タモの樹2011年11月11日

 有馬川にかかる愛宕橋の東詰めに一本の大木がたっている。名来神社前のこの辺りは朝の散歩道でお気に入りのスポットのひとつである。この木はブログでもこれまでしばしば触れてきた。今年度の山口フォトコンテストのポスターの背景写真にも採用されている銘木である。
 この樹木の名前が分からずもどかしさが募っていた。今月15日のブログでその気分を記事にしたところ、あるブロガーさんからコメントを頂いた。「神社仏閣でこのような姿や葉の木を見かけますが、名前は木佛(たも)というそうです」とのことだった。
 ネットで「タモの木」を検索した。検索されたタモの木の画像は、愛宕橋たもとの樹木そっくりだった。ウィキペディアで調べると「タモとはモクセイ科トネリコ属の落葉広葉樹」とある。正式には「ヤチダモ」というようだ。タモは漢字では木編に佛を合わせた「梻」で表示される。用途としては、家具や装飾材のほか野球のバットやテニスのラケットなどの素材に使用されている。また根が冠水しても生きているため山間の沢沿いに生息することが多い。
 画像の突き合わせや生息地の特性などから銘木が「タモの木」であることを確信した。今朝の散歩でもタモの木は、緑の葉っぱが薄茶色に染まり始めている。これから落葉が始まり、剥き出しの枝ぶりだけが目につく季節を迎えようとしている。

歴史調査団・拓本実習2011年11月12日

 市の郷土資料館・歴史調査団の11月例会の日だった。今回の研修テーマは「拓本実習」である。会議室での「拓本実習」の資料説明の後、屋外実習に出た。資料館から徒歩15分ほどの須佐之男神社が実習先だった。10名の例会出席者と資料館スタッフ4名が神社に着いた。
 境内の百度石をサンプルに資料館スタッフによる拓本作業の実際の手順を教授される。続いて4グループに分かれて境内の石造物を対象に実習をした。同年輩の男性団員と組んで、比較的文字がくっきり刻まれた石板を対象物に選んだ。
 ブラシで石板表面を払って清掃する。二重にした画仙紙を写しとる石板部分の表面に張り付け、噴霧器で水を吹き付け湿らせる。乾いたタオルで対象物の中心から周辺に抑え込んでいく。水泡を残さないようにしわにならないようにゆっくり丁寧に抑える。紙表面が生乾きになるのを待って、タンポでタタク(墨入れする)。タンポは綿を布でテルテル坊主のようにくるんだもので墨をつけて表面をこすりつけるものだ。二つのタンポでこすり合わせて墨を伸ばして使用する。採拓が終わったら紙をゆっくり剥がして用意した新聞紙にくるんでまるめる。
 以上の手順で実際に石板の一部の文字を採拓した。自分で作業して作成した拓本作品を持ち帰った。いかにも素人っぽい作品ながら、初めての拓本実習の作品と思えば愛おしくもある。

カワセミに出会った朝2011年11月13日

 日曜朝6時過ぎの有馬川の土手道だった。雲がかかった空は尚薄闇で覆われている。めっきり日の出が遅くなった。川面に遊ぶマガモやセキレイたちの姿を目にしながら歩いた。
 川の中ほどに浮かぶ小岩の上に見覚えのある形を見つけた。カワセミだった。20m以上は離れた場所にいる。いつの頃からかカワセミの独特の姿を瞬時に見分けられるスキルが身についている。リタイヤ以来3年半に及ぶ朝の散歩がもたらしたものだと思う。だいだい色の胸と腹をこちらに見せて首を左右に振って様子を窺っている。
 その場で立ち止まり、首から下げていたデジカメをそっと手に持ち、ズームをいっぱいにアップして構えた。3枚ほどシャッターを押した時、カワセミは鋭い水平飛行で飛び去った。

野ざらしの珪化木2011年11月14日

 先日、公民館活動推進員の皆さんと屋外散策講座の下見で平尻街道を歩いた。その時、ある推進員の方から耳寄りな情報を得た。「自宅近くの田圃に大きな珪化木が野ざらしで置かれている」とのことだった。
 山口の地質の大部分は神戸層群である。神戸層群は、砂岩、礫岩、凝灰岩などで構成され、凝灰岩の中には植物化石がたくさん発見されている。この植物化石が珪化木で、公智神社周辺などの山口の西北部で数多く発見されている。推進員さんの話では最寄りの造成工事などで最近発掘された珪化木が放置されたものだという。
 今朝の散歩コースをその珪化木が確認できるルートにした。国道176号線の新明治橋南詰の有馬川歩道沿いを南に進んだ。平成橋を過ぎて有馬川緑道に入る。更に南に進み的場建設のビルの手前を左に折れた。左手の田圃の畦道にそれらしき巨石があった。国道176号線のジョイフルと珈蔵の間の坂道をまっすぐ南に昇って有馬川にぶつかる手前の右手の田圃でもある。巨石の東側からは西方向に明徳寺の甍が臨める位置である。
 高さ1.2m幅1.3m奥行き0.7mの角ばった珪化木が数個の岩石と並んで放置されていた。公智神社や山口郷土資料館に保存されている珪化木に較べても遜色ない大きさである。キチンと手入れすれば立派な庭石にもなりそうだ。発掘した地主はこの巨石が珪化木と承知していないのだろうか。承知していても処置費用等の問題であえて放置しているのかもしれない。
 国や自治体の天然記念物に指定されている場合もある珪化木である。それが目の前で野ざらしで放置されている。何となく物悲しさを覚えながらその場を立ち去った。

塩野七生著「ローマ人の物語42」2011年11月15日

 文庫版「ローマ人の物語42」を読んだ。カバーの帯には「ローマ帝国はいつどのようにして滅びたのか」という文字が踊っている。読み終えて帯に書かれたこの文章こそがこの巻のテーマだったと思った。
 前巻では最後のローマ人・軍総司令官スティリコが皇帝ホノリウスの命で処刑された後、西ゴート族を率いたアラリックの「ローマの劫掠」によってローマが陥落したことまでが語られた。ローマ劫掠後、皇帝ホノリウスは全ての属州総督に向けて「帝国にはもはや属州防衛の力はない」旨の書簡を送った。傘下の諸民族の防衛責務を果たすからこそ人々は帝国の支配を受け入れる。その責務の放棄の表明は事実上の帝国の崩壊を意味していた。
 この巻はこうした実態上の帝国崩壊後の蛮族に翻弄され続けた西ローマ帝国の様を描いている。アラリックの死後、西ゴート族が南仏に去った後の7年間はホノリウスの帝位は安泰だった。それはイタリア半島の安全に直接かかわるガリアが、侵入してきた蛮族間の共食い状態に陥っていたからだった。フランク、ヴァンダル、ブルグンド、スヴェビ、西ゴートの五部族である。これにブリタニアからの皇帝を名乗る兵士が率いるローマ軍まで加わる。
 423年に皇帝ホノリウスが死去した後を、その異腹の妹ガッラ・プラチディアの4歳の息子ヴァレンティニアヌス三世が新皇帝に就く。実質的には皇母ガッラ・プラチディアが西ローマ帝国のその後の25年間を支配することになる。彼女には軍事を託せる二人の将軍がいた。ボニファティウスとアエティウスである。その二人の将軍は432年に皇宮ラヴェンナにほど近いリミニ近郊で戦うことになる。これに勝利したアエティウスは皇帝から軍総司令官に任じられ、以後22年にわたる実質的指導者となる。北アフリカに上陸しその要の都市カルタゴを陥落させたヴァンダル族との間で西ローマ帝国皇帝は、443年に講和を締結し、600年に及ぶ北アフリカ領有を公式に放棄する。
 4世紀半ばに起こった蛮族中の蛮族と呼ばれたアジア系のフン族の脅威は、5世紀に入り東西のローマ帝国の直接の脅威になる。444年にフン族の族長となったアッティラは、殺戮と破壊を繰り返しながら東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに迫る。東ローマ帝国はなすすべもなく4447年に無条件降伏ともいえる「同盟者」協約を結ぶ。ところが450年に東ローマ帝国皇帝死去後に帝位を継いだ軍人出身の元老院議員マルキアヌスの登場で事態は一変する。新皇帝のもとで軍は強化されフン族への反攻を開始する。
 これを受けてアッティラの標的は一気に西ローマ帝国に向う。451年フン族とその配下蛮族の大軍がガリア中央部に侵攻する。西ローマ軍の総司令官アエティウスは、西ゴート族と共闘し反アッティラ連合軍を組みこれを迎え撃つ。両軍はシャンパーニュで会戦し激戦の末、連合軍が勝利しアッティラは辛うじて逃げのびる。ところが態勢を立て直したアッティラは今度は北イタリアに侵攻する。そこで暴虐のかぎりをつくした後、アッティラとフン族は西ローマ帝国の莫大な金の支払いを条件に撤退する。交渉当事者は皇帝でも軍総司令官でもなく二人の元老院議員とローマ司教だった。そのアッティラも453年に死亡し後継者争いで四分五裂したフン族はあっけなく霧散してしまう。
 北イタリアでのフン族の暴虐を放置した皇帝と軍総司令官は、451年に首都ローマで会見する。その席で皇帝ヴァレンティニアヌス三世は総司令官アエティウスを刺殺し、その皇帝も翌年にはアエティウスの部下だった二人の兵士に殺される。
 イタリア半島のローマ人は、アッティラ死後のフン族の脅威がなくなると今度は北アフリカを支配する南からのヴァンダル族の脅威にさらされることになる。ヴァンダル族の族長ゲンセリックは、有能で強力でしかも長命なリーダーだった。455年、元老院議員出身の新皇帝の即位直後のローマにゲンセリック率いるヴァンダル族の軍勢が侵攻する。新皇帝は民衆の動揺を鎮めようとするが逆に恐怖で激昴した民衆に殺されてしまう。そして二度目の「ローマ劫掠」が、ローマ司教とゲンセリックとの合意による劫掠方法で行われる。
 莫大な略奪品を持ってヴァンダル族が北アフリカに去った後、ようやく次期皇帝が決まった。ガリアの西ゴート族の王に擁立された皇帝だった。以後476年の西ローマ帝国滅亡までの20年間に8人もの皇帝が入替る。そして西ローマ帝国の滅亡の時を迎える。最後の実力者オレステスによって475年その息子ロムルスが15歳で帝位に就いた。ところが西ローマ軍の蛮族出身の将軍たちが待遇改善要求を拒否したオレステスに反旗を翻えし、二度の戦闘でオレステスは敗れ処刑される。皇帝ロムルスは退位させられた。西ローマ帝国はその後誰一人として皇帝になるものはいなかったことで滅亡する。こうして西ローマ帝国は激しい攻防戦もなく誰一人気づくこともなく消え失せた。それは余りにもあっけない静かな死であった。

標準値を達成した前立腺数値2011年11月16日

 昨秋にかかりつけの診療所の血液検査で前立腺の異常値が見つかった。10月に泌尿器科専門医で前立腺癌のPSA検査を受けたら標準値4を越える5の数値だった。前立腺肥大症と前立腺癌の双方の疑いがあると診断された。これを受けて今年2月から最寄りの総合病院で前立腺肥大症の処方薬を呑みながら、3カ月ごとにPSA検査を受けることになった。PSA数値は4.8、4.6、4.4と順調に下がったものの直近の8月も尚標準値を超えていた。
 そして昨日、恒例のPSA検査を受けた。結果は3.95と遂に標準値以内の数値を達成していた。「いい結果が出て良かったです。キチンと薬を呑んでもっらったからでしょう」とは主治医の弁である。他愛もなく喜んでしまった。
 来年2月には、悪性黒色腫の術後5年を迎える。5年が癌手術後の転移の懸念のある要注意期間と告げられている。後3カ月を何事もなく過ごせるよう祈るばかりだ。PSA検査結果を良い前触れに受けとめよう。

公民館講座「平尻巡礼街道・屋外散策」2011年11月17日

 今日、地元山口で昨年から開講している公民館講座「山口風土記探訪講座」の第6回講座を開講した。今回の講座のキャッチコピーは「昔のままの面影を残す山中の旧街道」である。平地や市街地の旧街道の多くは、一般に開発が進み昔の面影はほとんど残されていない。今回散策する平尻街道は、幸いにもそのほとんどが未開発の丘陵地の中にあり江戸期の面影を色濃く残している。
 集合時間の1時半には、有馬川にかかる天上橋の東詰に27名の受講者に集合して頂いた。公民館活動推進員4名と講師の私を加えて総勢32名で出発した。心配した天候も晴れ間の穏やかな小春日和だった。
 第1ガイドポイントの平尻茶店跡に着いた。丹波街道と山口在所道を結ぶ三叉路の地点である。かっての茶店跡の倉庫前でハンドマイク片手にガイドする。今も残る江戸時代後期の三基の石碑が往時の名残りを残している。今は畦道となった旧街道を西に進み突き当たりの山裾から山中の旧街道に入る。枯れ葉の積もる山道を森林浴さながらの快適なコースを進んだ。
 第2ポイントは山中の中心部にあたる地蔵型道標前である。名来神社北側のアクセス道が合流する三叉路である。道標に刻まれた「右は清水道 左は在所道」の文字が受講者の関心を呼んでいる。すぐ北側の竹藪に第3ポイントの鍛冶屋跡がある。井戸跡らしき石組や手水鉢などの遺構が残されている。
 第3ポイントは山中の街道を抜け道場平田宿が見晴らせる地点だ。屋根だけが見通せる平田薬師堂などをガイドしながら昔の旅人たちの山中を抜けてホッとした気分を味わってもらった。すぐ西の有馬川袂でも目前の木製の名来橋や有馬川に飛来する野鳥、水鳥を紹介した。
 有馬川沿いの土手道を南に進むと、愛宕橋とその袂の銘木タモの樹が見える。今年の山口フォトコンテストのポスター背景写真に選ばれた銘木である。名来神社で参拝した後、神社の由緒等をガイドして今回の講座を終了した。道すがら受講者から「一人では到底来れなかった貴重な街道巡りを体験できた」などの感想を頂いた。気持のよい手応えのある屋外散策講座だった。
 帰り道、私の講座を担当頂いた公民館活動推進員の方やご近所の受講者の主婦三名と合流した。すると思いがけなく一人の主婦から「一緒に自宅でお茶しませんか」とお誘いがあった。なんとなく名残り惜しさもあったのだろう。総勢5名で珈琲にケーキを味わいながらよもやま話に花を咲かせた。思わぬご近所の輪が広がったオマケ付きの屋外講座だった。

今日から四日間の北京ツアー2011年11月18日

 今日から三泊四日で北京ツアーに出かけた。ご近所の三組の夫婦6人でパックツアーを申し込んだ。「リッツカールトン北京」に3連泊し、5つの世界遺産の見学や雑技団や京劇を観賞する。広東料理、四川料理、上海料理、北京料理などの食事も楽しみだ。初めての中国体験である。数日前に「地球の歩き方・北京」を購入し事前勉強した。
 朝、驚愕の目覚めを迎えた。枕元の目覚ましは5時34分を表示していた。ご近所宅に我が家のマイカーで5時55分に迎えに行くことになっている。4時にかけていた目覚ましのアラームが何故か鳴らなかったようだ。すぐに家内を起こしテンヤワンヤの大騒ぎ。人間やればできるるものだ。家内が前日までにスッカリ準備を済ませていたのが救いだった。予定時間に知人宅にマイカーを横付けした。6時にはもう一組のご夫婦の車と合流し関空に出発。
 関空で中国の元と両替する。1万円が720元で1元約14円のレートだった。10時発ANAは3時間半のフライトで北京国際空港に到着。現地ガイドの50前の男性・董さん、見習いガイドの30代男性の吉さん、サポーターの20代女性の牛さんと合流。総勢29名ものツアーだった。車内ガイドで董さんの両替が格安レートの1元12.5円と聞き、以降大いに活用した。
 最初の見学は首都博物館だった。5年前に開館したばかりの首都北京市の歴史や文物、考古学を紹介展示した巨大博物館だった。4日間の北京観光の前のアウトラインを掴んでおいてもらおうという意図のようだ。続いて明城壁遺跡公園を訪ねた。かっての北京城を囲む明、清時代の今も残る数少ない城壁を整備した公園だった。城壁のほとんどは晩年の毛沢東が命令して取り壊されたという。初めて訪問した中国で最初に目にした文化遺産は現代中国の始祖ともいうべき人物の手で葬り去られようとした遺跡だった。すぐ北側には北京駅があり、眼下を駅を発車した列車の長い車輛が延々と通過した。
 夕食は「順潮老」というレストランでの広東料理だった。大皿に盛られた食材をターンテーブルで採り分ける中国料理の始まりだった。以後の食事は朝食を除き全てこの方式で提供されどれもこれも同じような食事に思えてしまう。
 夜8時半頃、ホテル「リッツカールトン北京」に着いた。市の東南部のビジネス街に立地した名門五星ホテルである。ゆったりしたベッドルームとバスタブ、シャワー室、洗面室を備えたゆったりした部屋には中国風の豪華な調度品が室内を彩っていた。
 ツアーグループ6人ですぐ近くのコンビニ「セブンイレブン」に出かけ、缶ビールやつまみを調達した後、一部屋に集まってプチ宴会を催した。このメンバーでの初めてのツアーの四方山話は11時頃にお開きになった。NHKのスポーツニュースで今日も琴奨菊が連勝を続けていることを確認して眠りに就いた。

寒風の中の万里の長城2011年11月19日

 リッツカールトンの朝食は6時半からだった。前日に現地ガイドの董さんから「北京のホテルでは随一の朝食ではないか」と折り紙つきの朝食である。アメリカンブッフェスタイルの朝食に中華食材を加えた食材の数々は豊富で味わい深いものばかりだった。
 7時40分にホテルを出発したバスが北京オリンピックの「メインスタジアム・鳥の巣」と「水泳競技場・水立方」近くの道路脇に停車した。オリンピック公園までは行けずにそれぞれを遠望するだけの観光だった。 北京観光のハイライトの世界遺産・万里の長城はそこから1時間半の市の北西郊外にあった。長城の中でも最も整備された八達嶺の北ロープウェイ山麓に着いた。ロープウェイで一気に山頂まで昇り、そこから歩いて壁に挟まれた長城を歩く。観光客がラッシュアワー並みにひしめく中を石畳の斜面や階段を寒風にさらされながらひたすら昇る。ようやく城楼のひとつに辿り着き、仲間6人で記念写真。振り返ると稜線に延々と続く長城の雄大な光景が広がっていた。宇宙衛星から唯一確認できる地上の建造物という。その迫力はさすがというほかはない。
 飲茶付の広東料理の昼食を済ませて明十三陵に向った。明朝の16皇帝のうち13皇帝の陵墓群がある。万暦帝の巨大な地下宮殿の石造りの墓室には石の棺や玉座が残されている。自らの陵墓に三年分の国家財政に相当する財力を傾けた中国皇帝の巨大な権力に舌を巻く。
 続いてパックツアー名物のショッピングに連れて行かれる。最初は総合民芸品店だった。家内が翡翠の言値2.5万円のペンダントトップに関心を示すと、俄然店員の攻勢が始まる。ここで青年期を中国で過ごした義父の中国人との買物交渉術の遺言が蘇る。1万円まで値切った所で「ヤッパリ止める」と帰りかけたら八千円の声がかかる。最後に勧誘を諦めさせるつもりで「5千円なら買う」と言ったらほんとにその値段で「了解」となった。結局売価の5分の一が買価となった一席である。
 夕食は唐縁というレストランの四川料理だった。酸味と辛味の強い味付けの痲婆豆腐や棒棒鶏、坦々麺などの大皿がターンテーブルに次々並べられた。
 夕食後に楽しみのひとつ雑技団観劇で天地劇場という劇場に向った。一人3,900円のオプショナルツアーにほとんどのツアー仲間が参加した。事前のガイドさんの情報では写真撮影OKだったが開演してカメラを構えた途端に、後方からグリーンの点滅光線がモニターに照射され撮影禁止の警告が発せられた。最後のフィナーレで場内が明るくなって何とか撮影可能になった。それでも本場中国でのショーマンシップに溢れた雑技団の目を見張るような完成度の高い曲技の数々を堪能した。
 10時過ぎにホテルに戻り、今夜はさすがにプチ宴会もなく入浴後に11時前に眠りに就いた。

天安門・故宮・頣和園・京劇2011年11月20日

 北京ツアーの三日目の朝が空けた。ホテルのリッチな朝食を済ませて7時50分にバスで出発。最初に連れて行かれたのはラテックス寝具店。ガイドの董さんの巧みなトークに乗せられてそれほど苦にならない気分で店内に入る。最初にラテックスについての店員からの解説がある。要はゴムの樹の樹液を原料に加工した伸縮性のある材料のようだ。これを加工して高反発の枕やマットレスができる。店内のベッドに横たわり実際に寝心地を試してみる。これが実に心地良い。使用中の低反発枕に違和感があったので夫婦二人分の枕を購入した。
 北京を代表するスポット「天安門広場」に着いた。正面には毛沢東の巨大な肖像画が飾られたお馴染みの天安門が位置している。その前面は世界最大といわれる広大な広場である。20年余り前に起こった天安門事件の舞台でもある。大学卒業直後の董さんもこの事件に関わった学生運動家の一人だったという。
 毛沢東の肖像画の下の門をくぐると、彼方に故宮の正門である赤い牛門が見える。故宮は言わずと知れた歴代皇帝の居城であった紫禁城である。牛門の先の人造川に架かる橋の向うには大和門がある。更にその先に紫禁城の正殿である大和殿の巨大な建物をようやく目にした。映画「ラストエンペラー」等の舞台としても余りにも有名な郷愁を誘う光景だった。更にその奥に向って中和殿と保和殿が続く。保和殿北側の龍を刻んだ巨大な一枚岩のレリーフの迫力にも圧倒された。保和殿の先にある乾清門から向うが内廷と呼ばれる言わば大奥である。皇帝や妃たちの居室であった数多くの宮が建ち並ぶ。その一部は現在は皇帝たちが所蔵した文物の展示館として開放され、いくつかを見学した。故宮の北端にある庭園・御花園には太湖石という珍しい一枚岩の築山・堆秀山があった。ようやく故宮の裏門に当たる神武門に出た。門の上には故宮の北側に位置する景山公園の万春亭の風情のあるたたずまいがあった。
 上海料理の昼食の後、世界遺産・頣和園(いわえん)に向った。市の西北部に位置し万寿山とその南に広がる昆明湖から成る広大な庭園である。18世紀に清の乾隆帝により造営さ20世紀初頭に西太后によって再建された。正門の東宮門を入ると仁寿殿や徳和殿などの宮殿区がある。湖畔に面した玉瀾堂は改革を目指した光緒帝が叔母の西太后にうとまれ幽閉された場所である。以前読んだ浅田次郎の「蒼穹の昴」の舞台のひとつが眼前にあった。すぐ横の道を抜けた途端に広大な湖と優雅な楼閣・仏香閣が広がる絶景が飛び込んできた。湖畔に沿って西に進むと緑の柱の長い回廊・長廊がある。回廊を進むと梁に極彩色花鳥や風景画が描かれている。折り返して湖畔の道を対岸の風情を楽しみながら戻った。
 途中でシルク店に立ち寄った後、北京ダックの老舗「全聚徳」で北京料理の夕食を摂った。いかにも老舗らしい格式の店内には大勢の日本人客が席をしめていた。待つほどに大皿に盛られた食材が並べられ、ワゴンで切り分けられたメインの北京ダックも運ばれた。皮付きのダックを数枚とり、甜麺醤をタップリつけ、白ねぎと一緒に荷葉餅 (小麦粉の皮)で巻いて食べる。10年前に家族で香港に旅した時に味わった。二度目の北京ダック体験はかっての感動には遠く及ばない。
 7時半からは3,900円のオプショナルツアー・京劇観賞だった。ホテル内に設けられた京劇専門の「梨園劇場」に着いた。舞台前の客席はテーブル席がありお茶お菓子の接待がある。その後の自由席最前列に陣取り、40元で日本語イヤホンを借りて観賞した。ここは写真撮影は自由ということで舞台上の艶やかな演技をたっぷり撮影した。演目は「項羽と虞美人の別れの場面」「活劇」「皇帝の来訪を待つ楊貴妃」の三演目だった。終演後に出口に向うツアー仲間のオバサンが呟いた。「ア~、ヨー寝られたヮ」。
 今回のツアーで最も盛りだくさんの観光を楽しんだ日だった。歩数計のカウントも1.8万歩を記録した。ホテルのベッドで疲れた身体が深い眠りを誘った。