義父の死2010年01月11日

 「たった今、オヤジが亡くなりました」。携帯電話の向こうから義兄が伝えた。午後4時半頃の山陽自動車道を自宅へ向かう車中だった。

 朝7時、前日深夜に訪ねていた家内の実家で目覚めた。途中起こされなかったことが、義父の容態の安定を物語っていた。実家での心ずくしの朝食を済ませ、病院に向かって義兄の車の後を家族3人の車が追いかけた。
 病室での義父の容態は、呼吸に伴う肩の上下動が大きくなった以外は大きな変化はない。昼過ぎに義姉も娘と孫娘と一緒に到着した。まもなく二歳になろうとしている孫娘の無邪気な振る舞いが、沈みがちな病室を俄かに明るくしてくれる。この間も義父は小康状態を保っている。この状態が二三日続くかもしれない。娘の明日の勤務のこともある。場合によっては、いったん自宅に戻り出直すことも考えなければならない。
 2時過ぎに院長の回診があると看護師さんから教えられた。その結果を聞いて判断することにした。ところが一向に回診が行われる気配がない。いったん帰宅することにし、3時過ぎに病院を後にした。
 そして4時半頃の冒頭の訃報連絡だった。義父と別れてわずか1時間半後の急変だった。悔いが残った反面、臨終間際に立ち会えたことを喜ぶべきかもしれないと思い直した。1年2か月前に義母を見送った時には、病の急変と直後の死が、臨終の場に臨むことを許さなかったのだから。

四世代の時を隔てた出会いと別れ2010年01月12日

 家内と二人で9時半に自宅を出て、岡山市内の葬祭会場に向かった。葬祭会場の霊安室で今は故人となった義父と対面した。3時には式場に隣接した遺族控え室に遺体が移され、義兄家族と一緒に納棺式に立ち会った。
 納棺師たちによって義父は棺の中の人となった。故人の思い出の品々が棺に納めらた直後のことだ。棺の中の義父を幼女がじっと見つめていた。眠りと死を区別できない曾孫は、布団に眠る義父にさっきまで「ジーチャンッ」と無邪気にはしゃぎながら呼びかけていた。棺に納まったジーチャンの姿にただならぬものを感じたのだろうか。声もなく立ち尽くすその姿に思わずデジカメのスイッチを押した。
 瞳の中に写ったものをおさなごはどのように受けとめたのだろうか。小さな両手を前に組んで見つめる表情は真剣そのものに見える。94歳と2歳の出会いと別れが交差した束の間の一瞬だった。おさなごの母親にこの画像を贈ることを約束した。大きくなった少女にこの光景を思い出してほしいと思った。四世代もの時を隔てて確かな出会いがあったことの意味を受けとめてほしいと思った。

追悼メロディー2010年01月13日

 13時から始まった義父の告別式が終わりを告げようとしていた。司会者が抑えた口調で個人を偲ぶメッセージを朗読している。遺族から聞きとられたいくつかのエピソードが語られる。
 1年2か月前の義母の告別式でも同様のシーンがあった。その時は在りし日の義母の思い出を浮かべながら偲んでいただけだった。今回、同じシーンに身を置きながら、自分自身の告別式で語られるエピソードに想いを馳せている自分に気づいた。ずっと以前に実父母を送った。義父母を送った今、順縁を想定すれば、送るべき人はもういない。次に送られる側に自分自身がいる。乾いた坦々とした気持ちでその事実を受けとめている自分がいる。
 エレクトーン奏者が司会者のメッセージに促されてTV番組「水戸黄門」の主題歌メロディーを流し始めた。我が家に度々遊びに来ていた頃、義父が必ず観ていた番組だ。故人を偲ぶに相応しいメロディーに違いない。♪人生楽ありゃ 苦もあるさ 涙のあとには 虹も出る・・・♪思わず口ずさみながら、「自分の追悼メロディーも選んでおかなければ・・・」と思っている自分がいた。
 
 昨晩遅くに式場に合流した娘、今日の昼前に駆けつけてくれた息子夫婦・・・。義父の死が正月以来の家族の邂逅をもたらした。

それぞれの日常2010年01月14日

 義父の危篤、訃報、通夜、告別式と4日間の非日常の時間が過ぎた。昨晩、8時半頃に帰宅し10時過ぎにはベッドについた。
 明けて今朝、早朝の散歩に出かける。マクドナルドのモーニングコーヒーと読みかけの文庫本。帰宅すると娘はすでに出勤し、しばらくして家内もパート勤務に出かけた。それぞれの日常が回り始めた。
 馴染んできた大型デスクに向かって二日分のブログ更新に着手する。穏やかで平穏な老後スタイルが戻ってきた。

恒例の風物詩の出現2010年01月15日

 1年で最も厳しい寒さの早朝である。酷寒の空気が両耳に刺すような痛みをもたらす季節である。二三日前から着用し始めた毛糸の帽子が両耳を覆っていた。有馬川の川面の半分が氷に覆われていた。水の流れを確保した残り半分の川面が氷との戦いに勝利していた。
 中国自動車道の橋脚をくぐった先の田圃に、今年もいつもの風物詩が出現した。山口の昔からある集落のひとつの「とんど焼き」の笹竹の束である。おそらく今週末の日曜朝に恒例行事が催うされるのだろう。
 山口は農耕社会の伝統と風習をなお色濃く残している。そうした行事を煩わしく思っている層も少なくない筈だ。にもかかわらず伝統的行事が頑なに維持されている背景やエネルギーは何なのだろう。新興住宅街在住の傍観者でしかない私にはその苦労や煩わしさはない。季節の移ろいをもたらす風物詩を、ありがたく見つめるばかりである。

五木寛之著「風の柩」他3篇2010年01月16日

 五木寛之の「風の柩」を読んだ。表題作他3篇の小説が納められた文庫本である。今から40数年前の1970年代に発表された作品群だった。各作品には「戦後」が色濃く投影されている。
 最も印象に残ったのは、やはり表題作の「風の柩」だった。越中おわら風の盆を舞台にした珠玉の短編だった。文庫本の50頁足らずの短編に、旅情とラブロマンスと戦争体験と盆唄の魂が凝縮されて貪欲に描かれている。
 それにしてもこの作者の文章力には圧倒される。なによりも夜明け前のおわらの流したちの登場場面の描写は秀逸だった。読みながら見たことのないその情景をありありと思い浮ばせられた。
 『空は思いがけない早さで明るみはじめている。腕時計を見ると五時二十分だった。三味線の音が急に大きくなった。薄明かりの中から、五、六人の浴衣姿の男たちが夢の中の情景のように、ぼんやりと浮びあがった。胡弓がうねるようにうたい、三味線のゆったりしたリズムが時を区切るようにその旋律を断ち切った。囃しの文句がうたわれ、やがて腹にしみるような高音の本唄が明るみはじめた町並みに流れだした』
 富山の八尾の風の盆を訪ねたいと思った。夜明け前のおわらの流しを聴きたいと思った。

復刻版日記⑭バイアグラ騒動記2010年01月17日

(1999年9月20日の日記より)
 高校時代の級友G君からの連絡。「久しぶりに大阪で会わへんか!○○が高松から出てくるんヤ。ジャランと4人で飲もデ。」
 というわけで本日の何年ぶりかの高校仲間との邂逅となった。難波のサウスタワーホテルロビーで待ち合せ、近くの『がんこ寿司・難波本店』での小宴会。油ぎっしゅな入道頭のG君のギャグまじりの注文。客慣れた中居さんでもたじろぐ筈。ましてや係りは、二十歳過ぎの初々しい中居さん。発注段階で既にケッコウな盛り上がり。
 ・・・デ、いつも話題の中心になる「ジャラン」ことF君。アルコールが入るほどに快調なトーク。今回のテーマは、ナント・・・バイアグラだ~ッ。以下、ジャランのバイアグラ体験記である。
 『みんな!バイアグラ、使こーたことあるか?ワシ使こーてみたで。ここんとこ悩み事なんかがあったりしてアカンかったんヤ。それで試してみたんやけど、効いたワ~。メッチャ効くデ~。3回クリアや。クセになってしもた。僕らバイアグラッ子で~す。言うとくけど前もって飲んどかなアカンで。酒飲んでたら1時間前、シラフの時やったら30分前や。1錠丸ごとは効きすぎるさかい半分にして使こうてるんや。○○チャン!(小生の高校時代のニックネームで呼びかけられる)ヤルワッ。遠慮スナッて(別に遠慮した訳ではない。必要性を感じていないのだけだ)』
 というわけで我が家には噂の「バイアグラ」がもたらされることとなった。(上の画像である。ジャラン仕様で半分に分割されている。)隠しておくこともないので帰宅後、ヨメハンに正直に報告。即座のリアクション。「お父さん何考えてんのッ」。

我が家の家事分担の攻防2010年01月18日

 先月10日の労働委員会の調査以降、大阪に出かける機会が全くない。今月中旬に義父の不幸で岡山に出かけた以外は、この40日ばかりの殆んどを自宅で過ごした。
 家内は、1週間ばかりの正月休日の後のパート勤務が始まった。「もう歳も歳なんやから辞めたら・・・」という亭主の言葉に耳を貸す気はないらしい。時に「しんどいワ~」とボヤキながらも、職場仲間の付き合いがかけがえのないものになっているようだ。リタイヤ亭主と一日顔突き合わせて過ごすことにためらいがあるというホンネもあるかもしれない。
 娘は仕事がステップアップしたようで、このところやけに忙しい。夜11時前後に帰宅したかと思うと翌日には朝6時過ぎに出勤したりしている。
 そんなわけで、我が家で今や最もゆとりある生活を過ごしている私の実態がクローズアップする羽目になった。数年前の状況が完全に逆転している。そんな実態を見通したかのように、家内は家事の一部を巧妙に振ってくる。朝のゴミ出し、食後の洗い物、洗濯物の取り込み等々。先日は嫌がる亭主を押し切って炊飯の手順まで教え込んだ。それもこれも「誰が最も長く自宅に居るか」という物差しがしからしむところである。
 ちょっとばかり家事に足を踏み込んでみて、その大変さや煩わしさを思い知らされた。それだけに最もゆとりある存在となった今、徐々にではあっても分担はやむなしの心境になっている。ただ可能な限り緩やかに先延ばしにしたいと考えているにすぎない。

ラトビア共和国2010年01月19日

 早朝ウォーキング途中のいつものマクドナルドである。五木寛之の新装版文庫本「青年は荒野をめざす」を読んでいた。1967年著作の作品である。20代半ばに夢中で読んだ筈の作品だ。主人公のジュンがフィンランドからバルト海を超えて船でスウェーデンのストックホルムに向うくだりだった。「バルト海」というキーワードが34年前の懐かしい思い出を運んできて、しばらく物思いにふけった。
 労組の書記長という役職にあった当時、今はロシアとなった社会主義国家・ソ連を訪問した。友好労組の上部組織の訪ソ団の一員としての訪問だった。モスクワ、レニングラード(サントペテルブルグ)と訪ね、最終訪問地のリガを訪ねた。ソ連に併合されたバルト海沿岸の国・ラトビアの首都だった。
 ラトビアの受入側スタッフのひとりとしてアルビーナという30代の美しい女性が出迎えた。30歳という訪ソ団で最も若い世代だった私と何かと言葉を交わす機会が多かった。片言の英語で話し合えるという強みが幸いしたこともある。二日目の歓迎パーティーの席上だったと思う。幾分の酔いも手伝ってか、隣り合わせた彼女の口から思いがけない心情が吐露された。ロシアに蹂躙され続けたラトビア(彼女は「ラティア」という愛称を使っていた)の人々の独立への熱い想いだった。ソ連邦崩壊の15年前のことである。ブレジネフ書記長体制が盤石の基盤を誇っていた時期である。出会ったばかりの異邦人に語らずにはおれなかった彼女の言葉にラトビア人たちの想いの深さを知らされた。私にとっての初めての民族問題との出会いだった。同時にそうした心情を吐露されたことを内心嬉しく受けとめた。それから16年後にラトビア共和国は独立を勝ち取り、その7年後にEU加盟を果たした。
 「青年は荒野をめざす」は五木寛之のソ連や北欧を旅した体験がベースになった作品だ。30代早々のその後の作家活動に重要な影響を与えた筈の旅だった。私にとっても初めての海外の旅だったソ連訪問は、多くの感動といくつかの波乱に富んだ体験をもたらした。その貴重な体験をいつか短編に綴りたいという願いが彷彿と沸き起こった。

映画評「アバター」2010年01月20日

 久々の大阪での長い一日だった。早朝6時前に自宅を出て3カ月ぶりに大阪市大病院の受診に行く。9時前に血液検査を済ませ、最寄りのマクドナルドの朝マックで朝食にありつく。11時に主治医の女医さんから血液検査結果の報告と術後の触診を受けた。特に問題なし。3月のCT検査とPET検査の予約をして終了した。
 TOHOシネマズ梅田の予約座席に着席したのは12時30分の上映開始直後だった。シアター2の500人近い観客席を、話題の3D映画「アバター」を観るためほぼ満席の観客が埋めていた。
 素晴らしい映像美が2時間半にわたってスクリーンに展開した。テーマパークで体験した突然観客に向って飛び出してくるこけおどし的な立体映像ではない。むしろ奥に向って深みのある映像の美しさこそがこの作品の立体映像の真骨頂だ。クラゲのような生き物がふわふわと浮かびながら流れてくるリアルさに息をのむ。現実の視線のままに映像化しようという試みなのだろうか。
 立体映像の美しさだけではない。3D目的で期待していなかったテーマ性もなかなかのものだった。宮崎駿風の「自然と人間の共存」にも通じるもので骨太で説得力があった。豊かな自然に包まれた衛星パンドラに住む先住民族ナヴィと、パンドラに眠る貴重な鉱物の採掘を目論む地球から送りこまれた人間たちとの闘いである。自然豊かな歴史の街の一角に忽然と開発された広大な新興住宅街に移り住んだ自分自身がオーバーラップする。
 青い肌と大きな体をもつ先住民ナヴィは大きな目と扁平な鼻を持つ不気味な顔つきで描かれている。元海兵隊員の主人公ジェイクがDNA技術によってナヴィーの肉体を持つアバターとしてパンドラに送り込まれる。ナヴィ族長の娘ネイティリと結ばれたジェイクは人間たちのパンドラ侵略攻撃との闘いを決意する。ナヴィの最終的な勝利のシーンで二人が口にする。「ネイティリ、君が見える」「ジェイク、あなたが見える」。先住民族と人類の魂を持ったアバターの本物の交わりの瞬間である。不気味だったナヴィの顔がいつの間にか美しく思えてしまう。
 日本の各地で新興住宅街とその地の先住住民との交わることのない壁があると思う。何よりも新住民の側のその地の自然や風土や歴史を知ることが出発点であることを示唆された作品だった。