五木寛之著「百寺巡礼・第六巻関西」 ― 2009年06月01日

相変わらず読書は五木寛之の著作に嵌っている。従って本屋に行くとつい五木寛之のコーナーに目がいってしまう。「百寺巡礼」というシリーズが目についた。身近な「第六巻関西」を手にとってみた。表紙記載の取り上げられている寺院に「亀山本徳寺」の文字があった。姫路市にある亀山本徳寺は私にとって思い入れの深いお寺である。そのお寺を五木寛之がどのように描いているのか。即座に購入を決めた。
著者はどのような基準で百寺を選択したのだろう。札所でもなく観光寺でもない亀山本徳寺は、通常取り上げられることは稀である。真っ先に第58番の亀山本徳寺の章を読んだ。亀山本徳寺は室町時代末期に浄土真宗中興の祖・蓮如が布教の最西端の拠点としてつくらせた英賀本徳寺が前身である。かつて英賀は夢前川の三角州がつくる水に囲まれた要害の地形であったという。同時に播磨灘に面し瀬戸内海交易と水軍との関わりという地の利を有していた。英賀本徳寺を中心として人々が集まり町を作り寺内町が誕生する。交易による経済的繁栄を背景に英賀は西の真宗王国として繁栄した。しかし信長の中国攻めによる秀吉の攻撃の前に英賀城は落城し寺内町も焼き尽くされる。しかし秀吉は真宗門徒の潜在的な力を無視できず、英賀本徳寺の建物を3Km離れた亀山に寺地を寄進し移転させた。
亀山本徳寺は私の故郷の地にある。その境内はしばしば幼かった私の遊び場であった。その懐かしいお寺の私も知らなかった歴史が見事に浮かびあがってくる。著者の目を通して語られる境内の建物の姿が懐かしい思い出を次々と呼び起こす。正面の大門、目隠し塀、巨大な本堂の迫力、太鼓楼等々。二百畳ほどもある本堂の外陣が、真宗寺院共通の多くの人を受入れたいとする「開かれた寺」の象徴であるという著者独自の視点が新鮮だった。
第六巻には亀山本徳寺を含め関西の十カ寺が取り上げられている。それぞれに参考文献を読みこなした上での巡礼であり、随所に見られる著者独自の視点での記述に納得させられる。西国三十三所札所でもある粉河寺の章では、次のような記述があった。著者の百寺巡礼にかける思いなのだろうか。私自身も地元に残る廃れいく西国三十三所巡礼路の跡を辿ったばかりだ。心に沁みる文章だった。
『道教における<道>とは、相反するいろいろな人たちが共に存在しうる場所のことだという。巡礼路は、まさにその意味での<道>なのではあるまいか。(中略)その<道>を流動していく人びとは、ここを通過してなにか大きな力を得てきた。そして、また次の寺への道をめざしていく』
著者はどのような基準で百寺を選択したのだろう。札所でもなく観光寺でもない亀山本徳寺は、通常取り上げられることは稀である。真っ先に第58番の亀山本徳寺の章を読んだ。亀山本徳寺は室町時代末期に浄土真宗中興の祖・蓮如が布教の最西端の拠点としてつくらせた英賀本徳寺が前身である。かつて英賀は夢前川の三角州がつくる水に囲まれた要害の地形であったという。同時に播磨灘に面し瀬戸内海交易と水軍との関わりという地の利を有していた。英賀本徳寺を中心として人々が集まり町を作り寺内町が誕生する。交易による経済的繁栄を背景に英賀は西の真宗王国として繁栄した。しかし信長の中国攻めによる秀吉の攻撃の前に英賀城は落城し寺内町も焼き尽くされる。しかし秀吉は真宗門徒の潜在的な力を無視できず、英賀本徳寺の建物を3Km離れた亀山に寺地を寄進し移転させた。
亀山本徳寺は私の故郷の地にある。その境内はしばしば幼かった私の遊び場であった。その懐かしいお寺の私も知らなかった歴史が見事に浮かびあがってくる。著者の目を通して語られる境内の建物の姿が懐かしい思い出を次々と呼び起こす。正面の大門、目隠し塀、巨大な本堂の迫力、太鼓楼等々。二百畳ほどもある本堂の外陣が、真宗寺院共通の多くの人を受入れたいとする「開かれた寺」の象徴であるという著者独自の視点が新鮮だった。
第六巻には亀山本徳寺を含め関西の十カ寺が取り上げられている。それぞれに参考文献を読みこなした上での巡礼であり、随所に見られる著者独自の視点での記述に納得させられる。西国三十三所札所でもある粉河寺の章では、次のような記述があった。著者の百寺巡礼にかける思いなのだろうか。私自身も地元に残る廃れいく西国三十三所巡礼路の跡を辿ったばかりだ。心に沁みる文章だった。
『道教における<道>とは、相反するいろいろな人たちが共に存在しうる場所のことだという。巡礼路は、まさにその意味での<道>なのではあるまいか。(中略)その<道>を流動していく人びとは、ここを通過してなにか大きな力を得てきた。そして、また次の寺への道をめざしていく』
図書館分室のありがたさ ― 2009年06月02日

4月にできたばかりの山口センターに中央図書館山口分室が設置されている。既に何度か訪ねて大いに利用させてもらっている。自宅から徒歩15分程度で頃合いの散歩コースでもある。
山口センターは支所、ホール、保健福祉センター、老人いこいの家、図書館分室、児童センター、公民館が入居する地区センターである。くらし、健康、憩い、集い、学びといった市民生活をカバーする機能を持っている。できるまでは「箱物行政」のイメージもなくはなかったが、できてみると「箱の中のコンテンツ」はそれなりにありがたいものだと痛感した。ちゃんとした箱があるからこそ収容可能なコンテンツもあるというのも現実だろう。
とりわけリタイヤした身には、図書館機能はありがたい。地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の執筆には地元に関する資料や著作物が欠かせない。こうした書籍の蔵書は地元公共図書館の最も得意とする分野である。今日も郷土資料関係コーナーで見つけた「西宮の民家」と題する教育委員会発行の書籍を借り受けた。身近に公共図書館がなければ決して目にすることはなかった筈の書籍である。2ヶ月前にはたまたま目にした五木寛之著作の「仏教の旅(ブータン編)」を借り受けた。学生時代以来の私の五木寛之への遍歴の始まりだった。
終の棲家となったこの地の豊かな自然や歴史や風土に感謝している。反面、自然の豊かさと引換えに都会でしか得られない文化的ストックに物足りなさを覚えていた。図書館分室のオープンがそれを幾分なりともカバーしてくれた。
山口センターは支所、ホール、保健福祉センター、老人いこいの家、図書館分室、児童センター、公民館が入居する地区センターである。くらし、健康、憩い、集い、学びといった市民生活をカバーする機能を持っている。できるまでは「箱物行政」のイメージもなくはなかったが、できてみると「箱の中のコンテンツ」はそれなりにありがたいものだと痛感した。ちゃんとした箱があるからこそ収容可能なコンテンツもあるというのも現実だろう。
とりわけリタイヤした身には、図書館機能はありがたい。地域紹介サイト「にしのみや山口風土記」の執筆には地元に関する資料や著作物が欠かせない。こうした書籍の蔵書は地元公共図書館の最も得意とする分野である。今日も郷土資料関係コーナーで見つけた「西宮の民家」と題する教育委員会発行の書籍を借り受けた。身近に公共図書館がなければ決して目にすることはなかった筈の書籍である。2ヶ月前にはたまたま目にした五木寛之著作の「仏教の旅(ブータン編)」を借り受けた。学生時代以来の私の五木寛之への遍歴の始まりだった。
終の棲家となったこの地の豊かな自然や歴史や風土に感謝している。反面、自然の豊かさと引換えに都会でしか得られない文化的ストックに物足りなさを覚えていた。図書館分室のオープンがそれを幾分なりともカバーしてくれた。
古民家を訪ねる ― 2009年06月03日

朝のウォーキングを兼ねて山口の古民家の探訪に出かけた。昨日、図書館分室で借り受けた「西宮の民家」には、山口の9軒の古民家の昭和53年の調査資料が掲載されている。その9軒が30年後の今どうなっているか興味深かったし、現存する建物はぜひ画像に収めたかった。「にしのみや山口風土記」のデータ蒐集が目的である。
山口の中心部は上山口、下山口、名来というかってそれぞれ村として独立していた地区で構成されている。この地区の真中を南北に旧街道が貫いている。有馬温泉と三田を結ぶ有馬街道であり、大坂と丹波を結ぶ大坂街道の一部でもあった。当然ながら古民家はこの街道沿いか、そのすぐ背後に集中している。街道の街であった山口は街道沿いに街並みが造られていったからである。
「西宮の民家」に掲載の9軒は、上山口の梶三幸家、梶本るい家、井上武治家、天野基家、細木桂家と下山口の仲伊市家、吉田利平家、中南角治家、名来の前田正家である。探訪の結果、現存する古民家住宅は、井上、天野、細木、仲、吉田の各住宅の5軒にとどまった。いずれの建物も150年以上経た幕末から明治初期の建築と推定されている。
「西宮の民家」によれば山口の民家は「妻入」「平入」の建築様式の内、摂津・丹波型の妻入民家圏にあるという。にもかかわらず山口では圧倒的に平入民家が多いという。実際現存の5軒も全て平入だった。この背景にはかって紙漉等の家内手工業が盛んであったことから土間の幅が狭くならざるをえない妻入様式は敬遠されたのではないかとの推測が記述されている。
ちなみに「平入(ひらいり)」、「妻入(つまいり)」とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式で、平入は屋根の棟と平行な面である平に出入口があるものを指し、屋根の棟と直角な面である妻から出入りするものを妻入というようだ。
探訪途中で、井上家の向いのお地蔵さんに花を手向けている井上家の老婦人と雑談できた。自宅も含めてトタン板で覆われた古民家の全てがトタンの下は茅葺屋根であることをあらためて教えられた。また下山口では旧街道沿いに住いのある民生委員の同僚から古民家の存否の情報を聞くことができた。旧街道沿いの古民家に関心を寄せる新興住宅街住民への好意的な受け止め方が感じられた。「ふるさと探訪」というキーワードが新たな人のつながりをもたらすように思えた。
山口の中心部は上山口、下山口、名来というかってそれぞれ村として独立していた地区で構成されている。この地区の真中を南北に旧街道が貫いている。有馬温泉と三田を結ぶ有馬街道であり、大坂と丹波を結ぶ大坂街道の一部でもあった。当然ながら古民家はこの街道沿いか、そのすぐ背後に集中している。街道の街であった山口は街道沿いに街並みが造られていったからである。
「西宮の民家」に掲載の9軒は、上山口の梶三幸家、梶本るい家、井上武治家、天野基家、細木桂家と下山口の仲伊市家、吉田利平家、中南角治家、名来の前田正家である。探訪の結果、現存する古民家住宅は、井上、天野、細木、仲、吉田の各住宅の5軒にとどまった。いずれの建物も150年以上経た幕末から明治初期の建築と推定されている。
「西宮の民家」によれば山口の民家は「妻入」「平入」の建築様式の内、摂津・丹波型の妻入民家圏にあるという。にもかかわらず山口では圧倒的に平入民家が多いという。実際現存の5軒も全て平入だった。この背景にはかって紙漉等の家内手工業が盛んであったことから土間の幅が狭くならざるをえない妻入様式は敬遠されたのではないかとの推測が記述されている。
ちなみに「平入(ひらいり)」、「妻入(つまいり)」とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式で、平入は屋根の棟と平行な面である平に出入口があるものを指し、屋根の棟と直角な面である妻から出入りするものを妻入というようだ。
探訪途中で、井上家の向いのお地蔵さんに花を手向けている井上家の老婦人と雑談できた。自宅も含めてトタン板で覆われた古民家の全てがトタンの下は茅葺屋根であることをあらためて教えられた。また下山口では旧街道沿いに住いのある民生委員の同僚から古民家の存否の情報を聞くことができた。旧街道沿いの古民家に関心を寄せる新興住宅街住民への好意的な受け止め方が感じられた。「ふるさと探訪」というキーワードが新たな人のつながりをもたらすように思えた。
お年寄りと「昔のふるさと話し」 ― 2009年06月04日

山口町の北部を平尻街道と呼ばれた旧街道が横断していた。西国三十三所巡礼街道の一部でもあった。山口町名来の山中を通り、隣町の道場町平田宿が平尻街道の終点である。今朝の散策のテーマは、昔の旅人の気分を味わいながら名来山中を抜けた地点から平田宿までを歩くことだった。
山中を抜けて旅人たちは心和む思いで平田ののどかな田園風景を眺めたはずだ。道なりに有馬川の土手道をしばらく歩むと土手を下りて平田宿の中心を走る旧街道に入る。左には古い薬師堂が見える。旧街道沿いに昔の宿屋の様式をとどめた民家や茅葺屋根の古民家が今も残されている。
古民家の前でデジカメを構えていると、家からゴミ出しに出てきた70歳前後のオジイサンから不審者を見るような目つきで見つめられた。思わず「この道沿いに昔は宿場があったんですね」と声を掛けた。意表をつかれた質問に怪訝な顔つきが緩んだ。「向こうの古いお堂はいつ頃建てられたものですか」「お堂の中へは入れないんですか」と矢継ぎ早の質問にオジイサンの舌が滑らかになっていく。「子供の頃は有馬や三田に行くのはこの道しかなかった」「あのお堂は専門家の話では相当古いようだ」「毎月8日にお堂の中で村の人がお参りする」などの話しが次々出てくる。
現役引退後の長い人生が徐々に出番をなくさせていく。お年寄りにとって昔のふるさと話しは自分の世界に戻れる格好のテーマに違いない。そのふるさとは開発や近代化の波に呑まれて、風景だけでなくカルチャーまでもがどんどん変質してしまいつつある。ふるさとの風景や伝統や文化を守ることはお年寄たちの出番を促すことでもある。
山中を抜けて旅人たちは心和む思いで平田ののどかな田園風景を眺めたはずだ。道なりに有馬川の土手道をしばらく歩むと土手を下りて平田宿の中心を走る旧街道に入る。左には古い薬師堂が見える。旧街道沿いに昔の宿屋の様式をとどめた民家や茅葺屋根の古民家が今も残されている。
古民家の前でデジカメを構えていると、家からゴミ出しに出てきた70歳前後のオジイサンから不審者を見るような目つきで見つめられた。思わず「この道沿いに昔は宿場があったんですね」と声を掛けた。意表をつかれた質問に怪訝な顔つきが緩んだ。「向こうの古いお堂はいつ頃建てられたものですか」「お堂の中へは入れないんですか」と矢継ぎ早の質問にオジイサンの舌が滑らかになっていく。「子供の頃は有馬や三田に行くのはこの道しかなかった」「あのお堂は専門家の話では相当古いようだ」「毎月8日にお堂の中で村の人がお参りする」などの話しが次々出てくる。
現役引退後の長い人生が徐々に出番をなくさせていく。お年寄りにとって昔のふるさと話しは自分の世界に戻れる格好のテーマに違いない。そのふるさとは開発や近代化の波に呑まれて、風景だけでなくカルチャーまでもがどんどん変質してしまいつつある。ふるさとの風景や伝統や文化を守ることはお年寄たちの出番を促すことでもある。
卒婚?我が家は? ― 2009年06月05日
「卒婚」という言葉があるようだ。結婚生活を解消してしまう「離婚」にまでいかなくとも結婚生活を一旦「卒業」しようではないかということらしい。背景に高齢化時代を迎え、子育てを終えた夫婦のかつてない永い老後生活が待っているという現実がある。そこで「定年を迎えて一段落した夫婦が、これまで築いてきた家族や過去をいったんリセットして、それぞれが自分自身を取り戻し、自分の考える方向に進んでいくというライフスタイル」のススメが登場したということか。
昨日の夕食、久々に定時に帰ってきた娘も含めて、この卒婚を話題にした。「卒婚」志向の夫婦は、互いに自立の精神が根底にある。 子育てという現実を受け入れる中で双方がそれを包み込んで暮らしてきた。子育てを終え、定年という節目を迎えて俄かに「卒婚」というスタイルが身近になったということではないか。
とはいえ世間には「補い合う夫婦」もあるはずだ。少なくとも我が家の主婦は自立という精神から多分に自立している。我が家の自立という分野はもっぱら亭主の担当と心得ている節がある。その分、家族の世話はハンパじゃない。その過剰とも思える世話っぷりが今や我が家の生活スタイルを支配し定着化させている。それはそれで円滑な家族関係と言えなくもない。
そんな所感を二人に述べた。いまだに母親の世話に多くの部分を負っているパラサイト娘は「わかる、わかる」と積極的に賛意を示す。反発すべきか肯定すべきか複雑な心境だったに違いない主人公は、だんまりを決め込むことにしたようだ。いずれにしろ我が家に卒婚は無縁の世界のようではある。
昨日の夕食、久々に定時に帰ってきた娘も含めて、この卒婚を話題にした。「卒婚」志向の夫婦は、互いに自立の精神が根底にある。 子育てという現実を受け入れる中で双方がそれを包み込んで暮らしてきた。子育てを終え、定年という節目を迎えて俄かに「卒婚」というスタイルが身近になったということではないか。
とはいえ世間には「補い合う夫婦」もあるはずだ。少なくとも我が家の主婦は自立という精神から多分に自立している。我が家の自立という分野はもっぱら亭主の担当と心得ている節がある。その分、家族の世話はハンパじゃない。その過剰とも思える世話っぷりが今や我が家の生活スタイルを支配し定着化させている。それはそれで円滑な家族関係と言えなくもない。
そんな所感を二人に述べた。いまだに母親の世話に多くの部分を負っているパラサイト娘は「わかる、わかる」と積極的に賛意を示す。反発すべきか肯定すべきか複雑な心境だったに違いない主人公は、だんまりを決め込むことにしたようだ。いずれにしろ我が家に卒婚は無縁の世界のようではある。
鬼ノ城と円城寺の吉備路 ― 2009年06月06日

岡山の吉備中央町の施設に入居中の義父を3ヶ月ぶりに見舞った。かねて訪ねたいと思っていた施設最寄りの「鬼ノ城(きのじょう)」に立ち寄るため早朝7時過ぎに自宅を出発した。鬼城山(きじょうさん)の駐車場に着いたのは9時だった。
駐車場の傍らに鬼城山ビジターセンターがあり、鬼ノ城の無料の展示資料館になっている。ざっと見て回ってこの城の持つ意味を初めて知った。「かつて、朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(663)に朝鮮半島の白村江で大敗し、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、九州~瀬戸内海~畿内生駒山系 にいたる西日本の要所に朝鮮式山城を築城したことが日本書記に記されている」という。国指定史跡のこの鬼ノ城も「1300年ほど前、大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城とする説が有力である」とのこと。白村江の戦いは知っていたが、その後のこんな説は初めて知る驚くべき後日談だった。
山頂入口の西門を目指した。標高396mとはいえ駐車場自体がかなりの高さにある。緩やかな上り坂を5分ばかり歩くと西の山頂に着く。角楼がありその向こうに復元された建物が建つ西門の雄姿がある。角楼左手の第1展望にはここから見える眼下の風景の展望写真がある。日本屈指の前方後円墳である作山古墳を眼下に見ながら、大和と並ぶ古代国家・吉備国の盛衰を想った。すり鉢を伏せたような山容の平坦な頂きを2.8kmに渡って石垣が築かれている。第1展望から右回りに辿った。礎石建物跡、北門、土塁、屏風折れの石垣、第5水門、東門と城壁伝いに行く。崖の先に突き出た岩場の前に巨石が横たわっている。その側面に岩切観音と呼ばれる先手観音が刻まれている。更に南門、第2水門と進み西門に至ってようやく山頂一周の回遊を終える。この間、1時間30分の道のりだった。
10時40分頃に鬼城山駐車場を出て11時半に義父が入居する施設に着いた。個室のベッドを半分起こした姿で義父はお気に入りの「引揚げ船の写真集」に見入っていた。写真を通して自らの体験を思い起こすことがかけがえのない過ごし方になっているようだ。入れ歯を外したその顔は一回り老け込ませていたが思った以上に元気そうだ。昼前に義兄夫婦もやってきた。嫁と娘に交互に介添えされながら1時間ばかりをかけた昼食を終えた。1時半頃、見舞を終え施設を後にした。
義兄たちの情報をもとに昼食を摂るべく「道の駅かもがわ円城」に向った。道の駅のレストハウス・品野屋のドアに貼られた「じゃらんオリジナル500円丼・特製地どり丼」のポスターが目についた。早速オーダーするといかにも美味しそうな定食風の丼が出てきた。甘辛く煮込んだ岡山地どりや地元産ほうれん草やゆで卵が丼ご飯に色取り良く盛り付けられている。特製ダレをかけて食べて見る。素朴で懐かしい味がしみわたる絶品だった。
すぐ近くの古刹・円城寺に向った。品野屋の主人から境内横に駐車場があると聞いて仏閣のすぐ傍まで車を駆った。駐車場らしきものはなくUターンも叶わずやむなく境内に停めた。家内がUターンする間にひとりで境内を大急ぎでお参りした。仁王門、鐘楼、阿弥陀堂、本堂、提婆宮、芭蕉の句碑、宝篋印塔などが建ち並ぶ。山奥の寺院の想像以上の伽藍に驚かされる。案内板によれば、「当初、本宮山正法寺と称して行基の開山と伝えられ、鎌倉中期に現在の地に移され円城寺と改めた。かつては十余の僧坊が建ち並び、門前町として栄えた」とある。今もその名残りを残す古刹だった。
駐車場の傍らに鬼城山ビジターセンターがあり、鬼ノ城の無料の展示資料館になっている。ざっと見て回ってこの城の持つ意味を初めて知った。「かつて、朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(663)に朝鮮半島の白村江で大敗し、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、九州~瀬戸内海~畿内生駒山系 にいたる西日本の要所に朝鮮式山城を築城したことが日本書記に記されている」という。国指定史跡のこの鬼ノ城も「1300年ほど前、大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城とする説が有力である」とのこと。白村江の戦いは知っていたが、その後のこんな説は初めて知る驚くべき後日談だった。
山頂入口の西門を目指した。標高396mとはいえ駐車場自体がかなりの高さにある。緩やかな上り坂を5分ばかり歩くと西の山頂に着く。角楼がありその向こうに復元された建物が建つ西門の雄姿がある。角楼左手の第1展望にはここから見える眼下の風景の展望写真がある。日本屈指の前方後円墳である作山古墳を眼下に見ながら、大和と並ぶ古代国家・吉備国の盛衰を想った。すり鉢を伏せたような山容の平坦な頂きを2.8kmに渡って石垣が築かれている。第1展望から右回りに辿った。礎石建物跡、北門、土塁、屏風折れの石垣、第5水門、東門と城壁伝いに行く。崖の先に突き出た岩場の前に巨石が横たわっている。その側面に岩切観音と呼ばれる先手観音が刻まれている。更に南門、第2水門と進み西門に至ってようやく山頂一周の回遊を終える。この間、1時間30分の道のりだった。
10時40分頃に鬼城山駐車場を出て11時半に義父が入居する施設に着いた。個室のベッドを半分起こした姿で義父はお気に入りの「引揚げ船の写真集」に見入っていた。写真を通して自らの体験を思い起こすことがかけがえのない過ごし方になっているようだ。入れ歯を外したその顔は一回り老け込ませていたが思った以上に元気そうだ。昼前に義兄夫婦もやってきた。嫁と娘に交互に介添えされながら1時間ばかりをかけた昼食を終えた。1時半頃、見舞を終え施設を後にした。
義兄たちの情報をもとに昼食を摂るべく「道の駅かもがわ円城」に向った。道の駅のレストハウス・品野屋のドアに貼られた「じゃらんオリジナル500円丼・特製地どり丼」のポスターが目についた。早速オーダーするといかにも美味しそうな定食風の丼が出てきた。甘辛く煮込んだ岡山地どりや地元産ほうれん草やゆで卵が丼ご飯に色取り良く盛り付けられている。特製ダレをかけて食べて見る。素朴で懐かしい味がしみわたる絶品だった。
すぐ近くの古刹・円城寺に向った。品野屋の主人から境内横に駐車場があると聞いて仏閣のすぐ傍まで車を駆った。駐車場らしきものはなくUターンも叶わずやむなく境内に停めた。家内がUターンする間にひとりで境内を大急ぎでお参りした。仁王門、鐘楼、阿弥陀堂、本堂、提婆宮、芭蕉の句碑、宝篋印塔などが建ち並ぶ。山奥の寺院の想像以上の伽藍に驚かされる。案内板によれば、「当初、本宮山正法寺と称して行基の開山と伝えられ、鎌倉中期に現在の地に移され円城寺と改めた。かつては十余の僧坊が建ち並び、門前町として栄えた」とある。今もその名残りを残す古刹だった。
蛍ウォークラリー ― 2009年06月07日

昨晩、地元でホタルウォークラリーが開催された。薄暮の山口中央公園には子供連れのファミリーを中心に大勢の参加者の姿があった。山口にこれほど大勢の人を集めるイベントがあったことに驚きを隠せない。7時30分、主催者である地元青愛協会長の挨拶で開会した。
子供たちが描いた「ホタルを守ろう」ポスターの優秀作品が表彰された。主催者が「有馬川沿いに掲示されている子供たちのポスターを是非見てほしい」と保護者たちに呼びかける。子供たちはポスターを描くことで自然にホタルが生息できることの大切さを学ぶだろう。我が子のポスターがホタルの保護に一役買っていることを保護者たちも教えられる。いつかこの街を巣立っていくかもしれない子供たちにとっても故郷の自然と思い出の貴重なひとこまとなるだろう。ポスターを描くことの意味は大きい。
プロジェクターを通してのパソコンデータによる即席ホタル講座が開講される。ラリー途中に設けられた3ヶ所のチェックポイントにはそれぞれに四択のクイズが掲示され、全問正解者には賞品が貰える。その解答がこの講座に含まれている。13回目を数えるこの催しの蓄積された巧みな演出が光る。
暗闇が広場を覆いだした8時頃、出発受付前の解答用紙を貰う長い行列の先頭から順次、参加者たちが出発する。平成橋たもとから有馬川緑道に入ると、いきなり川面に点滅している数多くのホタルが目に入る。一週間前に個人で散策した際には見つけるのに苦労した。永年の蛍の生態観察の成果が、この催しの最適な日程設定を可能にしている。遊歩道沿い草叢からホタルが飛び出し子供たちの嬌声があがる。川面を飛び交う黄緑の光の幾筋もの流れに鑑賞者のため息が聞こえる。
しばらく歩くと最初のチェックポイントが待っていた。「ホタルが住みやすい環境を守っていくには私たちは何をしたら良いでしょうか?」という質問に4つの解答が用意されている。以下、第2ポイントでは「ホタルが最も多く飛び回るのはいつごろですか?」、第3ポイントでは「ゲンジボタルのメスはどんな所に卵を産むでしょうか?」といった具合だ。各チェックポイントやゴール地点には多くの青愛協関係者が配置されている。交差点や横断補導にもそれぞれに数名の警備員が立っている。この催しを支えている多くボランティアたちの努力と費やされた費用の大きさを思った。
中野高架橋下のゴール地点の人だかりが見える。山口中央公園から約2kmの道のりをチェックポイントをクリアしながら辿り着いた参加者たちだ。解答用紙と引換えに賞品を貰って引換えしてくる。8時45分を示している腕時計を確認しながら折り返した。初めて参加した地元の貴重なイベントだった。今後私にとっても毎年の恒例行事になるだろうと予感しながら帰路に着いた。
子供たちが描いた「ホタルを守ろう」ポスターの優秀作品が表彰された。主催者が「有馬川沿いに掲示されている子供たちのポスターを是非見てほしい」と保護者たちに呼びかける。子供たちはポスターを描くことで自然にホタルが生息できることの大切さを学ぶだろう。我が子のポスターがホタルの保護に一役買っていることを保護者たちも教えられる。いつかこの街を巣立っていくかもしれない子供たちにとっても故郷の自然と思い出の貴重なひとこまとなるだろう。ポスターを描くことの意味は大きい。
プロジェクターを通してのパソコンデータによる即席ホタル講座が開講される。ラリー途中に設けられた3ヶ所のチェックポイントにはそれぞれに四択のクイズが掲示され、全問正解者には賞品が貰える。その解答がこの講座に含まれている。13回目を数えるこの催しの蓄積された巧みな演出が光る。
暗闇が広場を覆いだした8時頃、出発受付前の解答用紙を貰う長い行列の先頭から順次、参加者たちが出発する。平成橋たもとから有馬川緑道に入ると、いきなり川面に点滅している数多くのホタルが目に入る。一週間前に個人で散策した際には見つけるのに苦労した。永年の蛍の生態観察の成果が、この催しの最適な日程設定を可能にしている。遊歩道沿い草叢からホタルが飛び出し子供たちの嬌声があがる。川面を飛び交う黄緑の光の幾筋もの流れに鑑賞者のため息が聞こえる。
しばらく歩くと最初のチェックポイントが待っていた。「ホタルが住みやすい環境を守っていくには私たちは何をしたら良いでしょうか?」という質問に4つの解答が用意されている。以下、第2ポイントでは「ホタルが最も多く飛び回るのはいつごろですか?」、第3ポイントでは「ゲンジボタルのメスはどんな所に卵を産むでしょうか?」といった具合だ。各チェックポイントやゴール地点には多くの青愛協関係者が配置されている。交差点や横断補導にもそれぞれに数名の警備員が立っている。この催しを支えている多くボランティアたちの努力と費やされた費用の大きさを思った。
中野高架橋下のゴール地点の人だかりが見える。山口中央公園から約2kmの道のりをチェックポイントをクリアしながら辿り着いた参加者たちだ。解答用紙と引換えに賞品を貰って引換えしてくる。8時45分を示している腕時計を確認しながら折り返した。初めて参加した地元の貴重なイベントだった。今後私にとっても毎年の恒例行事になるだろうと予感しながら帰路に着いた。
船坂の元気 ― 2009年06月08日
山口町に船坂という地区がある。16世紀末の太閤検地以来、名来、下山口、上山口、中野、船坂の五ケ村が山口の村域として数えられていた。とはいえ船坂は、他の四カ村との地理的な隔たりや歴史的な発展過程や気候風土の違いから、船坂は独自の生活文化圏を形成してきたと思われる。
その船坂が今元気だ。昨春に「船坂盛り上げ隊」という自由参加の組織が生まれた。自治会等の既存組織の枠を超えた情報共有のネット新聞「船坂新聞」が10月に創刊され、以降毎月定期発行されている。船坂新聞創刊号では船坂盛り上げ隊の役割を「船坂で行われる諸行事を支援したり情報を共有したりしながら、船坂を盛り上げる助っ人的役割を担っていきたい」と記している。船坂新聞は船坂の様々な行事やイベントをいきいきと伝えている。ふれあい広場 (音楽会・運動会・盆踊りなど) 、山王神社秋祭り、茅葺き屋根の古民家再生の取組み、船坂小学校存廃問題の報道、里山芸術祭の企画等々である。今は廃業となった寒天作りの聞き取りや「船坂がたり」という特集での歴史的な事跡の報道も活発だ。地域の歴史・伝統文化・風俗風土を大切に守り伝えようという意欲が伝わる。
同時に船坂で次々に企画され、実行されている行事やイベントが、地域の人たちの新たな交流やつながりを生み出しているだろうことも見逃せない。既存の組織の枠を超えた連携や協働が生まれているに違いない。そうした動きを組織の枠を超えて伝えられる船坂新聞の役割も無視できない。過疎化し高齢化していく地域社会にあって、新たなコミュニティーの再生というテーマが乗り越えるべきハードルは限りなく高い。既存組織の連携、世代間の交流、旧住民と新規移住者間の協働などのハードルを着実に越えつつあるかに見える船坂の取組みに目が離せない。
その船坂が今元気だ。昨春に「船坂盛り上げ隊」という自由参加の組織が生まれた。自治会等の既存組織の枠を超えた情報共有のネット新聞「船坂新聞」が10月に創刊され、以降毎月定期発行されている。船坂新聞創刊号では船坂盛り上げ隊の役割を「船坂で行われる諸行事を支援したり情報を共有したりしながら、船坂を盛り上げる助っ人的役割を担っていきたい」と記している。船坂新聞は船坂の様々な行事やイベントをいきいきと伝えている。ふれあい広場 (音楽会・運動会・盆踊りなど) 、山王神社秋祭り、茅葺き屋根の古民家再生の取組み、船坂小学校存廃問題の報道、里山芸術祭の企画等々である。今は廃業となった寒天作りの聞き取りや「船坂がたり」という特集での歴史的な事跡の報道も活発だ。地域の歴史・伝統文化・風俗風土を大切に守り伝えようという意欲が伝わる。
同時に船坂で次々に企画され、実行されている行事やイベントが、地域の人たちの新たな交流やつながりを生み出しているだろうことも見逃せない。既存の組織の枠を超えた連携や協働が生まれているに違いない。そうした動きを組織の枠を超えて伝えられる船坂新聞の役割も無視できない。過疎化し高齢化していく地域社会にあって、新たなコミュニティーの再生というテーマが乗り越えるべきハードルは限りなく高い。既存組織の連携、世代間の交流、旧住民と新規移住者間の協働などのハードルを着実に越えつつあるかに見える船坂の取組みに目が離せない。
三田の大舟山と大舟寺めぐり ― 2009年06月09日

ご近所のご夫婦と私たち夫婦四人で三田市北東の波豆川にある大舟山に登った。朝9時に自宅を出て麓の三田アスレチックの駐車場に着いたのは9時45分だった。
登山コース案内板には山頂まで1.7kmとある。今は廃業したアスレチックの施設や遊戯具の真中を抜ける舗装路がスタート直後の登山道だ。比較的平坦な山道が続き、まもなく右手に西国三十三所霊場がある。小さな祠と十数体の石仏が並んでいる。山道を20分ほど登ると「十倉と波豆川の峠」を示す案内板があった。しばらく休憩し、「大舟山頂870m」の看板に従って峠道を直角に左折する登山道に向う。徐々にきつくなる山道を更に20分ばかり登った所に分岐点がある。ちょっとした休憩地になっており、丸太を立てた椅子と記帳ノートの入った箱が設置されている。登ってきたコースに向き合って立つ標識には左方向に「大舟寺跡130m」、右方向に「大船山頂350m」と記されている。休憩しているという女性陣を残し、男二人が大舟寺跡を目指した。廃れつつある道を5分ばかり行くとそれらしき平地に出た。「舟寺跡」の案内看板があった。これによると1400年前に百済の僧がこの山で修行の末、舟寺を創立、その後来山した空海により大舟寺と寺号を自然石に彫り、七堂伽藍が建てられた。1499年に堂宇の維持が困難になり現在の地に移されたという。分岐点に戻り山頂を目指す。ガイドブックには5分の道のりとあったがトンデモナイ。最後の登山道はことのほか険しい。木々にめぐらされたロープで支えられながら息絶え絶えに山頂に向う。「夜明け前の闇が最も深い」という言葉が浮ぶ。
分岐点から25分後の11時にようやく山頂に立った。正面には神々の降臨の斉庭跡とされる石を組んだ「磐境(いわさか)」があり、案内看板が立っている。尖ったような山容の山頂は自ずと狭い。とはいえ標高653.1mの近隣の山々を見下ろす高さからの展望は圧巻だった。木々に囲まれた東側を除き雄大なパノラマが広がっている。山頂片隅に個人名、72才の年齢、年月表に日付と思われる数字を書いた板が立っていた。最後の日付の平成21年12月2日以降の記載はない。故人となった縁者の登山記録を記念して立てたものだろう。70歳を越えて月4回ペースでこの険しい山を踏破したことが窺える。故人の凄さを記念せずにはおれなかった縁者の想いが伝わった。男性二人は恒例の缶ビールがもたらす至福の時を過ごす。三木からやってきたという中年ご夫婦が合流した。相互に記念写真を撮り合う。持参のおにぎりや玉子焼きで腹ごしらえを済ませ12時過ぎに下山する。
休み休みで1時間15分かかった登山路を50分程度で下山した。駐車場から南に向う一本道の東側山裾に見事な茅葺き屋根の一軒家があった。下車して近くまで行き画像に収めた。近くの畦道では同伴のご近所の奥さんが目ざとくわらびを見つけ急遽山菜採りが始まっている。一緒になって愉しんだ。一本道から北東に入った先に大舟寺があった。
山門下の駐車場に車を停めて参拝する。山門をくぐった先の緩やかな石段上の右側に見事な大木が大きな枝を広げている。傍の案内板には樹齢3百年以上の県指定天然記念物「大舟寺のカヤ」とある。境内の左右に茅葺き屋根の建物がある。左手の庫裏と右手の鐘楼である。正面石段上には独特の形をした甍の屋根をもつ本堂がある。その手前には苔むしたいくつもの石碑や墓石が並んでいる。本堂前で参拝を済ませ、裏手の墓地を見て回る。振り返ると本堂の屋根越しに登頂したばかりの大舟山の雄姿が覗いている。大舟山と大舟寺の絶好の組み合わせ図を切り取った。
自宅に戻ったのは2時半だった。山登りだけでなく、古民家探訪や山菜採り、山ゆかりの古刹参拝と盛りだくさんの愉しさを満喫した。
登山コース案内板には山頂まで1.7kmとある。今は廃業したアスレチックの施設や遊戯具の真中を抜ける舗装路がスタート直後の登山道だ。比較的平坦な山道が続き、まもなく右手に西国三十三所霊場がある。小さな祠と十数体の石仏が並んでいる。山道を20分ほど登ると「十倉と波豆川の峠」を示す案内板があった。しばらく休憩し、「大舟山頂870m」の看板に従って峠道を直角に左折する登山道に向う。徐々にきつくなる山道を更に20分ばかり登った所に分岐点がある。ちょっとした休憩地になっており、丸太を立てた椅子と記帳ノートの入った箱が設置されている。登ってきたコースに向き合って立つ標識には左方向に「大舟寺跡130m」、右方向に「大船山頂350m」と記されている。休憩しているという女性陣を残し、男二人が大舟寺跡を目指した。廃れつつある道を5分ばかり行くとそれらしき平地に出た。「舟寺跡」の案内看板があった。これによると1400年前に百済の僧がこの山で修行の末、舟寺を創立、その後来山した空海により大舟寺と寺号を自然石に彫り、七堂伽藍が建てられた。1499年に堂宇の維持が困難になり現在の地に移されたという。分岐点に戻り山頂を目指す。ガイドブックには5分の道のりとあったがトンデモナイ。最後の登山道はことのほか険しい。木々にめぐらされたロープで支えられながら息絶え絶えに山頂に向う。「夜明け前の闇が最も深い」という言葉が浮ぶ。
分岐点から25分後の11時にようやく山頂に立った。正面には神々の降臨の斉庭跡とされる石を組んだ「磐境(いわさか)」があり、案内看板が立っている。尖ったような山容の山頂は自ずと狭い。とはいえ標高653.1mの近隣の山々を見下ろす高さからの展望は圧巻だった。木々に囲まれた東側を除き雄大なパノラマが広がっている。山頂片隅に個人名、72才の年齢、年月表に日付と思われる数字を書いた板が立っていた。最後の日付の平成21年12月2日以降の記載はない。故人となった縁者の登山記録を記念して立てたものだろう。70歳を越えて月4回ペースでこの険しい山を踏破したことが窺える。故人の凄さを記念せずにはおれなかった縁者の想いが伝わった。男性二人は恒例の缶ビールがもたらす至福の時を過ごす。三木からやってきたという中年ご夫婦が合流した。相互に記念写真を撮り合う。持参のおにぎりや玉子焼きで腹ごしらえを済ませ12時過ぎに下山する。
休み休みで1時間15分かかった登山路を50分程度で下山した。駐車場から南に向う一本道の東側山裾に見事な茅葺き屋根の一軒家があった。下車して近くまで行き画像に収めた。近くの畦道では同伴のご近所の奥さんが目ざとくわらびを見つけ急遽山菜採りが始まっている。一緒になって愉しんだ。一本道から北東に入った先に大舟寺があった。
山門下の駐車場に車を停めて参拝する。山門をくぐった先の緩やかな石段上の右側に見事な大木が大きな枝を広げている。傍の案内板には樹齢3百年以上の県指定天然記念物「大舟寺のカヤ」とある。境内の左右に茅葺き屋根の建物がある。左手の庫裏と右手の鐘楼である。正面石段上には独特の形をした甍の屋根をもつ本堂がある。その手前には苔むしたいくつもの石碑や墓石が並んでいる。本堂前で参拝を済ませ、裏手の墓地を見て回る。振り返ると本堂の屋根越しに登頂したばかりの大舟山の雄姿が覗いている。大舟山と大舟寺の絶好の組み合わせ図を切り取った。
自宅に戻ったのは2時半だった。山登りだけでなく、古民家探訪や山菜採り、山ゆかりの古刹参拝と盛りだくさんの愉しさを満喫した。
大阪府副知事を迎えた異業種交流会 ― 2009年06月10日

昨晩の異業種交流会の6月例会は異例尽くめの例会だった。まず講師が現役の大阪府副知事というかってない著名人だった。幹事の一人・M氏の中学時代の同級生という縁で来場頂いた。次に著名人講師ということもあり30名という多数の参加者を得た。会場もまたいつもの料理屋の大部屋が、難波駅前の一等地の「ホテル一栄」の円卓を並べた宴会場が準備された。ついでにいつもの会費がアップしたことも追記せねばなるまい。
7時過ぎスピーチの開会が告げられる。講師紹介ではM氏から「橋下知事をサポートする上での本音の苦労話などもぜひ・・・」という注文が入る。「将来ビジョン・大坂」と題したレジュメと同じタイトルのパワーポイント作成資料、府発行パンフレットが参加者に配られる。小河大阪府副知事の登壇である。還暦を迎えたはずの年齢とは思えない若々しいそして優しさを漂わせた紳士のスピーチが始まった。
「3人の副知事のなかで唯一の前知事時代からの生き残りです」と、いきなり率直な発言がついてでる。「技術屋出身という特性が重宝されているのでしょう」との自己分析だが、その面はあったとしても無論それだけではあるまい。そこの所をじっくりと拝察しよう。「橋下知事との初めての出会いは彼が知事候補者だった時でした。名刺交換の後の彼のスピーチでは、『さっきも副知事さんにお会いしましたので余り大阪府の悪口も言えませんが・・・』と早速話題のネタにされました。テレビ出演の多かった人だけにさすがにツカミの鋭さは一流です。受け狙いの発言が多いのも事実ですが、人一倍勉強家です。勉強の結果、間違いだと判断した場合の撤回の素早さも見事です。他の政治家にない魅力を備えた人です」と、側近でもある副知事からみた橋下観が語られる。若くて異色の型破り知事の女房役の一人である。苦労がないわけではない筈だ。そんな気持ちを微塵も感じさせず、聴衆が知りたいと思っている筈のことを、この人ならでは言い方で媚びることなくサラリと言ってのける。こうして一気に聴衆を引き込むツカミの鋭さは、なかなかどうして大したものだ。
スピーチの本題は、財政再建を中心課題に華々しくもドラスティックに発進した「橋下府政の現状と今後」を、誠実にアナウンスしようということだったと思われる。そのためにまず「橋下改革」のベースでもある「大坂維新プログラム」の現状が述べられ、財政再建、政策創造、府庁改革の三つのミッションが触れられる。興味深かったのは府庁改革での情報公開という点だった。「部長会議ではテレビカメラが入るのが当たり前になった。会議後、モニターを見ていた議員による幹部職員のチェックが入ったりする。おかげで当初は萎縮気味だった会議が積極的な議論の場に変りつつある」。府庁改革の具体的な成果のわかりやすいコメントだった。かつてゴルバチョフが巨大官僚機構と化したソ連を情報公開手法で改革を試みたペレストロイカを想起させられた。
副知事がむしろ訴えたかったのは、スピーチのタイトル「将来ビジョン・大坂」が示すように「改革の先に目指すもの」だったに違いない。橋下改革はともすれば「切り捨て」部分に焦点が当たりがちである。1年3ヶ月を経過し財政再建に一定の道筋をつけた今、あらためて「維新の先の未来像」が問われている。これに答えたものが「将来ビジョン・大坂」である。産業、環境、文化、府民生活、教育の各分野でのビジョンが述べられる。とりわけ自ら所管する環境、都市整備に関わる分野のアナウンスには力がこもる。中でも「大坂ミュージアム」構想は現実的で夢のある構想に思えた。府下の現にある古い街並みなどの資産を発掘・再発見し、活用し楽しむための仕掛けを施し、他の資産とストーリー性を持たせて結びつけ、発信しようというものである。副知事から頂いた「大坂ミュージアム構想」と大書された名刺は裏表が全く同じという不思議なデザインである。ところがスピーチで種明かしがあった。名前の横の西国街道風景の写真の片方には風情を壊す見苦しい電線が走っている。土木出身の技術者の目にはミュージアム構想実現の重要な課題に写るようだ。この構想にかける副知事の想いの深さが伝わってくる。
1時間ほどのスピーチが終った。「府政改革と将来ビジョン」のトップセールスマンとしての見事なトークだった。随所に聴衆を惹きつける子ネタを配し、短時間で効率よくテーマの全体像が語られた。それでいて自身の所管事項や想い入れの深い点はきちんとアピールすることで存在感が示される。前知事から二代に渡る異例の副知事就任は伊達じゃない。「技術屋出身の特性」を越えた有能な行政マンが聴衆の惜しみない拍手の中で降壇した。
7時過ぎスピーチの開会が告げられる。講師紹介ではM氏から「橋下知事をサポートする上での本音の苦労話などもぜひ・・・」という注文が入る。「将来ビジョン・大坂」と題したレジュメと同じタイトルのパワーポイント作成資料、府発行パンフレットが参加者に配られる。小河大阪府副知事の登壇である。還暦を迎えたはずの年齢とは思えない若々しいそして優しさを漂わせた紳士のスピーチが始まった。
「3人の副知事のなかで唯一の前知事時代からの生き残りです」と、いきなり率直な発言がついてでる。「技術屋出身という特性が重宝されているのでしょう」との自己分析だが、その面はあったとしても無論それだけではあるまい。そこの所をじっくりと拝察しよう。「橋下知事との初めての出会いは彼が知事候補者だった時でした。名刺交換の後の彼のスピーチでは、『さっきも副知事さんにお会いしましたので余り大阪府の悪口も言えませんが・・・』と早速話題のネタにされました。テレビ出演の多かった人だけにさすがにツカミの鋭さは一流です。受け狙いの発言が多いのも事実ですが、人一倍勉強家です。勉強の結果、間違いだと判断した場合の撤回の素早さも見事です。他の政治家にない魅力を備えた人です」と、側近でもある副知事からみた橋下観が語られる。若くて異色の型破り知事の女房役の一人である。苦労がないわけではない筈だ。そんな気持ちを微塵も感じさせず、聴衆が知りたいと思っている筈のことを、この人ならでは言い方で媚びることなくサラリと言ってのける。こうして一気に聴衆を引き込むツカミの鋭さは、なかなかどうして大したものだ。
スピーチの本題は、財政再建を中心課題に華々しくもドラスティックに発進した「橋下府政の現状と今後」を、誠実にアナウンスしようということだったと思われる。そのためにまず「橋下改革」のベースでもある「大坂維新プログラム」の現状が述べられ、財政再建、政策創造、府庁改革の三つのミッションが触れられる。興味深かったのは府庁改革での情報公開という点だった。「部長会議ではテレビカメラが入るのが当たり前になった。会議後、モニターを見ていた議員による幹部職員のチェックが入ったりする。おかげで当初は萎縮気味だった会議が積極的な議論の場に変りつつある」。府庁改革の具体的な成果のわかりやすいコメントだった。かつてゴルバチョフが巨大官僚機構と化したソ連を情報公開手法で改革を試みたペレストロイカを想起させられた。
副知事がむしろ訴えたかったのは、スピーチのタイトル「将来ビジョン・大坂」が示すように「改革の先に目指すもの」だったに違いない。橋下改革はともすれば「切り捨て」部分に焦点が当たりがちである。1年3ヶ月を経過し財政再建に一定の道筋をつけた今、あらためて「維新の先の未来像」が問われている。これに答えたものが「将来ビジョン・大坂」である。産業、環境、文化、府民生活、教育の各分野でのビジョンが述べられる。とりわけ自ら所管する環境、都市整備に関わる分野のアナウンスには力がこもる。中でも「大坂ミュージアム」構想は現実的で夢のある構想に思えた。府下の現にある古い街並みなどの資産を発掘・再発見し、活用し楽しむための仕掛けを施し、他の資産とストーリー性を持たせて結びつけ、発信しようというものである。副知事から頂いた「大坂ミュージアム構想」と大書された名刺は裏表が全く同じという不思議なデザインである。ところがスピーチで種明かしがあった。名前の横の西国街道風景の写真の片方には風情を壊す見苦しい電線が走っている。土木出身の技術者の目にはミュージアム構想実現の重要な課題に写るようだ。この構想にかける副知事の想いの深さが伝わってくる。
1時間ほどのスピーチが終った。「府政改革と将来ビジョン」のトップセールスマンとしての見事なトークだった。随所に聴衆を惹きつける子ネタを配し、短時間で効率よくテーマの全体像が語られた。それでいて自身の所管事項や想い入れの深い点はきちんとアピールすることで存在感が示される。前知事から二代に渡る異例の副知事就任は伊達じゃない。「技術屋出身の特性」を越えた有能な行政マンが聴衆の惜しみない拍手の中で降壇した。
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