鬼ノ城と円城寺の吉備路2009年06月06日

 岡山の吉備中央町の施設に入居中の義父を3ヶ月ぶりに見舞った。かねて訪ねたいと思っていた施設最寄りの「鬼ノ城(きのじょう)」に立ち寄るため早朝7時過ぎに自宅を出発した。鬼城山(きじょうさん)の駐車場に着いたのは9時だった。
 駐車場の傍らに鬼城山ビジターセンターがあり、鬼ノ城の無料の展示資料館になっている。ざっと見て回ってこの城の持つ意味を初めて知った。「かつて、朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(663)に朝鮮半島の白村江で大敗し、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、九州~瀬戸内海~畿内生駒山系 にいたる西日本の要所に朝鮮式山城を築城したことが日本書記に記されている」という。国指定史跡のこの鬼ノ城も「1300年ほど前、大和政権により国土防衛のために築かれた古代山城とする説が有力である」とのこと。白村江の戦いは知っていたが、その後のこんな説は初めて知る驚くべき後日談だった。
 山頂入口の西門を目指した。標高396mとはいえ駐車場自体がかなりの高さにある。緩やかな上り坂を5分ばかり歩くと西の山頂に着く。角楼がありその向こうに復元された建物が建つ西門の雄姿がある。角楼左手の第1展望にはここから見える眼下の風景の展望写真がある。日本屈指の前方後円墳である作山古墳を眼下に見ながら、大和と並ぶ古代国家・吉備国の盛衰を想った。すり鉢を伏せたような山容の平坦な頂きを2.8kmに渡って石垣が築かれている。第1展望から右回りに辿った。礎石建物跡、北門、土塁、屏風折れの石垣、第5水門、東門と城壁伝いに行く。崖の先に突き出た岩場の前に巨石が横たわっている。その側面に岩切観音と呼ばれる先手観音が刻まれている。更に南門、第2水門と進み西門に至ってようやく山頂一周の回遊を終える。この間、1時間30分の道のりだった。 
 10時40分頃に鬼城山駐車場を出て11時半に義父が入居する施設に着いた。個室のベッドを半分起こした姿で義父はお気に入りの「引揚げ船の写真集」に見入っていた。写真を通して自らの体験を思い起こすことがかけがえのない過ごし方になっているようだ。入れ歯を外したその顔は一回り老け込ませていたが思った以上に元気そうだ。昼前に義兄夫婦もやってきた。嫁と娘に交互に介添えされながら1時間ばかりをかけた昼食を終えた。1時半頃、見舞を終え施設を後にした。
 義兄たちの情報をもとに昼食を摂るべく「道の駅かもがわ円城」に向った。道の駅のレストハウス・品野屋のドアに貼られた「じゃらんオリジナル500円丼・特製地どり丼」のポスターが目についた。早速オーダーするといかにも美味しそうな定食風の丼が出てきた。甘辛く煮込んだ岡山地どりや地元産ほうれん草やゆで卵が丼ご飯に色取り良く盛り付けられている。特製ダレをかけて食べて見る。素朴で懐かしい味がしみわたる絶品だった。
 すぐ近くの古刹・円城寺に向った。品野屋の主人から境内横に駐車場があると聞いて仏閣のすぐ傍まで車を駆った。駐車場らしきものはなくUターンも叶わずやむなく境内に停めた。家内がUターンする間にひとりで境内を大急ぎでお参りした。仁王門、鐘楼、阿弥陀堂、本堂、提婆宮、芭蕉の句碑、宝篋印塔などが建ち並ぶ。山奥の寺院の想像以上の伽藍に驚かされる。案内板によれば、「当初、本宮山正法寺と称して行基の開山と伝えられ、鎌倉中期に現在の地に移され円城寺と改めた。かつては十余の僧坊が建ち並び、門前町として栄えた」とある。今もその名残りを残す古刹だった。