公民館講座「国鉄有馬線散策」の下見2012年08月10日

 毎年恒例の公民館講座が近づいてきた。今回のテーマは「国鉄有馬線」で、10月20日に室内学習「蒸気機関車が走った町」を、11月10日に屋外散策「廃線跡を歩く」を開講する。
 今日、私の講座担当の推進員さんと散策講座の下見をした。下山口バス停で待合わせ、有馬温泉行きバスで朝8時過ぎに旧有馬駅のあった乙倉橋に着いた。ここから有馬線廃線跡を辿ることになる。手元には「国鉄有馬線」調査の先達でもある亡き吉田さん作成の図面があった。生前に吉田さんから託された住宅地図上にマークされた線路跡の詳細な図面である。
 乙倉橋正面の先山クリニックの辺りが有馬駅のあったところだ。今も先山クリニック前から北に200mばかり残されている線路道を辿った。乙倉橋に戻り、県道98号有馬山口線を山口方面に向かう。途中、新有馬バス停の先に東側の線路跡方向に入る道を降りてみた。有馬川にかかる長尾佐(なぐさ)橋の先で行きどまりだった。図面上はこの橋のすぐ東側に線路があった筈だ。
 再び県道に戻り、有馬町から山口町中野に入る。この辺りからは東側の山裾を進行中の県道バイパス工事が展望できる。このバイパスのルートの殆どが旧国鉄有馬線の廃線跡である。県道を更に進み東側の造成地を横断して建設中のバイパス架橋工事現場に接近した。昨年8月末まで有馬線の橋脚が残されていた同じ場所に、新たな橋脚が建ち、南北に橋台が建設されていた。南側の橋台前面にかっての有馬線の橋台の石積みが残されていた。県道に戻り西側に渡って皇太神社に立ち寄ることにした。テーマから外れるが散策講座でも紹介したいスポットと考えたからだ。旧山口5村の各村には氏神が祀られ、この皇太神社は中野地区の氏神である。山肌に沿って細い参道を南に上った先に四つの小さな末社を持つ本殿がある。本殿正面には明治時代に中野住民が奉納した立派な絵馬がある。
 再び県道に戻り、東側の細い畦道伝いに南に向かう。正面の立派な萱葺民家の前を東に折れて進むと工事中のバイパスルートと交差する。交差地点南の少し先には既に立派な舗装路ができている。未使用の舗装路を10分ばかり進むと阪神高速北神戸線の高架下に出る。ここの地点で旧線路道は断絶している。ただ辛うじて南東側に旧線路道と繋がったコンクリート階段が設置されている。
 殆ど車の通らない車道を横切り階段を昇って旧線路道に再び合流した。この南に真っすぐ高田上谷病院まで続く道路が有馬線の線路道である。病院の二つの建物の間を抜けて南に行くと病院の建物右手に先日訪問した「高齢者あんしん窓口・山口」がある。お年寄りの受講者が多い散策講座でも案内しておくことにしよう。
 病院角の交差点の西側にはフランス料理の店がある。この店の場所に23年前まで「上山口の夫婦松」があった。夫婦松のすぐ東側を有馬線の線路が走っている写真が残されている。林で覆われた丘陵地の東側を抜けてすぐのところを西に折れた先に道がある。この山口中学校正門西を抜けて有馬川に交差する道もまた線路道である。この道の真ん中辺りの西に折れた的場建設ビル北側の道沿いに新築の民家がある。その庭に大きな立方体に近い巨石が置いてある。民家が建つ前まで野ざらしにされていた珪化木である。有馬川に交差する直前の東側にもスポットがある。山口ゆかりの江戸期の三人の浄瑠璃太夫のひとり「竹本加治太夫墓」である。
 有馬線は有馬川を現在の芽具実橋とほぼ同じ位置で架橋していた。辛うじて当時の橋台とおぼしき石組が残されている。有馬線は川を越え県道98号線を超えて公智神社前の道路に繋がっていた。山口のお年寄りたちは今もこの道を「線路道」と呼んでいるそうだ。公智神社前の西川にかかる「駅前橋」、ホテル・アイアン向いの民家辺りにあった「有馬口駅」の駅舎跡などが最後のスポットとなる。
 推進員さんと二人でしばしば行き止まりの道を折り返したりして長時間の下見となった。途中、色んな情報交換もしながらの散策だった。我が家に辿り着いたのは11時前だった。万歩計のカウンターは2万歩をとっくに超えていた。

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