールのアジア側終着駅に着いた。いよいよ今回ツアーのハイライト「世界遺産・イスタンブール歴史地区観光」のスタートである。
 イスタンブールは、ビザンチン帝国からオスマン帝国にかけて1500年間の都として栄華を極め、シルクロードの終着点だった都市である。私にとっては愛読した塩野七生さんの「コンスタンチノープルの陥落」の舞台として興味深くぜひ訪れたかった街である。
  http://ahidaka.asablo.jp/blog/2008/07/22/3643036
文字どおり「ヨーロッパとアジアの架け橋」の街でありボスポラス海峡を挟んで両大陸に跨がる街である。ヨーロッパ側は金角湾という入り江によって旧市街と新市街に分れている。数多くの歴史的建造物が並ぶ旧市街全体が世界遺産登録をされている。 
 列車を降り、各自スーツケースを押して待機中のバスまで移動する。ここから旧市街観光に向かう。市街に向かう車がボスポラス大橋を目指して集中する。地方選挙の真っ最中の市街地は、候補者写真や政党の旗が通りを埋めている。ヨーロッパ側終着駅の国鉄イスタンブール駅の前を通り、渋滞の中最初のスポットであるブルーモスクに着いたのは9時15分だった。
 バスを降りてブルーモスク(正式名称:スルタンアフメット・ジャーミィ)の正面に来た。その圧倒的な規模と迫力に思わず息を呑む。巨大なドームとそれを取り囲む6本の尖塔(ミナーレ)が美しい姿で迫ってくる。堂内に入ると再び驚かされる。とてつもなく広いガランとしたフロアが広がっている。余りにも高い丸天井と大小の多くのステンドグラスから差し込む光が幻想的な世界をかもしている。内壁を青を主体とした無数のタイルが飾っている。ブルーモスクの愛称の所以である。堂内の一角で時おり信者が跪いて祈りを捧げている。まぎれもなくここは現役のイスラム寺院なのだ。  
 そのまま歩いてトプカピ宮殿を訪ねる。15世紀半ば以降400年間、歴代オスマン朝の支配者スルタンの居城だった建物である。コンスタンチノープルと呼ばれていたビザンチン帝国の首都を陥落させ、滅亡させたオスマントルコのマホメッド2世によって着工された。正面の皇帝の門をくぐり広い庭園を行くとチケット売場になる。手荷物のX線検査があり数名の警備員が固める物々しい警備である。再び庭園が広がりその先に威厳のある送迎門が待っている。この門を抜けると正面の庭園の右にかっての厨房、左にハレムが奥に縦長に建っている。正面の幸福の門の先が宮殿の中枢部だったところで、謁見の間、宝物館、図書館等がある。4つの部屋に分れた宝物館には84カラットのダイヤを始め数多くの至宝が陳列されている。物々しい警備態勢の意味を理解した。宮殿の北端の左右は展望台のようになっている。右側からはボスポラス海峡が、左側からは金角湾が一望できる。三方を海に囲まれた丘の先端に建つこの宮殿の戦略的な立地に気づかされる。
 ツアー最後のスポット・グランドバザールは宮殿西500m程の所にある。四方400m位の一角に縦横に通りが走っている商店街である。東南の角の正面入口には風格のあるアーチ型の石造りの門があった。コーナーごとに貴金属、カーペット、土産物等に分れている。1時間の自由時間を持て余しながら観光客で賑わう通りを散策する。黒い衣装に包まれたイスラムの女性たちがエキゾチックな雰囲気を漂わせる。  
 トプカピ宮殿東側のレストランに着いたのは1時40分だった。早い朝食に遅い昼食が重なりツアー仲間からは空腹を訴える声が相次ぐ。ボスボラス海峡に面した絶好のロケーションで鱈のグリルがメインの昼食となる。昼食後、オプショナルツアー参加組25人とと自由行動組8人に分れる。ツアーグループがアヤソフィアで降ろされ、私たち自由行動組は更にバスで合流地にもなるエジプシャンバザール入口まで運ばれた。

トルコツアー六日目後半「自由行動(エジプシャンバザール~アヤソフィア)」2009年03月18日

 近所のご夫婦とツアー仲間の姉妹二人組の6人でエジプシャンバザールのショッピングを開始。昨年末に娘が買物をして仲良くなったお目当ての店がある。全店舗にNoがついているので分かりやすい。48番の雑貨の店「エドまっちゃんの店」を見つけた。娘と一緒のまっちゃんの写真を店主に見せて「私の娘です」と自己紹介する。巧みな日本語で応答しすぐに話が通じる。早速、ビスタシオが欲しいというと2軒隣の食品の姉妹店に案内される。お菓子類や小皿のお土産を買込んだ後、店主も交えた記念写真を撮って店を後にした。
 姉妹二人組と別れて、そこから歩いて約1.5Km南東のアヤソフィアに向かった。先にすぐ向かいの地下宮殿を観光する。10リラを払って階段を降りると、アーチ型の天井を無数のコリント式円柱が支える巨大な地下貯水池が広がっている。全円柱の根元からライトアップされ、その幻想的で不思議な光景に思わず感嘆の声が漏れる。見学用の回廊沿いに奥に進む。突き当たりの壁際に巨大なメドゥーサの顔の石像が2体あり、円柱の基礎をなしている。
 向かいのアヤソフィアに入場する。ガイドブックには10リラとあった入場料はいつの間にか20リラになっていた。4世紀から6世紀にかけてビザンチン帝国の国教であるギリシャ政教の大本山として建造された寺院である。オスマン朝時代にはイスラム寺院に変えられ、共和国になって博物館として一般公開された。入場すると警備員の案内ですぐに石段を上がり2階ギャラリーから見学する。南回廊にはビザンチン文化を象徴する聖母マリアやキリストのモザイク画が残されている。天井を覆う巨大なドームが観る者を圧倒する。回廊手摺りから見下ろす堂内の高さと広がりに驚嘆させられる。
 アヤソフィアを出てツアー合流地のエジプシャンバザールに向かう。トラムに乗ってみることにした。地図を片手に駅を捜していると現地の若者が話しかけてきた。駅の場所ばかりかジュトンという専用コインの販売所まで教えてくれた。スルタンアフメット駅の改札機の投入口にジュトンを入れ、バーを抜ける。トラムに乗車する。込み合った車内の目の前に日本人の若いカップルが乗り込んできた。雑談していると、食べてみたかった名物サバサンドが下車駅のすぐそばで売っていたとい情報が得られた。エミノニュ駅で下車し、屋台風の店で早速サバサンドを購入した。夕食間近なので4人で1個のサンドを分け合った。4リラで大きなバケットパンに熱々の片身の焼き鯖とサラダが挟んである。ミスマッチな味がなんとも言えない美味しさを生み出している。
 すぐそばのエジプシャンバザール入口に戻ると、既にオプショナル・ツアーを終えたグループの姿があった。5時半の合流時刻にバスに乗車し、夕食に向かう。旧市街の金角湾沿いの民家風のレストランだった。メニューは代表的トルコ料理のキョフテだ。いくつかの小さなハンバーグと小さなピザがチキンライスに載せてある。こちらはたいしたことはなかったが、添えられた大きく膨らませた熱々の薄焼きパン(ラヴァーシュ)の美味しさに納得した。
 7時半には初日と同じホテルのユーロ・プラザにチェックインした。自由行動で歩き回った身には、外出してナイトライフを楽しむ余力はもはやない。入浴を済ませ友達ご夫婦と名残りを惜しむ会でビールを傾けるに留めた。10時前にはベッドで最後の眠りに入った。本日の万歩計は、自由行動での自力徘徊が奏功し、23790歩と脅威のカウントを記した。