エピローグ「おばさんトーク入門講座」2012年07月11日

 ご近所の家内の親しい友人に面白くて楽しい奥さんがいる。大阪生まれの典型的な「大阪のおばちゃん」タイプのようである。最近、夕餉の食卓で家内の口からからしばしば彼女の話題を聞かされる。
 昨晩の夕食のことである。いつものように家内のとりとめのないおしゃべりを聞き流していた。突然家内が呟いた。「チョッと待って、言いたいこと思い出しそうや」。(いつでも待ってるやないか。喋ってんのはお前だけやから・・・。とは私の内心の呟き)「そやそや、昨日、○○さんとこでこんなことがあったんや」(○○さんとはくだんの面白い奥さんのことである)
 ○○さんちの玄関先で例によって二人しておしゃべりしていた。そこへ犬の散歩からご主人が帰還した。途端に奥さんは何やらポンポン、ズケズケとご主人に注文をつけた。横で聞いてても結構きつい言い方だったようだ。一段落したあと奥さんは今度は愛犬「まさる」に向かって声をかけた。思い切り優しい猫なで声(犬なで声というべきか)だったようだ。そこでようやくご主人が反撃の狼煙を上げた。「お前な~、悪いけどワシとまさるの接し方、逆にしてくれんか」。
 彼女の名誉のために付け加えなければならない。お二人は大恋愛の末の結婚だったという。それも奥さんの一目惚れである。多少、ポッチャリ系ではあるが美人だったという昔の面影を残した人である。
 その奥さんがかって私がこのブログで記した「おばさんトーク入門講座」 http://ahidaka.asablo.jp/blog/2010/01/08/4802635 がお気に入りだという。家内も何故か気に入っているようで親しい友人たちにコピーして読ませている。著者からすればおばさん族を皮肉っているようで多少気が引ける一文だったのだが・・・。くだんの奥さんも早速、ご主人に読んで聞かせたとのことだ。「言っとくけど、これ私のことやないよ。○○さん(家内)のことやからね」というコメント付きだったらしい。それでもおばさんたちの生態を巧みに表現していると共感してもらったことは、私自身も我が家の玄関先でばったり会った時に聞かされた。
 なぜ共感されるのかが不思議だった。家内やくだんの奥さんの話を聞きながらある仮説に行きついた。おばさんたちは自分たちの生態をよく承知している。多少問題とは思っているだろうが、決してそれを間違っているとも恥ずかしいとも思っていない。むしろそうした生態を周囲の、特に旦那に分かっておいてほしい。それが自分だけのことでなくおばさんたちに共通の生態であることも含めて。だからそうした生態をうまく表現されると共感するし、仲間にも伝え旦那にも読ませようとする。
 何のことはない。私は彼女たちの多少フライイング気味の生態を正当化するためのアリバイ作りの加担者だったのだ。チャンチャン。

公民館講座「山口の歴史(近世編)」2012年07月12日

 今日の午後、山口公民館講座「山口の歴史(近世編)」を受講した。講師は山口町名来在住の郷土史研究家・橋本芳次さんである。個人的にも「HPにしのみや山口風土記」の執筆で何度かお世話になった方だ。80代にして尚、精力的に研究・執筆を続けられているこの町の郷土史研究の第一人者である。
 会場の公民館にはお年寄りを中心に40人の定員を超える受講者が席を埋めた。山口町史の執筆者でもある長老の皆さん方を始め郷土史に関心の深い多くの知人たちの顔がみられた。ふとこの町で郷土史研究の同好会的なサークルができないかと思ったりした。
 講座のテーマは「江戸時代の山口の領主の変遷」といった内容だった。配布された幾つかの貴重な資料の内、兵庫県史資料編(近世)の「江戸時代に県域を領有した領主」という資料の「摂津」版が丁寧に解説された。主な論点は以下の通りである。
 ・山口村五村(名来、下山口、上山口、中野、船坂)は古来より有馬温泉の隣接村として人や産物を供する付属村的な性格が強かった。
 ・有馬温泉を愛した豊臣秀吉は、そのため有馬とともに山口も直轄地とした。
 ・江戸時代になっても有馬、山口は幕府直轄地として継承された。
 ・江戸初期の寛永三年(1626)に武蔵岩槻藩主の阿部正次が大坂城代に着任した際、山口村を含む有馬郡三万石がその知行地となった。
 ・江戸中期の天和元年(1681)に小田原藩部屋住の稲葉正往が京都所司代に着任した際、上山口、中野、船坂と名塩、生瀬の五カ村はその知行地となった。
 ・延享三年(1746)に下山口、名来他の有馬郡南部10カ村は、御三卿のひとつ田安宗武の所領となり明治の版籍奉還まで田安家所領として続いた。
 ・明治新政府になった時には、上山口、中野、船坂は幕府直轄地として、下山口、名来は田安領として引継がれた。
 山口町史を執筆した三人の長老の皆さんの中でも、今回の講師は最も実証的でアカデミックなタイプである。資料を丹念に当たって、仮説を実証するスタイルは、講座としての面白みは別にしても敬服すべきものがある。予定時間をオーバーしての熱のこもったスピーチを拝聴した。

山口を襲った昭和13年の阪神大風水害2012年07月13日

 昨日の朝は散歩を断念した。一旦は傘をさして出かけたが、すぐに凄まじい風雨に襲われ、やむなく帰宅した。昨晩のテレビニュースを見ながら、その朝の同じ頃に九州地方を記録的な豪雨が襲っていたことを知った。熊本県南阿蘇村、阿蘇市、大分県竹田市の甚大な被害状況の映像が映されていた。1ヶ月前の「日本列島縦断の旅」の最終日に乗車した九州横断特急のコ-スを直撃したようだ。車窓から眺めた牧歌的な阿蘇の美しい風景を思い出しながら、目前の深刻な水害被害の映像に心を痛めた。
 今朝は有馬川沿いのいつも通りの散歩だった。水量の多い激しい流れの有馬川だったが水害にはほど遠い。それでも有馬川の水面を眺めながら、昨晩の阿蘇の水害被害の残像が有馬川の氾濫の記録を思い起こさせた。帰宅して「山口村誌」を紐解き、PC画像を取り出した。
 山口村誌には、「昭和13年7月4、5両日の豪雨は阪神地区特に六甲山を中心に大惨害をひきおこした。まして本村を流れている主な川は、六甲山にその源を発しているので、その河川の氾濫はものすごく、土砂・岩石・立木などの奔流にあって、橋梁を流失し、堤防を破壊し、耕地の埋没、人家の流失など、全く拱手の状態で、通信・電灯線などの途絶によって暗黒の中にこの水禍を見守るいばかりであった」と、その被害の実態が生々しく記されている。当時の模様も写真に残されている。掲載の画像は徳風会所蔵画像でいずれも有馬川沿いの被害状況を伝えたものだ。左側は明治橋付近の、右側は上山口久保縄手付近の画像である。

名来老人クラブ・おしゃべり会の飛び入り参加2012年07月14日

 午後、山口旧地区の名来公会堂に出かけた。名来老人クラブ・おしゃべり会の橋本芳次さんの「お話し」を聴くためだ。老人クラブのメンバーはおろか名来の住人ですらない。老人クラブの世話役のお一人から情報を頂き、飛び入り参加した。講師の橋本さんは、一昨日も山口公民館講座で「山口の歴史(近世編)」をお聴きしたばかりの山口町の郷土史研究の第一人者である。
 会場には三つに分かれたテーブルに30人位の参加者がつめかけている。一番奥の講師と同じテーブルの左隣の席に案内された。私の公民館講座の受講者など面識のある方の顔も見えた。
 「お話し」のテーマは「(名来村の)近世の領主」だった。既に過去2回同じテーマで話があったようで、今回は最終回である。初回に配布された資料を隣席の知人に見せてもらった。江戸期の歴代領主の有馬氏、松平氏の系譜や、幕府直轄領から分離して名来、下山口を領した田安家などの系譜が記載されている。上山口、中野、船坂の三村が、幕府直轄地と大坂城代の知行地に変遷した経過の図解もある。
 今回の「お話し」は、山口五村の検地と石高の解説が中心だった。江戸中期の延宝検地の結果をもとに各村の石高が確定された経過が語られた。江戸初期の有馬豊氏の検地との比較で各村ごとの増減の違いなども解説される。持ち味である緻密で実証的な解説が遺憾なく発揮される。最後に幕末の有馬郡南部の各村ごとの所属領を区分した地図の解説があった。幕府領、田安家領、三田藩、飯野藩、岡部藩、尼崎藩などの区分が図示されたものだ。ご自身で作図された貴重な資料である。
 お話しの後、講師は一旦近くの自宅に帰られ一冊の書籍を手に再び戻られた。私にその書籍を渡すためだった。刊行されたばかりの橋本さん著作の「平尻道の地図帳」と題された書籍である。執筆中からその話を聞き、発刊後にはぜひ分けてほしいとお願いしていたものだ。今日、私の顔をみてすぐに願いを叶えて頂いた。この貴重な著作についてはあらためてレポートしようと思う。

母娘の買物三連発2012年07月15日

 一昨日の金曜日の夕方、娘が里帰りした。職場仲間の吞み会のあった婿殿を残してひとり大阪の職場から直行した。母親が待ち受ける三田阪急で合流し、早速母娘のショッピングだった。昨日も午前中から母娘は三田のアウトレットに出かけたまま夕方になっても帰らない。私も6時前に劇団関係者との吞み会で「鳥進」に出かけた。
 そして今日のことである。滋賀の娘宅まで送っていくという家内に同行することにした。里帰り中もほとんど娘と会話する機会もなかった。せめて車中での会話をと思った。朝8時前に自宅を出て、車中で娘の近況なども聞きながら9時半過ぎには娘夫婦宅に着いた。婿殿は趣味のサイクリングで留守だった。
 娘は母親と一緒にすぐ近くのショッピングセンターの毎週日曜のお買得商品を買いに行くという。主婦の生活ぶりも板についてきたようだ。ひとりで部屋に残るのも間が悪いので同行することにした。二人が朝市の野菜を物色している間に、総菜売り場で好みの弁当を見つけた。母娘はすぐまた竜王のアウトレットに行くつもりだ。そちらに付き合うかどうか決めかねていたが、この弁当でひとり部屋に残ることに決めた。
 二人が出かけた後、持参した本を読んで時間をつぶした。昼食を済ませテレビを見ていると婿殿が帰宅した。そして2時半頃にようやく二人も帰ってきた。
 それにしても主婦たちは買い物好きである。家内は娘との三日間を水をえた魚のごとく買物に明け暮れた。主婦となった娘の方もまんざらでもなさそうだ。今まで少し引き気味だった母親の行動パターンにも、同じ主婦になってみて一気に同化したかのようだ。

藤沢周平著「闇の歯車」2012年07月16日

 藤沢周平著「闇の歯車」を再読した。藤沢作品としては久々の長編時代小説だった。市井物ではあるが、謎の人物が企てる押し込み強盗の計画と実行の顛末がテーマのサスペンス小説である。
 長編小説ながら短編の連作といってもよい巧みな構成となっている。謎の人物の押しこみ強盗計画に四人の人物が誘われる。四人は下町の赤提灯「おかめ」の常連であるが、自分の席で黙って飲むだけで互いに言葉を交わすこともない。無頼の若者、病妻を抱える浪人、やくざな旅帰りの親爺、商家の若旦那である。それぞれに屈折した事情を抱え黙々と飲む常連たちである。
 物語は、謎の人物が百両の分け前を餌に常連たちを個々に企てに誘うことから始る。常連たちの誘われるに十分な事情が次々に明かされる。その事情の展開それ自体が一編の物語でもある。実は彼らの共有する居場所「おかめ」もまた謎の人物の息のかかった店だった。「おかめ」で企ての打合せを終えていよいよ押しこみの決行となる。企ては成功するが思わぬ事態の突発で綻びが生じる。他方で企てに加わった仲間たちはそれぞれの抱える事情の暗転で分け前を得ることなく舞台から降りてしまう。首謀者である謎の人物も、最後に切れ者の奉行所同心の手で捕縛される。
 構成の巧みさ、登場人物たちの個性豊かな描かれ方、物語の展開の面白さなど、どれをとっても一級の作品である。藤沢周平という作家の優れた資質と強みが凝縮された作品といえる。

南部・有馬郡各村はどの藩に属していたか2012年07月17日

 五日前の山口公民館講座では同じ講師から「山口の歴史(近世編)」を聴いた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/12/6508338 また三日前には名来老人クラブ・おしゃべり会で橋本芳次さんの「お話し」を聴いた。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/14/6510973 その時に橋本さん作成の「有馬郡南部領有状況(幕末)」の図解資料(左画像)を入手した。江戸幕末期の有馬郡南部の各村をどの藩が領有していたかを地図上で明示した貴重な資料だった。何とかこの資料をビジュアルに分かりやすく編集したいと思った。昨日、ソフトで掲載の画像データを作成した(右画像)。このデータを作成しながら幾つかのことが分かった。
 かつての有馬郡は、現在は北部の三田市、南部西側の神戸市北区、南部東側の西宮市に三分割されている。神戸市北区には道場、長尾、大沢、八多、有野、有馬の各町が、西宮市には山口、塩瀬の各町がある。
 ところが、江戸幕末期には道場町は生野、塩田、道場川原、日下部、平田の各村に、長尾町は下宅原、上宅原、上津下、上津上、岩谷の各村に、大沢町は市原、簾、日西原、中大沢、上大沢の各村に、ハ多町は中村、下小名田、上小名田、吉尾、柳谷、附物、深谷、屏風の各村に、有野町は、二郎、田尾寺、結場、馬場、岡場、切畑、西尾、堀越、唐櫃の各村に、山口町は名来、下山口、上山口、中野、船坂の各村に、塩瀬町は名塩、生瀬の各村に別れ、有馬町は湯ノ山村と呼ばれていた。郡という小さな行政単位のその半分のエリアに40カ村もの村があった。
 有馬郡北部各村の幕末期の領有がどうであったかを把握する資料は手元にない。そのほとんどの村々がおそらく三田藩に包含されていたのではないかと思われる。ただ有馬温泉に近い南部は事情が違った。秀吉が愛した有馬温泉は豊臣家の直轄地だった。豊臣政権を倒した徳川幕府はここを幕府直轄地として継承した。有馬郡南部の各村もまたその多くは有馬温泉の付属村的な役割から幕府領になった。
 その後、飯野藩領や岡部藩領に見られるように大坂城代に就任した幕閣の知行地として有馬郡南部各村が割当てられたり、徳川御三卿のひとつ田安家領となったりするケースもみられた。その結果、作成した画像データに見られるように、南部各村の帰属は見事なパッチワーク模様を描いている。
 有馬郡北部の一体性に比べ、南部のバラつきの背景が理解できた気がする。南部各村が有馬温泉の付属的役割から幕府領とされたことに起因する。幕府領故に、特に湯山から比較的離れた村々は幕府の事情で柔軟に配置換えが可能だった。こうした視点を橋本さんの「お話し」から学んだ。

「平尻道(へんじりみち)の地図帳」の発刊2012年07月18日

 先日、地元山口の郷土史研究の第一人者である橋本芳次さんから、発刊されたばかりの著作「平尻道(へんじりみち)の地図帳」を戴いた。サブタイトルに「そのルートの確認を中心として」とある。
 平尻道は、江戸時代に大坂と丹波を結んだ丹波街道の一部であり、山口町の北部を横断していた。西国三十三所巡礼の街道としても活発な往還があったことから、私の「HPにしのみや山口風土記」でも「山口の西国巡礼街道」として紹介している。http://www.asahi-net.or.jp/~lu1a-hdk/yamaguti-sansaku-junrei-kaidou.htm
 今回の橋本さんの著作は、この平尻道の古来のルートを踏査、聞き取り、文献調査によって丹念に検証し、解明できた事項を地図帳として整理された労作である。大正10年生まれで90歳を迎えた橋本さんにとって、それは大変な根気と気力、労力を要する営みだったに違いない。永年主宰されてきた名来郷土史研究会のメンバーたちのサポートも大きかったと思われる。
 内容は、市井の民間人の著作の域を超えて極めて実証的で学研的であり、関係するテーマの研究者にとって貴重な資料となるものである。最初に平尻道の「名称について」の解説があり、続いて「沿革」が「起こり」と「変遷」に分けて述べられる。いずれも郷土史誌や江戸期の国絵図などの文献にもとづく解説である。
 次に、本論の「ルートの現況と問題点について」が、道場平田との境の始点から名塩赤坂との境の終点まで丹念に綴られる。略地図や踏査写真をふんだんに織り込んだ詳細な検証が続く。「平尻道の始点である道場平田と名来の境の地点の確定」「名来山中の鍛冶屋の屋敷跡付近のルート確定」「名来山中の向坂の地蔵型道標付近の分岐点の整理」といった点など、平尻道のルート確定に伴う9か所の問題地点の克明な調査分析の結果が報告されている。
 最後に、街道が果たした沿道での繁昌ぶりを「川辺郡米谷村の米・薪の仲買商人の商い状況」「東久保の旅籠と牛宿」の事例を挙げて紹介される。その上で、今後のテーマとして「平尻道の果たした役割」「参勤交代で通行した歴代三田藩主と平尻道との係わり」「鍛冶ノ辻に鍛冶屋が居住していた理由とその後」「向坂地蔵尊の縁起、西国巡礼の巡行状況」があげられている。
 巻末には江戸期の絵図6点、国土地理院所蔵の旧地図2点、西宮市発行の年代別の地図5点も収納されている。地図のそれぞれには橋本さんとそのグループが推定した平尻道のルートが描かれている。また第6地図には本文記述の問題地点も明示され、実際に何度か歩いた者だけでなく、これから実地に歩いて研究しようとするする者にとっては貴重なデータになる筈だ。
 著作には「礼書」として橋本さんの謝辞と謹呈の辞が添えられている。末尾に「今後とも、余生を、郷土の先人が残された生活文化の跡を探求し、温故知新による郷土の豊かさの増進に役立っていきたいと願っています」と記されている。齢90にして尚、こうした言葉を言わしめる氏の情熱とひたむきさに敬服する他はない。

紙すき教室の作品ができあがった2012年07月19日

 昨日の午後、宮水学園・塩瀬講座に出席するため名塩行きのバスに乗車した。途中、名塩で下車し名塩和紙学習館に立ち寄った。10日前に受講した紙すき教室で作成した和紙の作品を受取るためだ。http://ahidaka.asablo.jp/blog/2012/07/08/6504666
 会館受付で山口在住の知人でもある係員の女性から作品を受取った。彼女は名塩の旧地区出身の人だ。前回の紙すき教室でも色んな情報をお聞きしたり講師の先生とも引き合わせてもらった。ここのところ名塩との関わりが多く、この旧地区の小さな町に寄せる関心が深い。近い将来この町の風土記をぜひ手がけたいと思う。その際にはこの女性の子どもの頃の風景や町の風土についての情報が欠かせないと思った。そんな雑談を交わして会館を後にした。
 帰宅後、作品をあらためて手に取った。実習用の原料は合成原料、ミツマタ、雁皮と三種類あった。原料の違いで手触りや厚さや色合いが違っている。1枚だけ教室にあった花模様の和紙を入れ込んだ。それが何ともいえない風合いをかもしている。初めて体験した紙すき実習の成果をしみじみと味わった。

宮水学園(塩瀬)「近松門左衛門の生涯」2012年07月20日

 一昨日、宮水学園・塩瀬講座「近松門左衛門の生涯」を受講した。講師は園田学園女子大学近松研究所長の乾安代さんという60前後の女性である。個人的には近松門左衛門という人物との関わりは少ない。わずかに10年前に国立文楽劇場で彼の台本の文楽「曽根崎心中」を鑑賞した位だ。そんなわけで今回初めてこの希代の浄瑠璃・歌舞伎作家の生涯に接した。
 冒頭、「近松門左衛門といえば尼崎市ゆかりの人物として著名だが・・・」と、私の常識にはないコメントが講師から切り出された。「実際には、生まれも育ちも終焉の地も尼崎ではないいんです」と続き、近松の出生が語られる。
 1653年の江戸初期に越前福井で藩士・杉森信義の次男として生まれ信盛と名づけられた。幼児に主君の転封で家族は現在の鯖江市に移住する。10年余りをここで過ごした後、浪人となった父に連れられ京都に移る。京都で近松は公家に仕え、その間、浄瑠璃の語り宇治賀太夫と出会い、彼のもとで浄瑠璃作家の修行を始める。賀太夫のために書いた「てんぐのだいり」がデビュー作と言われる。その後、賀太夫門下の義太夫節の創設者・竹本義太夫と出会い、竹本座の旗揚げ公演用に「世継曽我」を書く。その後の「出世景清」などの代表作で評判をとる。40代に入って上方歌舞伎の名優・坂田藤十郎との出会いから約10年間、歌舞伎作家として名をなす。藤十郎の座元引退とともに大坂に移住し、再び竹本座の専属作家として浄瑠璃の世界に戻る。「時代物(歴史話)」に対し「世話物」と言われるワイドショー的世間話を題材にした作品を初めて手掛ける。その代表作「曽根崎心中」が大ヒットする。晩年には17カ月のロングランとなった「国姓爺合戦」や「心中天の網島」「女殺油地獄」などのヒット作を次々に生み出す。享保9年(1724)、72歳で没す。
 近松と尼崎との関わりもあらためて語られた。大阪に移り住んだ近松は、船問屋・尼崎屋吉右衛門宅に逗留していた。船問屋・尼崎屋は尼崎久々知の広済寺を再興した日昌上人の実家である。 日昌上人と親しく交際していたことから、近松は広済寺の再興に大きく貢献する。没後は広済寺の墓所に眠り、今も近松の墓が残されている。
 1時間半の講座を受講して、文楽の観劇を通して垣間見た近松門左衛門という人物の実像に触れた。ブログを書くにあたってネットであらためて近松の情報も収集した。宮水学園という市のリタイヤ向け講座がセカンドライフの知的な部分を運んでくれる。